13.【ハルト】十歳 王太子逃亡
決行は夜中。
明日になれば降臨式典という、新たに神託が下された勇者をお披露目する式典の準備が始まる。そうなれば人がひっきりなしにやってきて逃げ出すタイミングを失うだろうし、気が付いたら神殿に連行されていた……なんてこともありそうで恐い。
であれば神託を受けた今日、この時が脱走する最大のチャンスだ。
準備だって万全だし、もう迷うこともない。
俺はクローゼットの底板を外し、城下で活動するために使っていた冒険者用の服装に着替え、情報屋が用意してくれて以降愛用していた地味ながらも使い勝手の良いフード付きマントを羽織った。
その下に道具類を詰めた鞄を背負う。
持ち物には一切城のものを入れていない。身バレ対策だ。
持っていくものは全て自ら冒険者ギルドで稼いだお金で購入したものばかり。食料も冒険者ギルドの先輩方からアドバイスを貰って、常に一定量の干し肉と乾パン、調味料を数種類鞄に詰め込んである。
鞄の中には木製の丈夫なコップや小さな鍋も入っていたりする……なんて言うと荷物が大きくなりそうな気もするが、幸か不幸か俺は神聖魔術が得意だ。神聖魔術は治癒魔術の上位互換だから、当然のように回復や浄化といった魔術がある。
しかもこっそり思念発動を自主訓練して身につけているので、例え怪我をしても体調を崩しても即座に自力回復が可能だ。仲間がいるならまだしも、一人旅なのだから傷薬や解毒薬を多く持っていく必要はない。
というわけで、持っていく治療用アイテム類は最小限にして、余ったスペースをコップや鍋に割り当てた。
嵩張っているのはスクロールだな……。
俺は付与魔術が苦手だ。付与魔術と言うか、干渉系魔術が大の苦手だ。詠唱すれば使えるが、効果が薄い。
けれど逃亡には体力と脚力が必要だ。体力の方は神聖魔術で回復すれば対処できるが、脚力ばかりはスクロールに頼らざるを得ない。なので目的地まで逃げ切るために、脚力強化のスクロールを十枚ほど用意した。
これで必要なものは揃っているはず。
不安があるとしたら、逃げる際に邪魔になることを懸念して長剣を持っていけない点だろうか。
俺はため息をつきつつ短剣を腰に佩いて、気合いを入れるべくベルトを締め直した。
そっと自室の扉を開き、廊下に顔を出す。
今日の日を想定して、ニ年前から「人の気配が気になって眠れない」と言い続けたおかげで俺の部屋の外には衛兵がいない。
王族たる者それぐらい慣れろとか色々言われたりもしたけど、これだけは頑として譲らなかった。敢えて徹夜を繰り返して目の下の隈まで作って見せること数回、最後には父が折れ、俺の部屋の前に衛兵を配置しなくなった。
おかげでこうして自室の扉を開けるのにびくつかなくていいのだから、言ってみるもんだなと思う。
廊下の右手側を見る。
誰もいない。
廊下の左手側も見る。
誰もいない。
一応、もう一度右手側を見る。
よし、誰もいない……!
俺は扉の外へと滑るように出ると、慎重に、音を立てないように扉を閉めた。
そのまま人目につかないよう、暗い廊下を素早く移動する。もちろん足音なんて立てない。というか、絨毯がいい仕事をしてくれるから足音を殺すのに苦労せずに済んだ。
所々に警備兵はいるけれど、彼らも全ての廊下にいるわけではない。
警備の配置と警邏網はここニ年の偵察と、国王の仕事を見て学ぶ実地練習の際に目にした警備計画書の数々を基に、ある程度把握済みだ。多少の変更があったとしてもそう大幅に変わるとは思えないので問題ない。
警備をしていようが、巡回していようが、全く抜け道がないわけではないのだ。
俺は自分で予測した数パターンのどれであっても警備が薄いであろう経路を選択して移動する。
要人が少ないエリアならば、内部も外部も警備が緩い箇所がある。
こんなに忍び込むのに持ってこいの穴があるのに今までよく忍び込まれなかったな……と、割と本気で驚くくらいだ。でも今はそれが有り難い。
やがて目的の、人気のない区域の硝子戸に辿り着く。今日ばかりはあの仕掛け扉を開けている暇がないので、別の方法で外に出なければならない。
別の方法。それは、城壁越えだ。
この硝子戸の外は小さなバルコニーになっていて、その下は城の裏庭。目線の高さに城壁の天端面がある。
一番警備が疎かで、最も城壁に近く、脱走に向いている場所。それが三階奥にあるこの場所だった。
俺の検証結果では脚力強化のスクロールを使えばこのバルコニーから城壁の上までジャンプで届くし、城壁から飛び降りても風属性の魔術で衝撃を和らげれば強化した脚力で問題なく着地できる。
俺、風属性魔術が得意で本当によかった。
内外の気配を慎重に探り、そっと内側から鍵を開け、さっと外に出て戸を閉める。
音がしないように、慎重に鍵掛けの魔術を行使。土属性のマイナーな魔術だ。
「総ての根源たる力よ、我が声を聴き、応えよ。
其は地中より生まれしものより造られた錠。
錠は掛けられるもの。
今こそ正しく閉じよ。
“施錠”」
カチリ、と錠が掛かる音がした。やや犯罪チックな魔術だけど、使えるものはどんどん活用しようと思い、魔術の師に内緒で身につけた魔術だ。
無事鍵が掛かったのを確認すると、リュックから一枚のスクロールを取り出す。ある意味、ここからが本番だ。
何回か深呼吸をして心臓を落ち着ける。
ここを飛び出したら一気に城壁を越え、城下街を抜け、城下街を囲う壁をも越えて夜のうちに北部山地に逃げ込む予定だ。
さすがに街道が整備されていない北部山地に逃げ込むとは誰も思わないだろう。
北部山地到着後はそのまま北上して、関所を通らないルートを探して魔族領に入る。人族の国では各国の王族に顔が割れているし、明日明後日には大陸にある人族の国全てに俺の手配書が回ってすぐに見つかってしまうだろう。
と言うのも、恐ろしいことにこの世界には念話なる魔術が存在するのだ。
一度互いの魔力を認識するために魔力同士を接続する必要がある(と言っても俺にはその方法がよくわからない)が、魔力認識済みであればどれだけ離れていても魔力を消費して相手に声を伝えられ、熟練の使い手になればイメージした映像も伝達できるのだとか。
明日俺がいなくなったと気付かれた時にこの魔術を使われれば、この大陸の人族の国にはあっという間に手配書が回るはず。
故に、逃げ込む先は人族の国ではなく、魔族領に決めた。情報屋の話によれば、アールグラントに近い場所に比較的安全な村……フォルニード村があるらしいので、ひとまずそこを目指す。
その後どうするかなんて考えていないし、逃げてどうなるとも思っていないけれど……でも、やはり俺に勇者なんて荷が重すぎる。他の生き方を模索したいのだ。
あーあ。何で王族の、しかも第一王子なんて立場に生まれちゃったんだろうなぁ。
せめて平民だったら逃げ出すことにここまでの罪悪感を感じなくて済んだかもしれないのに。
だが今更そんなことを思っても意味などない。とにかくまず目指すはフォルニード村だ。
そのあとのことは、フォルニード村に着いてから考える!
スクロールは魔術を発動する際に魔法陣が少し光ってしまうので、光が目立たないようにマントの下にスクロールを入れてから魔力を流した。
スクロールに描かれた魔法陣が青白く淡い光を放つ。同時に俺の足が一瞬熱くなった感覚があった。無事付与魔術がかかったらしい。
スクロールを見れば、描かれていたはずの魔法陣は消えていた。
白紙になったスクロールを折り畳んでリュックに戻す。それから改めて視線を城壁に向けた。
見張りの兵は城壁の角に設置されている物見塔にいるらしく、塔からちらちらと松明の明かりが見て取れる。
今だ。
思うなり足に力を込め、全力で跳躍した。
うまく行った。
うまく行きすぎて恐いくらいだが、誰にも見つからずに城下街に降り立つことができた。
そのまま路地裏を走る。
時々酔っぱらいがいるけれど、大体が路上で眠っていて俺に気付きもしなかった。
起きている酔っぱらいもいたが、焦点の合わない彼らに見咎められる前に素早くその横を通り過ぎてやり過ごす。
そうして走っているうちに、酔っぱらいとは違う、素面らしい足取りの人影が前方に見えた。
黒い帽子被った細長い体躯の男は夜中なのに仕事帰りのようで、背中を丸めて疲れた足取りで歩いていた。
ふと、その風貌に見覚えがあることに気付く。気付いてしまった。
全速力で走っている中でひたすら走る・避けることに集中していた意識が乱れた。
男がこちらに気付いて榛色の目を見開く。
顔を見てさらに動揺して止まることも避けることもできず、咄嗟に地面を蹴った。跳躍して男の頭上を飛び越え、空中で一回転。男の背後に着地する。
「ヨウト……?」
男……情報屋が呆然とした声音で俺の偽名を口にした。
あぁ、こんな時に会うなんて、運がいいんだか悪いんだか。
俺は立ち上がりながら振り返り、情報屋を見上げる。
「こんばんは、情報屋の。仕事帰りか?」
苦笑しながら問いかけると、情報屋は口をぱくぱくさせていて、言葉が上手く出てこないようだった。
しかし何とか言葉をまとめあげて声を発する。
「あ……あぁ、仕事帰りだ。お前はこんな時間に何やってるんだ? てかすげぇ運動神経だな」
そこかよ!
と、つい突っ込みたくなったけど今は時間がない。
「それはどうも。申し訳ないんだけど、今は説明している時間がないんだ。でもこのタイミングであんたに会えてよかったよ。ここを離れる前に、挨拶しておきたかったんだ」
これまで親切に忠告してくれたり、なんやかんやで気にかけてくれたりした。
扱いづらい報酬でも、何より俺が子供であっても、きちんと情報を流してくれた。
俺はずっとこの人に感謝していた。
「ここを離れる? どういうこった?」
この情報屋はいつもなら立ち入ったことなど聞かない……が、さすがに混乱しているようで、言葉が脳を通さずに吐き出されているようだ。
心無しか情けない表情を浮かべている。
「それはまた次の機会にでも話すよ。今はここから離れるけど、いつかこれまでの礼をしに戻ってくるから、その時にでも……」
戻ってくるなんてことは考えていなかったはずなのに、そんな言葉が口を突いて出た。
でも、そうだな。それもいいのかも知れない。
王族の義務と責任を放棄して出奔した時点でもう俺にはこれまでのような身分や立場はなくなるだろうけど、ただの一人の人間として、またこの地に立ってみるのもいいのかも知れない。
それがいつになるか、本当に叶うのかはわからないけれど。
そんなことを考えつつも、もう行かなきゃな……と、頭を切り替える。
「とにかく、これまで色々と助けてくれてありがとう。おかげで期限内に準備を整えることができた」
ぺこりと頭を下げて礼を言う。
すると、急に情報屋が俺の腕を掴んだ。腕を掴まれた俺はぎょっとする。
えっ、まさか衛兵に突き出したりしないよな……!?
「事情はよくわからねぇが、状況はわかった。お前はここを離れる。それも大急ぎで、だ。だったらいい抜け道を知ってる。ついてこい」
至極真剣な顔でそう言うと、そのままぐいぐいと俺の腕を引いて歩き出す情報屋。
えぇ……一体どこに連れて行くつもりなんだ?
そう歩かないうちに、一軒の、何の変哲も無い建物に到着する。
「俺の家だ」
そう言って情報屋は扉の鍵を開けると俺の腕を掴んだまま中に入っていく。
入ってすぐにあったテーブルの上のカンテラに火を入れると、それを持って別室に移動した。
本当に何なんだろう。俺は一刻も早く逃げたいんだけど。
「ここだ」
と、情報屋は台所に着くなりその床にあるマットを指差した。
意味が分からない。俺は怪訝な顔で情報屋を見返すことしかできない。
その反応をどう取ったのか、情報屋は俺の腕を解放すると床からマットを退かし、床から生えている一本のロープを引っ張った。すると重たげな音を立てて床板が持ち上がり、そのまま横方向にスライドする。
そうして動かした床板の下からは真っ暗な、下方に伸びる空洞が姿を現した。縦穴の側面に梯子がかかっている。
「ここを通れば街の外に出られるぜ。情報屋なんてやってるといつ危険な目に遭うかわかったもんじゃないからな。だからこうして家の中に壁の外まで逃げられる抜け道を作ってあんだよ。ここを降り切ったら他の道は気にせず北方向を目指せ。T字路に出たら左方向を選べば、壁の外にある古井戸に出られる」
ふふん、といつもの調子を取り戻したらしい情報屋は得意げに笑った。
「いいのか? こんな大事な抜け道、俺に教えちゃってさ」
思わず問うと、ばしんっと背中を叩かれた。
痛いっ! 思いっきり叩いたな、こいつ。
「ヨウト。俺はお前のことを気に入ってんのさ。何をするつもりかは知らねぇが、お前が考え無しに行動するとは思えねぇ。だったら理由なんてわからなくったって、手を貸したくなるってもんだ」
この言葉に、思わず首を傾ぐ。
「そういうもんかね」
「そういうもんさ」
そうですか。だったら有り難く使わせてもらおう。
「ありがとう」
「どういたしまして」
互いに言い合って、何だか可笑しくなって笑った。
ひとしきり笑って早速梯子に足をかけようとすると、
「ハインツだ」
唐突に情報屋が言った。
急すぎて何を言われたのか全くわからなかった。
「俺の名前だよ。ハインツ」
「あぁ。なんだ、急に言うから何かと思った」
本気できょとん、だ。その反応が可笑しかったのか、またもや情報屋……ハインツは笑い出した。
なので、今度はこっちが度肝を抜いてやろうと思った。ちょっとした意趣返しだ。
「では、名乗りには名乗りでお返ししましょう」
俺は梯子から離れ、嫌味なほど優雅に一礼する。
「私の名はハルトと申します。是非、改めてお見知り置きを」
そう言って、にっこりと王子様スマイルを浮かべてみせる。
ハインツの反応は思っていた以上だった。目を丸くして、それから白黒させて、「はっ……え? はっ、ハルっ、ハル、ト? ……殿下!?」と、言語障害をきたしている。
普段の飄々としたハインツとのギャップがすごくて面白い。
しかし名前を名乗っただけで察するとは、やっぱり情報屋だな。
俺の顔が父母と似ていなくても国王の髪色や目の色、王太子の年齢といった既に得ていたであろう情報と今得た情報を統合して、一瞬にして王太子と俺を結びつけた。まだ俺、一般国民へのお披露目もされていないのに。
きっと情報の集約とか連結とかが癖になってるんだろうな。さすがだ。
「それでは、ハインツさん。抜け道は有り難く使わせて頂きます。それとさっき申し上げた通り、今回受けたご恩も含めてこれまでに受けたご恩はいつか必ず返しに戻って参りますね。あと、もしかしたら私を探して誰かしら尋ねてくるかもしれませんが、知らぬ存ぜぬを通して下さい。恩人にご迷惑をおかけするのは本意ではありませんので。では、失礼します」
俺は再度優雅に一礼して、抜け道の梯子に手足を掛け、ハインツが正気に戻る前にその場を去った。
こうして俺は無事、王都から脱出することに成功した。