121. 未来のために
私は息を呑んで白神竜の亡骸と見つめ合った。
けれど白神竜からは最早生命活動の気配は感じられず、ぴくりとも動かない。
こちらを向いているせいでまだ生きているように思えて不気味だけど、確実に白神竜が息絶えた事を確認すると、私はすぐにブライの方へと向き直った。
「ブライ! そんなに魔力を取り込んで大丈夫なの!?」
問いかけてみたけれど、ブライはちらりとこちらに視線を向けてきただけで答えない。
喋るには魔力の吸引行動を止めねばならず、白神竜亡き後も魔法陣を巡り続けている魔力の進行を食い止める事が出来なくなってしまうからだろう。
あの魔法陣が発動してしまったら、この世界も、魔法陣に刻まれた空間魔術の影響を受けるであろうどことも知れぬ別の世界も、未曾有の災害に見舞われてしまう。
現状、ブライが魔法陣に送り込まれた魔力を吸い出す以外にあの魔法陣を止める手立てはない。
だからブライが魔力を取込み続ける事がどれだけ重要な事なのかはわかっている。
けれど、このままブライがその身に取り込める魔力量を超えて魔力を吸引し続けたら──
私の懸念は目の前で現実となった。
ブライの腕が、魔石化し始めたのだ。
膨大な魔力は漏れ出れば環境を改変してしまう。
しかし自らの器を超える量の魔力をその身に留めるのは困難だ。
外へ漏れ出ようとする魔力をどうにかして留め、環境への影響を抑えようとするならば、溢れ出る魔力を魔石に変える他ない。
かつて私が、サラの腕輪の力を借りてそうしていたように。
けれど。
もし、膨大な魔力を自らの器を超えて外部からその身に取り込んだらどうなるだろうか。
身に余るほどの魔力を魔石へと変じることなく、ただひたすらにその身に取り込み続けたら。
魔石は魔力を凝縮する事で生成されるものだ。
通常は魔力を持つ者が自らの手で魔力を凝縮し、作成する。
しかし今、ブライは自らの器を超えてその身に膨大な魔力を取り込んでおり、その結果、ブライの体内を巡る魔力の密度は本人の意志とは無関係に魔石が作られてしまうほど凝縮された状態になっていた。
ブライの体内で凝縮された魔力が、ブライの体を魔石化させ始めている。
このままでは、あの魔法陣を巡る魔力を取り去り切るかそれより前に、ブライ自身が完全に魔石化してしまうだろう。
その身全てが高濃度の魔力の結晶と化せば、神竜といえどもさすがに生きてはいられないはず……。
止めたい。
けれど、止めてしまえば大災害が起こる。
私はどうしたらいいのかわからず、泣きそうになりながらブライを見上げた。
ブライは私の視線に気付くと優しく目を細め、笑った……ように見えた。
《我の事は気にするな。最初から主とは、もし再び魔力暴走事故が起きそうになったらこうして阻止するようにと契約を交わしていた》
不意に、念話で語りかけられて私は息を詰める。
最初から……?
《もし再び魔力暴走が起こった場合に備えて、主は我の体を再構築した。魔力暴走が目の前で起きた今、我は主との契約を履行するのみ。嘆く必要はない》
「嘘! タツキが、そんな事──」
《リクよ、思い出せ。主が何故この世界にいるのかを》
ブライの言葉に、私は黙り込む他なかった。
そうだ。
タツキは魔力暴走事故の原因を探る為にこの世界で頑張ってきたのだ。
タツキがこの世界に生まれてからどれだけ時間をかけて魔力暴走事故の原因を突き止めようとしてきたのかを、私はずっと見てきた。
リドフェル教が魔力暴走事故を起こす可能性に気付いた時も、本来の目的から外れる事とは言え無視する事もできず、阻止する為に動いてきたに違いない。
《再びそなたたちのような悲劇を生まぬために主も必死に考え、唯一辿り着いた答えがこの手段だったのだろう。我にも他の手段など思い付かぬ。それに、我はあの時……主と契約を交わした時に決めていたのだ》
何を? と、問う視線をブライに向ける。
そんな私の問いに答えるように、ブライは言葉を続けた。
《どうせ一度は落としていたはずの命。生きながらえた末にこの世界の役に立つと言うのならば、惜しくはないと》
「どうして……」
ブライがその身を犠牲にするほどこの世界に愛着を持っているとは思わなかった。
けれど不意に、フォルニード村でブライが言っていた言葉を思い出す。
『そなたたちがかつて暮らしていた世界は、一体どんな場所なのだろうな? 主が生きたくても生きられなかった世界。ここにいるリクやハルトやフレイラとは違う、そなたたち。我の知らない成り立ちの世界。興味深い……が、まぁこの世界はこの世界で、なかなかのものだと我は思うのでな。行きたいとは思わないが』
ブライはそう言っていた。
あの言葉の中には確かに、ブライのこの世界に対する思いが込められていたのだ。
言葉にはされなかった、この世界が好きなのだという気持ちが。
私が黙り込むと、ブライからもそれ以上念話は送られてこなかった。
目の前で、ブライの足が魔石化する。
続いて尾が、翼が、胴体が。
それに連れて上空の魔法陣を走る魔力の勢いも衰えてきているようだった。
流されていた魔力は大幅に減り、吹き荒れていた魔力の暴風も収まりつつある。
けれどこの調子では、ブライが全身を魔石化させるまで魔力を吸引したとしてもまだ、魔法陣を巡っている魔力を消し切るには至らなそうだった。
ならば。
私は手を魔法陣へと向ける。
相変わらず白神竜の力を得た事で力のコントロールが難しいけれど、やってやれない事はない。
私は魔力操作を行って、魔法陣の書き換えと並行して魔法陣に流れている魔力を自らに引き寄せ始めた。
すると、隣にいたブライとシスイが驚きの視線を向けてくる。
「おい、まさか黒神竜の真似事でもするつもりか?」
シスイが慌てたように問いかけてくるけれど、それには答えない。
今はとにかく魔法陣の書き換えに意識の大半を割いて、後はひたすら魔力を引き寄せ続ける。
この世界を守りたいと思っているのはブライだけじゃない。
私だって二十年以上生きてきたこの世界が、大切な人たちが沢山いるこの世界が好きなのだ。
だから、守りたい。
セタの事は気掛かりだけど、ハルトが残るなら大丈夫だろう。
ここで躊躇っていては、ブライや私の犠牲だけでは済まなくなる。
今ブライと私があの魔法陣さえ止めてしまえば、この世界は……私の大切な人たちは守られる。
本当は私だって生きたいし、妖鬼の掟を守ろうと思うなら、この危機的状況にあっても自分が生き延びる道を模索しながら最後まで足掻き続けるべきなのだろうとも思う。
でも、この危険な魔法陣を放置する事は出来ない。
ここで決断しなければ、私が生き延びる道を見つけ出した所で深い後悔が残る。
身を切るような後悔を抱えたまま生き続ける事なんて、私には出来そうもない。
ならば、私が選ぶ道はこれしかない。
シスイは私の覚悟を感じ取ったのかギリッと歯を食いしばると、踵を返してハルトとタツキの許へ向かった。
「起きろ! このままだと、お前たちが大事にしてきた奴らが石になるぞ!」
自分では止める事ができないと判断したのだろう。シスイが必死にハルトとタツキを揺さぶり起こそうとする。
なかなか目覚めないハルトとタツキに苛立ちながら、「おい! 起きろ!」とシスイが叫んだ。
するとその叫びに反応して、小さく呻きながらハルトが目を覚ました。
その瞬間を見計らったかのように、私の左手の指先が魔石化する。
まだ目覚めたばかりのハルトは状況を把握出来ていない様子で、ゆっくりと半身を起こして頭を振った。
「起きたか! 頼む、今すぐリクを止めてくれ! このままじゃ、黒神竜だけでなくリクまで魔石化してしまう!」
シスイはハルトの両肩を掴むと必死に訴える。
まだ半分寝ぼけている様子のハルトは「リク……?」と小さく呟くと視線を彷徨わせ、やがて私に焦点を合わせるなり目を見開いた。
「リク! 腕が……!」
横目でハルトが無事目覚めたのを確認している間に、私の左腕はすっかり魔石化してしまっていた。
魔力を繰るのに支障はないけれど、もうこの左腕は使い物にならないだろう。
隣ではブライが胸部から下を魔石化させていて、それでも上空の魔法陣に流れている魔力はまだ残っている。
魔法陣の書き換えは思うように進んでいないし、あの魔法陣を止め切る頃にはブライも私も、全身魔石化していてもおかしくない。
だから今のうちにハルトに言わなければと思った。
私はハルトの方へと顔だけを振り向け、笑顔を浮かべてみせた。
この時何となく、白神竜の口内でムツキとサギリが纏っていた穏やかな空気が何だったのかを理解する。
ムツキたちはきっと、先ほどブライが言っていた言葉と同じような気持ちでいたのだ。
生きながらえた末に自分が大切に想う何かのためにこの命を使えると言うのなら、惜しくはないと。
きっと今、私も似たような気持ちになっている。
自分が大切に想うもののためならば、この命を賭けてもいい。
……寿命まで生きるという目標に関しては、また今度。
恐らく前世の記憶などない状態で生まれるであろう、来世で叶えればいい。
「ハルト。セタの事、よろしくね」
伝えたい事は、それだけだった。
私は伝えたい事だけ伝えると、僅かに残る未練を振り切るように視線を上空の魔法陣へと戻した。
ハルトが私の名前を呼んだけれど、もう振り返らない。
遅々として進まない魔法陣の書き換えは諦めて、魔力を引き寄せる事のみに集中する。
私の両足が、魔石化した。
《リクよ……我はもう、ここまでのようだ。これ以上は取り込めぬ。我の力不足で巻き込んで申し訳ないが、後の事は頼めるだろうか》
不意に念話が送られてきて、私は横目でブライを見上げた。
ブライは最早、どこがまだ生身のままなのかわからないくらい、全身を魔石化させていた。
その金色の瞳だけがこちらに向けられている。
恐らくもう、頭部の内側くらいしか生身の状態ではないのだろう。
私はしっかりと頷いて、ブライの頼みを引き受けた。
するとブライは、こちらに向けている目を細める。
《不思議なものだな。初めて相対した時は、こんな間柄になるとは思いもしなかった。しかし今や、我の中でリクは感覚を同じくする同志だと……仲間だと思っている。我も大概、竜族らしからぬ竜であったな》
私は思わず目を見開いてしまった。
まさか竜族の口から仲間という言葉が他に向けられる日が来るなんて、一体誰に想像出来ただろうか。
それも、自分に向けられた言葉だと思うと胸が熱くなる。
だから私はすぐに、ブライに向けて念話を送った。
《私はずっと、ブライのこと仲間だと思ってたよ》
そう念話で返したけれど、ブライからの返答はない。
優しく細められた金色の瞳は、既に魔石と化していた。
ちゃんと伝わったかどうかはわからないけれど、ギリギリ伝わっていたらいいな、と思った。
改めて視線を上空へと向ける頃には、私の魔石化も更に進んでいた。
もう動かせるのは頭と右腕だけ。
けれど魔法陣を巡っている魔力もあと少しだ。
あと少しで、完全に魔法陣の発動を止められる。
状況を理解したからか、ハルトは悲痛な感情の気配を漂わせながらも、目覚めた場所から動けずにいるようだった。
それでも私は傍にハルトがいてくれる事で、別れの寂しさとは別の、消えゆく恐怖には打ち勝てる。
守るべきものが近くにあると、こんなにも勇気が湧いてくるものかと思うくらい、死への恐怖はなかった。
私の右腕が、魔石化した。
更に魔力を引き寄せている間、ふとこの世界で過ごしてきたこれまでの日々を思い起こす。
色々あったなぁ。
妖鬼として生まれたから、生まれた瞬間から大変な生活を送る事になったし、お母さんを失ってからは子供の身のまま妹を育てるなんて事態にも陥ったし、その後ハルトと再会してからだって、竜と戦ったり魔王と戦ったり、それはそれは密度の濃い戦いの人生だったようにも思う。
とても前世が必要最低限しか外出しない、半分引きこもりみたいな人間だったなんて思えないような人生だ。
もし生まれた瞬間から前世の記憶を思い出していたら、きっと耐えられなかっただろうなと思う。
そう思えてしまうくらい過酷ではあったけれど、ちゃんと幸せも待っていた。
打ち込めるものを見つける事が出来て、思う存分追求できる環境も得られた。
優しい両親に恵まれて、可愛い妹にも恵まれて、たくさんの人たちとも出会って……本当に人に恵まれた人生だった。
そして。
無自覚の内に好きになっていた人に想って貰えて、結婚して、望みの薄かった子供も授かる事が出来た。
そうして得た家族と過ごせる時間は、どんな時でも特別で。幸せで……。
ホロリと涙が頬を伝った。
泣かないつもりだったのに、つい幸せな日々を思い出してしまったせいだ。
あぁ。あぁ。
もう、戻れないのに。
覚悟は決まっていたはずなのに……!
首が、魔石化した。
その瞬間だった。
「おぉっ? とんでもない魔力の気配を感じると思ったら、とんでもない事になってるな!」
上空から聞き覚えのある声が降ってきた。
このパターン、ものすごくデジャヴだ。
思わず視線をそちらに向けると、真夜中の空のような深い紺色の翼と、朝焼け色の鮮やかな髪を持つ人物が目に飛び込んで来た。
やはりか……!
私の視線の先にいたのは、身長2メートルはあるであろう、翼魔人の大男。
「よーう、リク! タツキは寝てんのかぁ? お待ちかね! 無敵の魔王、ルウ=アロメス様の登場だぁっ!」
待ってなかったし、すっかり存在を忘れてたよ……!
驚きと呆れの余り、涙が引っ込む。
正直なところルウはもうフレッグラードに関わりたくなさそうだったし、ここに現れるだなんて思わなかったから、本気で存在そのものを忘れ去っていた。
「この魔法陣を壊せばいいんだろ? 俺様にかかれば一瞬だぜ!」
言うなり、ルウは魔法陣に向かって突撃した。
一体どうするつもりなのかと思ったけれど、すぐにルウの能力を思い出す。
“魔術無効”。
……私はそう思っていたけれど、もしかしてあの能力は正しくは“魔力の結合解除”なのではないかと、眼前で繰り広げられている光景を見て思い直す。
目の前で、ルウが通過した箇所の魔法陣が青い光となって散った。
魔法陣に穴が空く。
なんてでたらめな能力!
ルウはそのまま魔法陣全体を縦横無尽に飛び回り、魔法陣そのものを破壊し尽くした。
渦巻いていた魔力も既に暴走を起こす領域を脱して指向性を失い、ただただ空中を漂っている。
その漂っている魔力を、ルウが見たこともない能力を用いて一瞬にして魔石に変えた。
小さな魔石と化した魔力が、ぱらぱらと空から地面へと落ちてくる。
さながら、青い雨のように。
こうして魔王ルウ=アロメスの登場と共に呆気なく、世界の脅威であった魔法陣は消滅した。
本当に、呆気なかった。
呆気なさ過ぎて、私は脱力した。