113. ナギ
フォルニード村を飛び立って二日。
遠くに見えていた中央大陸が視界一杯に広がり、振り返れば東大陸が霞んで見えた。
私は体の向きを前方へと向け直して、改めて中央大陸を見渡す。
ざっと見た感じでは、中央大陸に森や草原のような緑は見当たらない。
恐らく魔力暴走事故の際に地面が高濃度の魔力に汚染されて、魔族領に近い環境になってしまっているのだろう。
枯れ木のようなものはちらほらみられるものの、全体的に茶色い地面が露出している印象だ。
中央大陸に充分接近すると、着陸するためにブライが徐々に速度と共に高度を落とし始めた。
着陸の地に選んだのは中央大陸南東部。大陸からやや張り出している半島の端だ。
いくら中央部が怪しいからと言ってもいきなり敵中に飛び込むのは危険なので、あまり目立たなそうな場所を選んで着地する事にしたのだ。
しかし。
目的地を確認して、私は息を呑んだ。
ブライも私に次いでそれに気付いて、ぴたりと空中で制止する。
感知能力の差で状況が把握できていないハルトとタツキが、私やブライの視線の先を追った。
半島の端。
そこに座してこちらを見上げている、白い塊……白い、巨大な竜。
見紛うはずがない。白神竜だ!
その姿を視認出来ているのは恐らく私とブライだけだろう。
ハルトもタツキも白い何かが目的地にいるのはわかっても、それが竜である事までは判別できていないはずだ。
ちらりと、ブライが私に視線だけを振り向けてくる。
このまま下降を続けるか否かの判断を仰いでいるような様子に、私は眉間に皺を寄せた。
うぅ、私もソムグリフの記憶のせいで白神竜にはちょっと苦手意識があるんだけど……でも、だからと言ってここで止まってても仕方がないだろう。
そう判断して、私はブライに視線を合わせると深く頷いた。
仮に戦う事になろうとも、私が何とかしてみせよう! という意気込みで立ち上がる。
「ハルト、タツキ。厳重警戒してね!」
声をかけながら次々と身体強化魔術を自分とハルトに施す。
タツキは自力でやり過ごせるだろうから、備えとしてはこれで充分だろう。
ハルトとタツキも、私の固い声音と、突如行使した身体強化魔術で状況が思わしくない事を察して身構えた……のだけど。
「そんなに警戒しなくても、何もしないよー!」
気が抜けるほど軽い口調で、白神竜が声を張りあげた。
遮る物がないせいか、それとも白神竜が何らかの魔術を使ったのか、その声は明瞭さを保ったまま私たちの耳に届く。
あれ? てっきりフレッグラードと契約してる白神竜だと思って警戒したんだけど、違うのかな……?
よく見ると器用に手を振ってるように見えるんだけど、私の目がおかしいのかな……!?
よくない事とは思いながらもつい目を擦って二度見してしまう。
「リクよ……。気配は間違いなく我を棲み処から追い立てた白神竜と同じだが、どうも様子がおかしいぞ」
「うん、私もそんな気がする」
お互いに感想を述べ合うと、改めて私とブライは顔を見合わせて頷き合った。
とりあえずこのまま警戒しながら近寄ってみようという各自の判断を、アイコンタクトで確認し合う。
またしても状況が読めない様子のハルトとタツキに「警戒だけして、手は出さないように」と私が伝えると、ブライがゆっくりと下降を始めた。
段々と白い巨体が近付いてくる。
近付くにつれて、白神竜が手を振っている方とは逆の手で何かを地面に押さえつけているのが見えた。
何だろう……?
「あー、来てくれてよかった。もうちょっと遅かったら、こっちから東大陸に出向くところだったよ!」
ブライが地面に降り立つと、白神竜は竜とは思えないほど柔軟に表情を変えて破顔し、美しいながらも軽快な声音で言った。
この声は聞き間違えようがないほどフレッグラードと契約した白神竜と同じ声なんだけど、あまりにもテンションが違い過ぎて別人……別竜が喋っているように聞こえる。
けれど気配と声質から察するに、この白神竜がソムグリフの記憶に出てきた白神竜と同一の竜である事は間違いないだろう。
じゃあこのテンションの高さは一体何なんだって話なんだけど。
私は困惑しながらハルトやタツキに続いて地面に降り立ち、ふと目の端に映ったものが気になって視線を振り向けた。
そして視界に入った光景に思わず後ずさって、背後にいたハルトにぶつかってしまった。
ハルトが気付いて踏みとどまってくれたけど、私を受け止めると白神竜を見上げていた視線を私の見ている方へと移して、「ムツキ!?」と驚きの声を上げた。
そう、白神竜が片足で地面に押さえつけていたもの……それがムツキだったのだ。
白神竜と結託しているのか、火の精霊がムツキの口を塞いでいる。
ハルトの声でタツキやブライの視線も白神竜の足下、ムツキの方へと向けられた。
私たちの困惑の度合いが更にぐんと上がる。
今の状況が全く把握できないんですけど、誰か説明してくれませんか……!
「あぁ、イザヨイね。こいつさぁ、しっかりお姉さんと話をつけてくるとか言ってた癖に、レグルスを確保するために対話の機会を逃したとかで、そのままうやむやにしようとしてたから、男ならさっさと話してこい! って喝入れたんだよね。なのにいつまでもうじうじして動こうとしないから、ファルジークに手伝って貰ってここまで引っ張ってきたの」
あくまで軽い口調のまま、白神竜が足下のムツキに「な?」と声をかけている。
当のムツキはファルジークという名前なのであろう火の精霊に口を押さえられたまま、何やら訴えている様子だ。
「えぇと……話をするにしても口を塞いでたんじゃ無理じゃない?」
とりあえず私はムツキの解放を提案してみた。
すると白神竜ははた、とした顔になり「それもそうか!」と軽快な笑い声を上げながらムツキを地面に押さえつけていた手を持ち上げた。火の精霊・ファルジークもムツキの口から手を離す……が、しっかりと腕は拘束したままにする。
どれだけ逃がしたくないんだか……いや、まぁ、私もムツキとちゃんと話をしたかったんだけどさ。
「姉さんも兄さんも、ハルトさんまで。どうしてこんなところまで来ちゃうんだよ……! 今すぐ帰って!」
口が解放されるなりムツキは腕を拘束されながらも一歩前に出て、責めるような口調で言葉をぶつけてきた。
けれどすぐに白神竜がその巨体を器用に操って、ぽかりとムツキの頭を軽く叩く。
「ちょっと、いきなりそれはないんじゃないの? まぁ、アタシも同じような事を思わなくもないけどさ、それだけこの世界が大事だって事でしょ。そういう気持ちってさ、あたしたちにとってのフレッグラード様に対する気持ちと何も変わらないんじゃないの?」
「ナギは黙ってて」
「いーやーだー」
諌めようとする白神竜を、ムツキが睨みつけた。
しかしどこ吹く風で白神竜はムツキの言葉を受け流す。
……っていうか、ん?
今ムツキは、白神竜の事をナギって呼んでなかった?
「あぁ、そういう事か」
私やハルトが顔を疑問符だらけにしている中、タツキがぽんと手を打ってひとり納得の声を上げた。
反射的に私とハルトの視線がタツキの方へと向く。
視界の端に映ったブライの表情は読み取れないけれど、静かに状況を見守っているようだ。
「タツキ?」
ハルトが言外にどういう事か説明して欲しいという意図を込めて呼びかけると、タツキは「あ、ごめん」と短く謝ってから白神竜を見上げた。
「ひとつの体にふたつの魂……この白神竜の中には白神竜の魂以外にももうひとつの魂が入ってる。そのもうひとつの魂が、ムツキが言うナギさんの魂なんでしょ。どうやって白神竜の中に魂だけ入り込んだのかまではわからないけど、今その体の主導権はナギさんにあって、白神竜の魂は眠っている。そうでしょ?」
問われた白神竜はタツキを見下ろし、目を細めて笑った。
「その通り。今はアタシがこの子の体を乗っ取り中! 多分イザヨイの魔術破壊能力とか見た事あると思うけど、それと同じ感じでアタシは同化能力が使えるんだよね。ま、同化して今は支配できてても、この状態をあとどれくらい維持できるかはわからないんけどねー。アタシが消えたらこの子はまたとんでもない事を仕出かすだろうから、こう見えても結構頑張って押さえてるんだよ。褒めて褒めて!」
どこまで本気か判断出来ないような口調で、頭をこちらに差し出してくる白神竜……ナギさん。
けれどナギさんが言ってる事は事実だろう。
白神竜は自由を取り戻した時、想像を絶するようなとんでもない事を仕出かすはずだ。
ソムグリフの記憶を持っているからか、断言は出来ないながらもそんな予感があった。
なので私は数歩前に出て、ナギさんの傍らに立った。
ぎょっとするハルトやタツキを尻目に、よしよしとナギさんの頭を撫でる。
「偉い。偉いよ、ナギさん。その白神竜の恐さは一応、わかってるつもりだからね。あんな化け物みたいな白神竜を抑え込んでるなんて、本当に凄いよ」
「ははっ、ありがとう! アタシの事はナギって呼んでよ。えーと、イザヨイのお姉さん?」
「リクだよ」
こそばゆそうに笑いながら問われて名乗ると、嬉しそうに「ありがとう、リク!」と改めてお礼を言われてしまった。
いやいや、お礼を言いたいのはこっちなんだけど……。
って、今はそんな悠長に会話している場合じゃなかった。
私は改めてムツキに向き直る。
「ムツキ。私もムツキとはちゃんと話をしておきたかったの。レグルスの件は、元々サギリに譲ってくれってお願いされただけで了承はしてなかったから謝らないよ。それに、結局分解が間に合わなくてそっちの手に渡っちゃったしね。だから余計にお互いどう向き合ったらいいのかわからなくなっちゃった気もするけど、もうレグルスの件は一旦忘れて、ちゃんと話をしよう? ……って言っても、私が言いたい事はひとつだけなんだけどね」
私はずいっとムツキに近寄ると人差し指をムツキに突きつけた。
ムツキは私の勢いに押されて僅かに体を後ろに引く。
私はそんなムツキに構わずはっきりと告げた。
「前世の記憶がある限り、例え今は血が繋がっていなくても、例えムツキの方がずっと年上なんだとしても、私にとってムツキは私の弟のままなんだからね! ……それだけは、忘れないで」
突きつけていた指を一度引き戻すと、私は乱暴にムツキの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
ムツキは呆気に取られた表情で、紅玉のような瞳を限界まで見開いてこちらを見ている。
「で? ムツキは私に何か言いたい事はないの?」
あまりにも間抜けな顔をしているので笑ってしまいながら、私はムツキに問いかけた。
後ろではタツキもくすくすと笑っている。
周囲からの視線を一身に集めているムツキは一拍遅れて我に返ると、その瞳を戸惑いで揺らした。
「そんな急に、何かって言われても……」
消え入りそうな声でそう呟いたムツキの背中を、ナギとファルジークが左右から同時に叩いた。
「あるでしょうが!」
「散々時間をかけて悩んでたくせに、何もないはずがないだろう!」
両サイドから大声で言われて、ムツキは首を竦めた。
両手をファルジークに拘束されているせいで、耳を塞ぎたくても塞げなかったのだろう。
けれど親しい人に背中を押されて、ムツキはようやく意を決したような顔つきになった。
真っ直ぐ私を見て、続いてタツキを見て、ハルトを見て、最後にブライを見上げて……ふと微笑む。
「あったよ、言いたい事。でももうなくなっちゃったんだ。だって俺が姉さんに伝えたかったのは、“姉さんには幸せになって欲しい”って事だけだった。けれど今の姉さんはもう、幸せでしょ? だからわざわざ伝えるまでもない」
言いながらムツキはちらりとファルジークに視線を向けた。
その視線にはもう逃げないから放して、という意図があったのだろう。ファルジークは苦笑しながらムツキを解放する。
解放されたムツキは改めて私に向き直ると、前世の睦月を思い起こさせるような笑顔を浮かべた。
「さっき姉さんは前世の記憶がある限り俺は弟のままだって言ったけど、その言葉、そっくりそのまま返すよ。俺にとっては今も、姉さんは俺の姉さんのままだから。だから幸せに暮らして欲しかった。こんなところに来て欲しくなかった。でもまぁ、俺は姉さんの弟だからね。姉さんの性格くらいよくわかってるよ。……ついてきて」
言いながら、ムツキはこちらに背を向けて歩き出す。
ナギとファルジークはにやにやしながらその背中に続く。
「で、イザヨイ。どこに行くんだ?」
「……旧神殿」
ファルジークの問いかけにムツキは小さく振り返って短く返答する。
その言葉を聞いてナギとファルジークは得心がいったと言わんばかりに「あぁ」「なるほど」と口々に言うと、私たちの方を振り返った。
「リクたちもついてきて。というか、リクたちに見て貰いたいんだ」
ナギに促されて、私とハルトとタツキは互いに顔を見合わせた。
悪いようにはされないと思うけれど、旧神殿だなんて不穏な響きだ。
さて、どうしたものか。
「リクが決めていいよ」
「そうだな。リクの第六感で決めるのが一番いいと思う」
「同感だ」
みんなの意見を聞こうと口を開きかけるも、私が問いかけるより先にタツキ、ハルト、ブライの順で私に判断を委ねてきた。
えっ、丸投げ!?
しかしハルトが口にした私の第六感という言葉に、自分でも納得してしまう。
自慢じゃないけれど、私の第六感はかなり優秀だ。私はこれまでも度々、自分の第六感に頼ってきた。
けどなぁ……。急に言われても。
迷いながら私は改めて先を行くムツキの背中を見た。
私たちがついて行っていない事に気付いているはずなのに、振り返りもせず歩いて行く背中。
そこに続く白神竜と火の精霊。
彼らを信じるか、信じないか……。
「……よしっ、行こう!」
迷っていても仕方がない。
それにムツキが口にした“旧神殿”。
もしかしたらそこは、かつてグードジアがいたリドフェル教団の神殿を指しているのかも知れない。
だったら行くべきだ。
そこに行けば確実に、かつて起きた魔力暴走事故に関する何か新しい情報が見つかるはず。きっと必ず何かが掴めるはずだ。
私は勢いよく一歩踏み出してムツキに続く。
ハルトやタツキ、ブライも反論ひとつせず、私に続いて歩き出した。