102-3. アールグラント城にて(後編)
* * * * * ムツキ(イザヨイ) * * * * *
王様との謁見(?)を終え、“研究所”に関する報告と残務をこなしに行ったハルトさんを見送った後。サラの案内で、俺は望み通りアールグラント城を存分に堪能させて貰う事ができた。
元々前世でアンティークや西洋の城に興味があったのもあるけれど、これまで長い事過酷、もしくは殺伐とした場所に身を置いていたからか、案内されている間に目にしたもの全てに純粋に感動した。
特に精緻な模様のレリーフが施された柱や調度品の美しさ、庭園の見事な景観は圧巻だった。
案内されている間、姉さんの今世の実妹であるサラの事をさりげなく観察させて貰ったけれど、彼女はかなりしっかり者のようだ。
15歳という年齢にも関わらず既にこの国でそれなりの立場に立ちつつあるようで、すれ違う城勤めの人々がサラに先んじて会釈と共に挨拶しにやって来ていた。
サラもいい妹のようだけど、実父のイムさんも優しそうな人だった。
母親は……知らなかったとは言え俺たちがその命を奪ってしまったけれど、継母のミアさんも柔らかい雰囲気を纏っている。
そしてハルトさんの父親であるアールグラント国王や、恐らく今世のハルトさんの弟と思われる人、更にハルトさんの臣下なのであろう執事っぽい人やシタンと呼ばれていた騎士らしき人も、その立ち居振る舞いから油断ならない雰囲気を醸し出してはいるものの、どこか温かみを感じさせるものがある。
家族、仲間。
親しい間柄だからこそ心を許しているような、優しい世界。
幸い俺も、今世はスタートからして厳しい状況ではあったものの、ナギやシスイやサギリ、セツナと出会った事で仲間を得て、マスターと出会った事で主であると同時に親のような存在を得る事が出来た。
だから羨ましいとは思わなかった。
どちらかといえば、姉さんや兄さんがそんな人々に囲まれて過ごしてきたのだとわかってほっとしたといった所だろうか。
「これで大体お見せ出来る場所はご案内しましたけど、イザヨイさんはどこかゆっくり見たい場所とかありました?」
城をぐるりと案内して貰って前庭まで来ると、セタの手を引きながら城内を案内してくれていたサラが立ち止まり、こちらを振り返った。
見事な庭園に目を奪われながらも考え事をしていた俺は、サラの声で我に返る。
視線を咲き誇る花々から離して正面に向けると、こちらをじっと見ているサラと、いつの間にかサラに抱き上げられていたセタ。ふたりの視線とぶつかった。
ふたりとも、穴が空きそうなほどじぃっとこちらを見ている。
さっきもセタにはこんな風に凝視されていたっけ。
あまりにもじっと見られ過ぎて僅かにたじろぎながらも、思考を巡らせる。
ゆっくり見たい場所、ねぇ。
考えてはみたものの、どうしても自分の中でわだかまっている気持ちがその存在を訴えかけてきて、思考の邪魔をする。
気に入った場所をゆっくり見るよりも先に、俺にはサラやイムさんに言わなければならない事がある。
話すならこのタイミングでいいだろうと思い、口を開こうとした……が、俺が言葉を発するのを制するようにサラがにこりと微笑んだ。
「イザヨイさんは特に庭園がお気に召したようでしたし、ハルト様がお仕事を終えるまであちらでお話しませんか?」
と、サラが示したのは庭園の端にある、目立たない東屋。
こちらの思考を読まれたとまでは思わないものの、ドキッとしたのは確かだ。
サラは、普通の人では感知し得ない何かを感知する能力を持っている気がする。
セタからも、似たような印象を受ける。
自分が直感力に優れているらしい白神種だからか、サラやセタにじっと見つめられるとざわつくような感覚に襲われる。
俺は気を取り直して、サラに勧められるがままに東屋に向かった。
掃除の手が行き届いている東屋で向かい合わせに座ると、ずっとつかず離れずでついてきていたあのハルトさんの執事らしき人が一度城に引っ込んで、間もなく東屋にやってきた。
引き連れてきたメイドっぽい女性たちが東屋に設置されているテーブルの上にお茶や軽食を配置すると、一礼して静かに去って行く。
執事っぽい人はこの場に残り、まるで給仕の人みたいに東屋の傍に控えた。
「イザヨイさんは、ずっと何か言いたそうにしてましたよね」
周囲の様子を珍しがって見ていると、サラの方から話を切り出してきた。
そうだった、話を……しようかと思ったけれど、ふと、俺は東屋の外に控えている執事らしき人を見遣る。
「クレイさんは口が固いですし、ハルト様が連れて来たイザヨイさんを害するような事はありませんから、大丈夫ですよ?」
こちらの考えを察したらしいサラが、そう告げてきた。
まるで俺がこれから話そうとしている内容があまりいい話ではない事に、既に気付いているような口振りだ。
やはりサラは勘が鋭い。
少なくともあの執事っぽい人……クレイさんが俺を害する可能性を孕む話である事は、察知しているのだろう。
いずれにせよ、仮にクレイさんがこちらを害して来ようとも何とか切り抜ける自信はあるけれど、それでハルトさんの顔に泥を塗るのは芳しくない。
ハルトさんの臣下なら、きっと姉さんだって親しい人のはずだ。トラブルは避ける方針で行きたい。
けれどこれから話す内容は、サラや、恐らくサラとセタを心配してついてきているクレイさんからしたら怒りを覚えるような内容だろう。
もし何かあったらどうしようかな。
逃げるが勝ちかな。
……うん、もし何かあったら逃げる方針にしよう、そうしよう。
俺は居住まいを正して、サラに向き直った。
イムさんには……またの機会に話せばいいか。
またの機会が、あればの話だけど。
「これは正直に話しておかないといけないと思うから話すけれど、まず先に言っておきたいのは、俺はハルトさんや姉さ……リクさんの立場を危うくさせたいとは思ってないし、あのふたりに迷惑をかけるつもりもないから、それだけは理解しておいて貰いたい。今回“研究所”に同行したのもこちら側の打算があっての事で、俺や俺の仲間のこれまでの行いと今後の行いは、ハルトさんやリクさんとは全く関わりのない事だから」
そう切り出せば、サラと、サラを真似ているらしいセタが神妙な面持ちで頷いた。
それを確認して、俺は細く長く息を吐き出した。
思いの外緊張する。
己の罪を白状するのに、こんなにも重苦しい気持ちになるなんて。
正確には仲間の行いだけど、自分もそこに関与しているからには同罪だ。
俺は自らを奮い立たせるように、今度は強く息を吸い込む。
そして、一息に言い放った。
「サラ、君の母親を殺したのは俺たちリドフェル教だ」
俺の言葉に、対面にいるサラはきょとんとした表情を浮かべた。
ちょっと唐突過ぎただろうか?
思っていたのと違う反応に戸惑いながらも、俺は言葉を続ける。
「俺としては必要だからした事だし、後悔はしていない。けれど君や君の家族からしたら、決して許せる事ではないだろう。だからと言って事実を隠し、何も知らせずに素知らぬ振りをして君たちの前に居続けられるほど俺の神経は太くないし、それがいい事だとは思わない。ちゃんと伝えるべきだと思ったから、どう切り出したらいいのかずっと考えていたんだ」
言い終えると、しばし沈黙がおりた。
話を理解出来ていない様子のセタが俺とサラの顔を交互に見ている。
サラはただただ、じぃっと俺を見てくるだけ。
東屋の外に控えているクレイさんも、俺がリドフェル教を名乗った瞬間には驚いた気配を発していたけれど、それ以降は人族とは思えないほど気配を消して俺の話を聞いている様子だった。
どれくらいの間、沈黙がおりていたのだろう。
何かこちらから再度話を切り出すべきかと思い始めた頃、不意にサラがちょっと情けないような、へにゃっとした笑みを浮かべた。
「そう、だったのですか。とても言い難い事でしたでしょうに、わざわざ伝えて頂いてありがとうございます。けれど私、母が亡くなった時の事はあまりちゃんと覚えてなくて。それどころか母の事も、ほとんど覚えていないんです。だから、その……どういう反応をしたらいいのか、わからなくて……」
戸惑っているのは、サラも同じだったようだ。
確かに今のサラの年齢からすると彼女の母親をダンたちが殺めた頃は、まだ物心がついたかついていないか微妙な年齢だったはずだ。
記憶に残っていなくてもおかしくはない。
「ただ、凄く泣いた記憶だけはあるんです。気付いたら姉とタツキと三人で、オルテナ帝国の城塞都市アルトンにいて。姉が一生懸命気丈に振る舞ってて、けどやっぱりちょっと不安そうで、私も不安になって……って、その後からの事なら、結構ちゃんと覚えてるんですけどね」
困ったように眉尻を下げるサラ。
セタは相変わらず話を理解できず、目をぱちくりさせている。
「イザヨイさん。私も父も、そして姉も、魔族であると同時に希少種の妖鬼です。恐らく人族の感覚では理解できない事かと思いますが、イザヨイさんが考えるほど私も父も母の事を恨んだりはしていませんよ。魔族は親しい親しくないに関係なく他人の覚悟を受け入れ、例えそれが死に繋がるものとわかっていようともその意志を優先します。同時に、妖鬼は生かすべき者のために命を賭して戦う覚悟を決め、またそれを受け入れる事を掟に定めているのです」
それは知らなかった。
今でこそ俺も割り切れるところではあるけれど、サラが言うように普通の人族であれば理解できない感覚かもしれない。
「姉はちょっと変わってるから私たちと同じ考えかはわかりませんけど、父や私からしたら、母は姉と私を生かすために命を落としたという認識なのです。だから私は母の記憶こそほとんどないけれど、強くて立派で、優しい人だったのだと思えるんです」
はっきりとそう告げるサラの表情は、先程の情けない笑みから一転して芯が通った力強さを感じるものへと変じていた。
真っ直ぐ見てくる瞳の強さに圧倒されて、俺は僅かに身じろぐ。
力ではない、意志の強さに俺は負けそうになっていた。
「だから気にしないで下さい……というのは何か違う気もしますが、本当に恨んでいませんから、安心して下さい。母がイザヨイさんたちにとってどのような形で必要とされていたのかはわかりませんし、母が命を落とす瞬間にその覚悟を決めていたのかもわかりませんが、私も父ももう母の死は受け入れています。だからこそ父はミアさんと再婚したのでしょう。何せ妖鬼は家族単位で行動する種族ですからね。家族への思いが強い分、母の死を受け入れられなければ再婚なんて出来るはずがありませんから」
迷いのない言葉に、思わず俺は感心のため息をつく。
しっかりしているとは思っていたけれど、思っていた以上にこの子は精神的に成熟しているようだ。
これはさぞかし姉さんも有り難い反面、困っていた事だろうなぁ。
何せ前世の弟妹である俺や理緒は我が侭を言って散々姉さんの手を焼かせてたけれど、姉さんは大変そうにしたり怒ったりしながらもどこか楽しそうだったのだ。
俺たちはちょっと我が侭が過ぎたけれど、世話を焼くのが好きな姉さんとしては、サラくらい聞き分けがいいのもきっと寂しかった事だろう。
同様に、セタも幼いながらもちょっと聞き分けが良すぎる。
俺としては──
そこまで考えた所で、思わず小さく吹き出して笑ってしまった。
不思議そうにこちらを見てくるサラとセタに、俺はこの話もしてみようかなと、ちょっとした悪戯心を抱きながら口を開く。
「そう言って貰えるとちょっと気持ちが楽になるよ。ありがとう。ところで話は変わるけど、俺が思うにサラもセタも、ちょっといい子過ぎると思うんだよね」
「あっ……」
先程も俺がセタに言った言葉の意味に気付いて泣いていたくらいだから、心当たりがあるのだろう。
サラは気まずそうに首を竦めた。
「さっきも言ったけどちょっとくらい我が侭を言った方が周りも頼られているように思えて嬉しいし、泣きたい時にちゃんと泣いておけば、さっきのイムさんみたいに滅多に泣かない子が急に泣く事で狼狽えるような事もないんだよ。自分の子が泣いてるのにどうにもできないなんて、親としては情けないだろう?」
「……はい」
さっきのイムさんを見て、俺は前世の両親を思い出した。
普段から俺や妹の面倒を見ていたのは姉さんだから、いざ姉さんがいない時に両親の前で俺や妹が泣き出した時、両親はイムさんと同じく狼狽えるばかりで対処しきれていなかった。
その時の、困り果てて情けない表情を浮かべ、今にも子供につられて泣きそうな顔になっていた親の姿が印象に残っている。
一番最悪だったのは、姉さんが珍しく泣いた時だろうか。
姉さんの涙には誰も対処できなくて、結局仏間に閉じこもってしまった姉さんを皆で見守る事しかできなかったっけ。
「サラはもう難しいかも知れないけれど、セタは家族の前だけでもいいから、泣きたい時はちゃんと泣いておくように」
嫌な事を思い出してしまった。
そう思いながらセタに話を差し向けると、セタはわかったのかわかってないのか、不思議そうな表情のまま頷いた。
……理解してくれたという事にしておこう。
「我が侭については……俺は、ハルトさんくらいがちょうどいいと思ったんだけど」
続けて俺がちょっと笑いそうになりながらそう告げると、サラは「え?」と首を傾げた。
対して、東屋の外にいるクレイさんが小さく吹き出したのを俺は聞き逃さなかった。
やっぱり、身近な人相手だとハルトさんはそこそこ我が侭……良く言えば自分の意志を押し通している面があるようだ。
「例えばさっきの国王とハルトさんのやり取り。ハルトさんは結構無茶するみたいだね? 基本的には状況を見て行動するようにしているんだろうけど、かと言って周りの言う事を何もかも聞く訳じゃないみたいだし、周りの空気を読んで自分が正しいと思っている意志を曲げたりもしないんだなって感じたんだけど、違うのかな?」
俺は東屋の外にいるクレイさんに向き直りながら問いかけてみる。
すると空気のように気配を消していたクレイさんはちょっと困ったような様子を見せながらも、結局は苦笑を浮かべて「その通りでございます」と応じてくれた。
「俺はそれくらいの……そういう我が侭だったら、言ってみるだけでも言ってみたらいいと思う。実際リクさんがハルトさんを選んだ要素のひとつに、ちょっと我が侭で手を焼く面があるからっていうのもあったんじゃないかな」
国王とハルトさんのやり取りを聞いて、俺は何故姉さんがハルトさんを選んだのかがわかった気がした。
俺は前世の記憶のせいでハルトさんの事を完全無欠の超人だと思っていた。
けれど実際はそうでもなかった。
姉さんは頼られるのが嬉しいと思う性質の人だし、世話を焼くのが好きな人種でもある。
きっとハルトさんのどこか放って置けない所や、もしかしたら何か頼られるような事があって、結果的に惹かれていったのだとしたら納得出来る。
……うん、何となくハルトさんが放って置けない人だっていうのは、今回行動を共にした事で俺も感じていた所だ。
頼りになるし、しっかりしているとは思うんだけど、ちゃんと見ていないと心配というか。
うんうん、とひとり納得していると、
「イザヨイさんは、姉の事をよくご存知なのですね」
と、対面側から言われて内心で焦った。
しかしサラから向けられる視線には、訝しむような色はない。
何となく勘付いているような雰囲気。
やはりサラには、ちょっと特殊な感知能力のようなものがあるのかも知れない。
結局、俺は小さく笑って誤摩化した。
敢えて明かす事もない。
どうせこの先、彼らと関わる事もなくなるはずなのだから。
その後は当たり障りのない話題……出されているお茶や軽食への感想を言っているうちに、ハルトさんが東屋までやってきた。
背後にシタンと呼ばれていた騎士とは違う騎士を従えている。
「お待たせ。陛下と話し合って、俺とサラは友好関係にあるフォルニード村の視察という名目でフォルニード村にしばらく滞在する方針になった。帯同者としてこちらのイズンを連れて行く。サラには主にセタの面倒を見てもらう形になると思うけど、大丈夫か?」
イズンと呼ばれた騎士は俺に向かって恭しく礼をした。
俺も礼儀として会釈くらいは返しておく。
一方、ハルトさんからの提案にサラの表情がぱっと明るくなった。
「はい、お任せ下さい!」
是が非でもないと言わんばかりの威勢のいい返事に、ハルトさんは微笑みながら「よろしく頼む」と、サラに対して全幅の信頼を置いている様子で頷く。
それから控えていたクレイさんに向き直り「留守を頼む」とだけ伝え、クレイさんも「かしこまりました」と応じる。ここは阿吽の呼吸のようだ。クレイさんはハルトさんの長年の臣下なのかも知れない。
だからこそ城に帰還してすぐのハルトさんに、あんな苦言を口にしたのだろう。
方針が決まったみたいだからすぐにでもフォルニード村に出発するのかと思いきや、結局この日は出立の準備をする為に王城に一泊して、明日ブライに乗ってフォルニード村に戻る事となった。
俺は身軽だけど、ハルトさんたちには色々と支度があるのだろう。
そんなこんなで、俺にも客室が充てがわれた。
俺はクレイさんに案内された客室に入るなり、その豪華さに人知れず感嘆の声を漏らす。
煌びやかとは正にこの事かと思うほど、豪奢な部屋。かなりランクの高い客室を充てがってくれたようだ。
ベッドも手触りだけで上等なものである事がわかる。
マスターの館も豪華な造りをしていてそれに見合う調度品が揃っているけれど、定期的に入れ替えているとは言え家具等は結構痛んでいた。
俺たちの資金は基本的に人族に紛れやすいリムエッタやダン辺りが冒険者ギルドに登録して、高額な依頼をこなしたり、高額で売れる珍しい魔物を売ったりして稼いでいる。
食べ物や調度品の入れ替えは彼らが稼いでくるお金に頼る他ない。
それを思うと、ここで出される食事も提供される客室も、豪華ではあるけれどどこか味気なく感じてしまう。
無意識に、帰りたいなぁと思った。
帰りたい。
マスターが正気であった頃の、あの館に。
ぼんやりそんな事を考えていると、視界の端に空に浮かぶ月が見えた。
この世界の月は時折青白い光を帯びる。
マスターが言うにはあの月には膨大な魔石が眠っていて、時々魔石から魔力が漏れ出てきた時に青白く光るのだとか。
確かに魔力は視認しようとすると青い光に見えるから、実際そうなのかも知れない。
けれどその話を聞いたからこそ、俺はあの月に恐れを抱くようになった。
膨大な魔石が眠る月。
時々漏れ出す魔力の光。
あの月には一体、何者が潜んでいるのだろうと。
仮に月が魔力場なのだとしても、膨大な魔石を生み出したり、漏れ出るほどの魔力が発生するなんて考え難い。
だからこそ俺は月には未知の、想像を絶するほどの魔力を持った何者かが存在しているように思えてならなかった。
ぶるりと身震いして月から視線を反らすと同時に、急激な脱力感に襲われて床に座り込む。
「大丈夫か?」
すぐさま火の精霊ファルジークが傍らに現れた。
襲い来る寒気に耐えるように自らの体を搔き抱きながら、俺はファルジークを見上げる。
心配そうな顔で俺の顔色を確認するこの精霊とも、長い付き合いだ。
そう、とてもとても長い年月を共にしてきた。
何せ、俺の命は彼の力によって長らえているのだから。
本来であれば竜との間でしか成立しない命の契約を、精霊と交わした。
その秘術をナギとセツナが編み出した。
それが、俺たちが白神種とは言えただの人族でありながら竜族並みの寿命を生きてきた絡繰りだ。
けれどそれは、永遠を約束するものではない。
「そろそろ、限界かな」
ぽつりと言葉を落とす。
するとファルジークは悔し気に表情を歪めた。
「俺の力不足だ」
「違う、俺の体が弱かっただけだよ」
自らを責めるファルジークに、俺は力の抜けた笑みを向けた。
「セツナだってそうだったでしょ。結局は俺たち人側の、生身の体が保つかどうかなんだ。でも上等だよ。だって、1500年以上も生きてきたんだから。ただ、どうしてもあと少し。あと少しだけ、生きさせて欲しい」
「……マスターの望みを叶えるまで、か?」
俺の懇願にファルジークは少し怒ったような低い声音で問いかけてきた。
ファルジークは俺の事を一番に考えてくれている。
それ故に、俺がマスターのために苦しむ事を苦々しく思っていたのも知っている。
同時に、ファルジークが主である俺に対して抱くものと同様の思いを、俺が主であるマスター……フレッグラード様に抱いている事を理解してくれているのも知っている。
だから俺がファルジークの意志に反する答えを選んだとしても、ファルジークがそれ以上反対してこない事もわかっていた。
俺はずるいやつだな、と思う。
ファルジークが俺の気持ちを理解しているように、俺だってファルジークの気持ちは理解しているのに。
なのに俺は主の立場にないファルジークに対して、主の立場に立ってしか物を言わない。
マスターは違う。
マスターはいつだって、俺たちの事を考えて、俺たちの気持ちも汲んでくれていたのに。
「駄目な主でごめん」
「最高の主だから気にするな」
ほとんど無意識に謝罪すると、さらりとファルジークに返されてしまった。
見遣ればファルジークは楽しそうに笑っている。
「契約した精霊の事を考えて心を痛めながらも意志を曲げずに突き進む主なんて、そうそういないからな。俺は、イザヨイが主で良かったと思ってる。だからその望み、全力で叶えてやる。例えイザヨイがその時まで保たなくても」
あぁ。
俺には、こんなにも頼もしい友人がいるんだ。
きっと大丈夫。
何もかもうまくいく。
そう思ったら、自然と笑みが零れた。
近年例を見ないほど、俺の心は軽く、楽になっていた。
そうだ、あとちょっと。
もう少し頑張ればいい。
万が一何かあっても、ファルジークやサギリたちが何とかしてくれる。
気負いすぎなくてもいいんだ。
俺はただ全力で、マスターの望みを叶えればいい。
そのためにも。
最後の瞬間を迎える前に、姉さんとちゃんと話をしよう。
もう一度ちゃんと話し合おうと言ってくれた姉さんに、心残りを抱いてしまわないように。
「ありがとう、ファルジーク」
「どういたしまして、我が主」
そんな言葉を交わして、俺とファルジークは笑い合った。
誰よりも俺の事を理解して、俺の望みを叶えるために力を尽くしてくれている俺の精霊。
俺に残された時間があとどれくらいあるのかはわからないけれど、せめて俺はファルジークの言う主としての姿勢を貫いて、最期まで生き抜こうと決意した。