102. “研究所”、最後の日
* * * * * ハルト * * * * *
俺は今、ムツキの先導のもと“研究所”の通路を走り抜けていた。
方々から感じられる不気味な気配が気になるが、今はただひたすら、“研究所”の中枢を目指す。
先導を頼んだはいいけど、時々現れる異形の生物を次々と倒しながら進むムツキの快進撃のおかげで、俺はムツキについて行く以外何もする事がない状態だ。
それくらい、ムツキは強い。ブライすら「強いな」と漏らすほどだ。
リクから念話でゼレイクに“研究所”がある事を聞いた後、俺はゼレイクの元領主に鎌をかけてみた。
しばらく元領主は明らかに動揺した様子ながらも沈黙を保ち続けていたけれど、オルテナ帝国が魔王レグルス=ギニラックに攻め入られた事を伝えると、自らのバックについていたオルテナ帝国の助けはないものと判断したのだろう。急に色々と白状し始めた。
そうして俺は“研究所”の所在地とそこで行われている事、“研究所”がどれくらいの規模の施設であるのかを把握する事ができた。
“研究所”で行われている人体実験や人体改造に関しては、アールグラント国王にも伝えられている。
陛下に報告する際に同席した全員が全員気味悪そうに話を聞き、場合によっては青ざめ、中には吐き気を催している者もいた。
それほどまでに酷い内容だった。
元領主の証言からは、神位種ではない普通の人族では例えどんな手練れであろうとも、“研究所”で造り出された生物に対抗するのは厳しいという事もわかった。
何せ“研究所”が素材として誘拐していたのは、主に魔族の希少種だ。
希少種は数こそ少ないものの、大抵の場合、何らかの強力な能力を持っている。
“研究所”にいる生物が厄介な相手である事は間違いないだろう。
更に言えば、元領主は「“研究所”にいる異形の者たちには魔族を殺すように洗脳が施されているから人族は襲われない」と言っていたけれど、それが確実な洗脳なのかは不明だ。
人族だから絶対に安全だとは言い切れない。
そこで俺が名乗りを上げ、同行者を連れて行く事を条件に、この件に関しては俺に一任される流れとなったのだ。
正直、ひとりで向かうのは厳しいと思った。
しかし人族では対抗できないからと言って、希少種であり魔族でもあるイムやサラに同行を依頼するのは論外だ。
そもそも“研究所“は希少種を誘拐して人体実験を行うような組織だし、そこにいる実験の末に造り出された生物は魔族を殺すように洗脳されているという話なのだ。
危険な目に遭わせてしまう事は明白だった。
そんなこんなで同行者を誰にしたものかと頭を悩ませていた時に、タツキからの遣いとしてセンとブライが城にやってきた。
そして再度フォルニード村に現れたゴルムアと戦闘があった件と、その後のリクの状況を聞いて、俺は自分の足元が揺らいだような気がした。
ゼレイクに“研究所”があるという話をリクとした時、俺はリクにくれぐれも無茶はしないように、と伝えた。
けれど状況がそれを許さない事くらいは理解していた。
結果的にリクはゴルムアと戦い、ルウの助力で危機は乗り越えたものの、その後ゴルムアを取り込む事で倒れる事となってしまった。
仮に俺がその場にいたとしても、結果は変わらなかっただろう。
けれど、せめてその場にいられたらと思った。
むしろどうしてその場にいなかったのか、という思いの方が強い。
リクの傍にいられない事が、こんなにも耐え難いだなんて……。
ブライに乗って急ぎ向かったフォルニード村で眠るリクを見て、俺は脱力しそうになった。
この目で無事が確認出来てほっとしたのと同時に、自分が如何にリクという存在に支えられているのかを自覚する。
その事を痛感しながら、やや不安定な足取りでリクが眠るベッド横まで歩く。
椅子に座り、リクの手を取ってその体温に意識を傾けた。手の平を通して俺よりも少し低いリクの体温が感じ取れて、ほっと息を吐く。
視線をリクの顔に向ければ、リクがただ眠っているだけなのだという事もわかる。
あの時と同じだ。
リクが魔王種としての二次覚醒した後と、同じ……。
そう思ったら、少し気持ちが落ち着いてきた。
落ち着いた所でようやく自分が弱気になっている事に気付いて、気合いを入れ直す。
俺はジルのような人間になりたいのだ。
困っている人を見捨てず、手を差し伸べられるような人間に。
その事を改めて自らに思い出させ、リクだって頑張ってフォルニード村を守ったのだから俺も負けていられないと考え方を改めると、「よし」と声に出して気持ちを切り替え、椅子から立ち上がった。
そうして振り返った先、部屋の入り口にいたのがムツキとサギリだった。
ムツキの第一印象は、魔王ゾイ=エンとの戦いの最中に抱いたものになるのだろう。
正直、素直に「強い」と思った。
ぼんやりしているようでいて全く隙がなく、迂闊に敵に回したくない雰囲気を纏っている青年。
白神種も希少種ではあるけれど、俺の知る限りでは優れた直感力を持ってはいても、身体能力そのものは普通の人族と変わらなかったはずだ。
そんな白神種であるはずのムツキは以前、身体強化魔術を自らに施している魔王ゾイ=エンを一撃で吹き飛ばしている。
その事から、ムツキは神位種や魔王種と比べても遜色ない程の戦闘能力を持っていると判断できる。
本来であれば、アールグラントと魔族領との間にあった関所を壊滅させた張本人であるムツキには怒りや憎しみこそ感じるべき所なのだろうが、そのどこか抜けているような雰囲気に絆されてしまってか、何故か憎み切れない。
俺としては複雑な所だけど、正直に言えば、ムツキを敵に回したくない。
本能が、敵に回してはならないと訴えてくる。
それくらいゾイとの戦いの際に目にした強さも、そして今目の前で繰り広げられている快進撃も、凄まじいものだった。
俺もブライも何も手出し出来ないまま、どうやら“研究所”の中枢部に到着したようだ。
ここまで足を止めなかったムツキが、明らかに他とは異なる大きな扉の前で立ち止まった。
俺も慌てて立ち止まり、扉を見上げる。
城の謁見の間や巨城ゴート・ギャレスの扉ほどではないが、そこそこ大きな扉だ。
高さは3メートルくらいはあるだろうか。
他の扉には木製のものが使われていたけれど、この部屋だけは鉄扉になっている。
こんな重そうな扉、どうやって開くのだろうか……。
「嫌な気配がする」
ぽつりとムツキが呟く。
ムツキほどの実力を持つ者でも、嫌悪感を抱くような気配。
恐らく俺が感じている、不気味な気配と同一の気配の事を言っているのだろう。
俺の肩に乗っているブライも言葉には出さないけれど、中枢に向かうに連れて警戒を強めていた。
竜の感覚器官は全種族中トップクラスだ。
この先に不穏な存在がいるのは間違いなさそうだ。
「また異形か?」
「多分。とりあえず異形なら本当に洗脳が効いてるみたいだし、ここまでの感じだとこちらが手を出さない限りは無害だから大丈夫だろうけど……一応、油断だけはしないように」
確かにゼレイクの元領主から聞いていた通り、ここに来るまでの間に現れた異形たちは皆一様に姿こそ見せるものの、向こうから先に手を出してくる事はなかった。
さすがに命の危険を感じて抵抗する異形もいたけれどムツキは容赦なく向かっていき、呆気なく倒し、次々と沈黙させていった。
その様子を思い出しながら俺はムツキの指示に「了解」と返すと、油断なく腰に佩いた剣に手をかける。
それを確認して、ムツキが鉄扉に近寄っていった。
片手で鉄扉に触れ、抑えた声で「鍵はかかってないみたいだ」と伝えてきた。さっき俺が扉を開ける時くらい穏便に行こうと言ったのを気にしているのかも知れない。
律儀だな、と感心したのも束の間。
ムツキが数歩鉄扉から離れた。
何をするのかと見ていたらムツキは視線を火の精霊に向け、「ファルジーク、頼む」と短く告げた。
ムツキの傍らに付かず離れずでついて来ていた火の精霊がひとつ頷いて、空中でくるりと姿勢を変える。
そして宙を滑りながらもの凄い勢いで鉄扉に突進して行った。
鉄扉にぶつかっても精霊なら無傷かも知れないけれど、ムツキが精霊に何をさせようとしているのかわからず咄嗟に自分とムツキに神聖魔術の結界を施す。
次の瞬間、火の精霊が鉄扉をすり抜けた。
同時に、火の精霊が通り抜けた箇所の鉄扉が溶け出す。
火の精霊は更に何度か鉄扉のこちら側と向こう側を往復して、やがて鉄扉のほとんどが溶け落ちた。
その様子を驚愕しながら見ていると、
「こんな狭い所で火は使えないから、ファルジーク……火の精霊自身の熱で溶かして貰ったんだ。鉄が溶けた時に発生する熱も彼に回収して貰ってるから、結界を張らなくても大丈夫だったんだけど……でも、ありがとう」
ムツキはそう告げて、さっさと扉の向こうへと歩き出してしまった。
その表情は窺えなかったけれど、俺に顔を見られないようにか先を急ぐムツキの様子に思わず口許が緩みそうになる。
それを何とか堪えて気を引き締め直し、ムツキに続いて溶け落ちた鉄扉の先へと向かった。
扉の開け方は全く穏便じゃなかったけれど、ここは目を瞑っておくとしよう。
そうして入った部屋は、とても広かった。
前世の記憶補正のせいで「人体実験をしている研究所」と聞くと機械や巨大なシリンダーが並んでいるイメージだったけど、室内の様子はどちらかと言えば、魔術の研究室に近い……だろうか。
床や壁に施されている数々の魔法陣。
その周囲に散乱する怪し気な液体の入ったガラス瓶や、何やら色々と書き込まれた紙。
壁際の床には本が山と積まれ、所々で雪崩れているが放置されている。
同じく壁際に並ぶ棚には本や怪し気な液体の入った瓶も収められているけれど、棚の大半が目を覆いたくなるような物で溢れ返っていた。
頭蓋はわかりやすいが、どの部位ともわからぬ骨や、束ねて置かれた大量の毛髪。
腐りかけた腕、既にミイラ化した何か。
更に部屋に視線を巡らせれば、部屋の中央付近に並んだ寝台のようなものの上に、原形のわからない生物の成れの果てが横たわっていた。
ぴくりとも動かない。
その周りに置かれた台の上には、多種多様な刃物や器具、空の容器が置かれている。
周囲は血の匂いで満たされ、呼吸するのもつらい。
「本当に、胸くそ悪い場所だね。シスイとダンの報告通りだ」
ムツキは口許を手で押さえて顔をしかめながら、更に数歩部屋に踏み込んだ。
俺も周囲に警戒しながらそれに続き……見つけてしまった。
鉄扉とは反対側、寝台の向こう。
そこで、魔術師らしき人が数名、絶命していた。
どうやら部屋に充満している血の匂いの正体は、彼らが流している血の匂いだったようだ。
慎重に寝台を回り込んで近付いてみると、折り重なるようにして倒れている魔術師たちの傍らに、真っ白な髪の男性と鈍色の髪の女性が座り込んでいた。
固く手を握り合って、絶命している魔術師たちの亡骸をじっと見つめている。
この部屋に入る前から感じていた、ぞっとするような不気味な気配。
その主たちがそこにいた。
「個体数2。魔王種が1。異形白神種が1」
ぽつりとムツキがそう呟くと、男女がこちらを振り返った。
白髪の男性が白神種……元・白神種、のようだ。
光を失った深い紅の瞳を、幽鬼のような様相でこちらに向けてくる。
その腕や足は異種族の腕や足とすげ替えられているようで、白神種特有の肌の白さとは異質な赤黒さが目立つ。
男性の体に不釣り合いなほど大きな手足から、希少種ではないが、恐らく強力な腕力を持つ剛鬼の手足ではないかと予想できる。
男性が、ムツキの言葉を借りて異形白神種だとすると、鈍色の髪の女性の方が魔王種か……。
向けられた瞳の色は、赤目。
赤目の魔王種。
しかし魔王種特有の、あの美しい虹彩がその瞳には見受けられない。
代わりに、暗い闇のような輝きが虹彩に刻み込まれていた。
「“研究所”も魔王種を拐かしていたのか」
「……“研究所”も、か」
ムツキの言葉に思わず苦い思いが言葉となって漏れてしまった。
しかしムツキは気を悪くした風もなく、「も、だよ」と律儀に返してくる。
気を悪くはしていないようだけど、苦しそうに眉をしかめていた。
何とも思っていない訳ではない。けれど、後悔もしていない。
そんな様子だった。
俺たちが手を出しあぐねている間も、異形白神種の男性と魔王種の女性はぼんやりとこちらを見ているだけだった。
やはり彼らも洗脳を受けているようだ。
自分の命の危険を感知していないが故に、向こうもこちらに手出しして来る様子はない。
魔王種と、能力を測るのが困難な異形白神種。
ここまでの道中でムツキが倒したどの異形と比べても、突出して厄介そうな相手だ。
下手に手は出せない。けれど、放置も出来ない。
さて、どうしたものか……。
困り果てていると、ふとムツキがこちらを振り返った。
じっと俺を見ながら何やら考え込み始める。
何かいい案が浮かんだのだろうかと思い、ムツキが結論を口にするのを待つ事しばし。
ようやくムツキの考えがまとまったようだ。
「ハルトさん、浄化魔術を魔王種の人にかけて貰ってもいい? もし何かあったら俺が責任を持って対処するから」
ムツキはそう告げて魔王種の女性に向き直る。
浄化魔術か。
確かに洗脳は干渉系魔術に分類されるものと予想できる。
ただ、干渉系魔術は浄化魔術で解除できるけれど、洗脳が解けた瞬間に襲いかかってくる可能性だってある。
まぁ、それを考慮してムツキは「責任を持って対処する」と言ってきたんだろうけど。
俺は短い時間思考を巡らせ、しかし他に妙案がある訳でもないので了承した。
すぐに視線を魔王種の女性の方へ向け、魔力を繰る。
状況を理解していないような様子で、ぼんやりした眼差しをこちらに向けている魔王種の女性。
彼女に向かって、俺は思念発動で浄化魔術を行使した。
「浄化せよ」
発動した浄化魔術は魔王種の女性の足下から純白の光となって立ち上り、室内を明るく照らした。
室内の薄暗さに慣れた目には、あまりにも眩しい光。
魔王種の女性は咄嗟に目を閉じて両手で顔を覆った。
横にいた異形白神種の男性も、光から逃れようとするかのように一歩後退り……。
「……あ、あぁ……」
浄化の光が収まると、魔王種の女性が呻き声をあげた。
それからゆっくりと両手を下ろし、こちらへと顔を向けてくる。
その瞳に魔王種特有の虹彩は戻っていない。
けれど先程までのぼんやりした目とは異なり、明らかに理性の光がそこに宿っていた。
「神位種……?」
小さく呟く掠れた声。
しかしすぐにその場を飛び退いた。
隣にいた異形白神種の男性が、唐突に魔王種の女性に襲いかかったからだ。
すかさずムツキがフォローに入り、繰り出された拳を手の平で受け、そのままもう片方の手で異形白神種の男性の腕を掴むと捩じり上げて相手の動きを封じる。
「ハルトさん、こっちにも浄化魔術をかけて」
全く息を乱す事なく冷静に言われて、俺は頷く事しかできず。
「浄化せよ!」
今度は異形白神種の男性に浄化魔術を施した。
途端、立ち上った純白の光の中で異形白神種の男性が苦しみ出す。
先程魔王種の女性に浄化魔術をかけた時には見られなかった反応に、俺は戸惑った。
一方、ムツキは予想していたのだろう。
落ち着いた眼差しで、じっと男性の様子を見ている。
やがて浄化の光が消え、それと同時に異形白神種の男性はがくりと床に倒れ込んだ。
何が起こったのかわからないまま男性に駆け寄ろうとした俺を、ムツキが手で制する。
「やっぱり駄目だったみたい……。異形白神種の人は多分、洗脳以外にも何らかの魔術が施されていたんだろうね。そうする事で、異種族の手足を付けた時に起こる拒絶反応を誤摩化してたんだと思う」
一瞬、ムツキが何を言っているのかわからなかった。
けれど一拍遅れて、ムツキの言葉の意味を理解する。
つまり。
洗脳を解く為の浄化魔術によって本来の体からしたら異常な状態に陥っていたもの全てが浄化され、白神種として正常な状態に戻った事で、今まで何らかの魔術によって抑えられていた異物である手足への拒絶反応が起こり、異形白神種の男性は命を落とした……という事だろう。
俺は呆然と、ぴくりとも動かなくなった白神種の男性を見下ろした。
人の命を奪うのは、これが初めてではない。
ジルたちと旅をしている間には、幾度となく野盗と化した人族や好戦的な魔族を相手に戦ってきた。
けれど。
救うつもりで行動した結果、命を奪ってしまったのはこれが初めてだった。
ムツキを恨むつもりも、責めるつもりもない。
ただ、胸に鈍い痛みが生じていた。
「俺の判断ミスだから、ハルトさんが気に病む事はない」
まるで俺の心情を読み取ったかのようなムツキの言葉。
視線をそちらに向けると、ムツキは既に顔を上げ、正面に立つ魔王種の女性に意識を傾けている。
つられるようにしてそちらを見ると、魔王種の女性は足下に横たわる白神種の男性の亡骸を見下ろしながら、ボロボロと涙を流していた。
涙を拭う事もせず、ただただ、立ち尽くしたまま涙を流し続けていた。
「俺を恨んでくれてもいいから、答えて。君は今、正気?」
ムツキの問いに女性は顔を上げ、ムツキをひたりと見据える。
その瞳には、恨みや憎しみといった感情は窺えない。
どちらかと言えば、諦めと安堵の感情が見え隠れしていた。
「私は、正気……」
訥々と、一語ずつ答える魔王種の女性。
ムツキはひとつ頷くと、更に問いを重ねた。
「他に生き残りはいる?」
「いる。研究所内に気配が残ってる」
ムツキの問いに、魔王種の女性は迷いなく答えを返す。
どうやら本当に正気に戻ったらしい。
「ここの魔術師たちを殺したのは、君たち?」
「そう。ここしばらくは洗脳のかけ直しがされなかったから、私と白神種の人の洗脳が解けかけてきてて、それで、魔術師たちを殺した。もう、洗脳を受けるのは嫌だったから……」
「なるほど」
淡々と質問を繰り返すムツキに、包み隠さず応じる魔王種の女性。
そんなふたりを眺めながら、ふと思った。
俺、浄化魔術以外何の役にも立たなかったな……と。
その後はブライの鋭い感覚を頼りに“研究所”内をくまなく探って、異形を見つけ次第浄化魔術をかけて回った。
魔王種の女性以外、浄化魔術を受けて生き延びた異形はいなかった。
皆が皆、その場で命を落とした。
けれど、先程感じたような胸の痛みはもうなかった。
恐らく浄化魔術を行使する度に、魔王種の女性が礼を言ってきたからだろう。
彼女曰く、「洗脳されている間も、意識が少し残ってる。全部記憶しているから、余計に苦しい」らしい。
だからだろう、彼女は俺がひとり浄化する度に解放してくれてありがとうと言い続けていた。
浄化しては亡骸を中枢部の部屋に運び、また他の場所に向かって異形を発見しては浄化して亡骸を中枢部に運び……という事を何度となく繰り返し、一通り“研究所”内を回り切ってから改めて中枢部の部屋に戻った。
途端、魔王種の女性が崩れるように床に膝をついた。
“研究所”内を回っている時に息が荒くなっている事には気付いていたけれど、それでも同行を願い出てきた彼女を、俺もムツキもブライも止めなかった。
何となく、そんな気はしていた。
他の異形は誰ひとりとして浄化魔術に耐えられなかったのに、彼女だけは耐えた。
けれどそれは一時の事で、彼女の命も辛うじて繋ぎ止められているだけなのではという懸念はあった。
そして。
魔王種の女性は床に膝をついた姿勢のまま、ぐらりと前のめりに倒れた。
慌てて駆け寄るも間に合わず、けれど倒れた先には例の白神種の男性の遺骸があったおかげで魔王種の女性が床に頭を打ち付けるような事もなく。
傍らに膝をついた俺やムツキ、ブライに弱々しい視線を向けると、最期に小さく「ありがとう」と言い残して、瞳を閉じた……。
こうして魔王種の女性も白神種の男性も、他の異形たちや魔術師たちの亡骸と共に火の精霊によって塵になるまで燃やし尽くされた。
中枢部にあった魔法陣や書物、書類、薬品。全てと共に。
火の延焼を懸念したけれど、火の精霊が炎を操って室内のみを焼き尽くしていた。
あれだけの強大な力とそれを見事に操る制御力を持つ精霊だ。高位精霊なのだろうと思う。
不意に、火の精霊と目が合った。
思わず息を詰めると、火の精霊はふと口の端を上げて笑みのようなものを浮かべ、ムツキに何事かを囁きかけるとあっという間に姿を消してしまった。
何だったんだ、今の。
疑問に思っていると、ムツキがこちらを振り返った。
「ファルジークが人を誉めるなんて珍しい。火の精霊が、ハルトさんの事を誉めてたよ。あれだけ見事な神聖魔術を見るのは数百年ぶりだって。でも自分の存在が気になってるみたいだから一旦精霊石に戻るってさ」
何やら誉められたらしい。
確かに火の精霊……ファルジークの事は気になってはいたけれど、何も引っ込まなくても。
……とは思うものの、“研究所”を出たら外は街だ。精霊族はこの大陸では滅多に遭遇しない種族だから、姿を消していて貰った方が街の人たちが混乱せずに済みそうだと判断して、そのまま精霊石に入っていて貰う事にした。
それにしても、精霊石か……。
ちょっと懐かしいな。
以前はリクの額にも黒い精霊石があったけど、今はもうない。
それとなくムツキの額を見ると、長めの前髪に隠れてはいるものの、ちらちらと赤い精霊石が見えた。
リドフェル教の面々は前髪が長かったり、帽子を目深に被っていたりして額があまり見えないから判断出来ないけれど、まさか全員が精霊と契約を交わしているとかいう事はないよな……?
だとしたら万が一敵対する事になった場合、相当苦しい戦いを迫られる事になるだろう。
勝てる見込みなんて、無に等しい。
そんな事を考えて俺はひとり、ぞっとして肌を粟立たせていた。