101. 潜入
* * * * * ムツキ(イザヨイ) * * * * *
姉さんがゴルムアを取り込んで倒れてから、五日が経過した。
北方では魔王レグルス=ギニラックがついにオルテナ帝国の首都ルデストンに到達。
そう時間をかけずに勝敗が決まるかと思っていた……けれど、オルテナ帝国はゴルムア以外にも切り札を持っていたようだ。
切り札。
それはリムエッタが予想した通り、“研究所”で造られたものと思われる、希少種を素材とした人体実験や人体改造による成果品たちだ。
そんなものは前世でも小説や漫画の世界の話で現実的ではないと思っていたから、俺としては信じ難い面があった。
けれど調べたのはシスイとダンだ。
真面目の代名詞のようなシスイとダンが、そんな作り話をするはずがなかった。
聞いた話によると“研究所”では誘拐した希少種を素材にして、人体のパーツを継ぎ接ぎしたり、血液を混ぜ込んでみたり……正直聞いていて気持ちのいい手法などそこにはなく、全体数からしたら数少ない成果品たちも歪で、完全には制御出来ていないらしい。
故に、ゴルムアに施されていたような洗脳がその成果品たちにも施されていた。
恐らく“研究所”が独自に開発した思考や精神を侵す魔術によって、“魔族を殺せ”というたったひとつの思考が植え込まれている。
結果的に辛うじて残っていたであろう自我は壊され、恐怖心を抱かずにただ単純に魔族に襲いかかって行く、無駄に能力だけが高い生物が出来上がっていった……というのが、シスイが“研究所”の偵察をした末にまとめた報告書の内容だ。
今レグルスたちをてこずらせているのが、正にそんな“研究所”の成果品たちなのだと思うと寒気がする。
出来ればそんな不気味な生物の相手はしたくないから、レグルスには是非頑張ってオルテナ帝国との戦争に勝利して貰いたいと思う。
レグルスを確保するのは、その後でも遅くはないし。
そんな戦争の状況をリムエッタからの念話経由で把握しつつ、俺とサギリはフォルニード村に留まっていた。
リドフェル教の神官服は目立つかと思ってサギリと共に目立たない服装に着替え、姉さんが目覚めるのを待っている──けれど、魔王マナ=フォルニードや村人たちからはあからさまに警戒されている。
そりゃそうだ。
こちらはフォルニード村の人々の顔など覚えていないけれど、彼らからしたら俺やシスイ辺りは忘れられない顔だろう。
何せ魔王ゾイ=エンと結託して、一度この村を壊滅寸前まで追いやったのだから。
けれど、兄さんや転生者で神位種のフレイラさん、同じく転生者で魔王種のセンさんはさほどこちらを警戒していないようだ。
不思議に思って「そんなに気を許してていいの?」と問いかけたら、兄さんは苦笑しながら「前世では睦月の事も、ちゃんと見てたからね」と返されてしまった。
思わずフレイラさんやセンさんに視線を向けると「リクさんやタツキくんが大丈夫って言うなら、大丈夫なんでしょう」「俺もそう思う」と言われて、恐らく俺は変な表情を浮かべてしまったのだろう。
兄さん、フレイラさん、センさんに笑われてしまった。
正直、俺としては兄さんという人がどんな人なのか良くわかっていない。
何せ前世では生まれて間もなく亡くなっていたのだ。
辛うじて名前は聞いていても、遺影すらなかったからどんな顔なのかも知らなかった。
そんな人が目の前にいるというだけでも不思議な感覚で、その感覚に意識が引っ張られているのか、まるで掴み所がない人のように思えてしまう。
けれど兄さん側には俺に対して“前世の弟”という認識があるようだ。
それはそれで、何だか不思議な感覚ではあるのだけれど……嫌な感じではない。
良くわからないといえば、姉さんもだ。
どうも今世の姉さんからは前世の姉さんから受けていた印象とは違う印象を受ける。
持っている雰囲気こそ限りなく近いものの前世の記憶とはどうにも違うように思えて、ちぐはぐな感じだ。
でも。
この世界に生まれてから気が遠くなるような年月を過ごした今でも、思い出せる前世の記憶。
俺や妹の理緒は、お姉ちゃん子だった。
共働きで夜遅くまで不在だった両親に代わって、姉さんが面倒をみてくれていたからだ。
だから前世の俺にとって姉さんは、大人になってからもずっと、いつか恩を返したい、必ず幸せになって貰いたいと思える人だった。
なのに……。
いや、もう今更考えても仕方がない事だ。
前世の姉さんは決して幸せではなかったようだけど、今世はどうやら違うようだし。
出来たらもうしばらく姉さんの周囲の人たちを観察していたい所だけど……この5日間でも大分わかってきた気がする。
姉さんの周りの人たちは前世の記憶が俺ほど薄れていないからだろうか、お人好しばかりだ。
この世界は前世の世界の感覚のままだと生き難い。いつかあのお人好しが災いを呼び込んでしまう時が来るだろう。
出来たら、そんな思いはして欲しくないけれど……。
そんな事を考えていたこの日、ある人物がフォルニード村にやってきた。
兄さんがセンさんと黒神竜に何事かを頼み込んで、フォルニード村から黒神竜に乗ったセンさんが飛び立ったのは三日前。
そして三日が経過したこの日、黒神竜とセンさんは1人の男性を連れてフォルニード村に戻ってきたのだ。
男性の顔には見覚えがある。
望月 陽人。
恐らく今世の姉さんの結婚相手だ。
「ハルト、こっち」
兄さんが先導して姉さんがいる建物、本部へと案内する。
その様子を見ていると、傍らでサギリが「もしかしてあの人、リクの旦那様!? かっこいい〜!」と騒ぎ始めた。
格好良いに決まってる。前世でももててたんだから。魂還りとは言え、今世でもあの容姿ならさぞもてた事だろう。
そんな人が姉さんの旦那、か……。ちょっと気になる。
「あっ、イザヨイも行くの?」
一歩動いた瞬間にすかさずサギリが声をかけてくる。
俺はちらりとサギリを振り返り、小首を傾げた。
「行ったらまずいかな」
「いいんじゃないのぉ? 俺の姉さんは渡さない!くらい言っちゃえばぁ?」
けらけらと笑うサギリ。
どれだけ俺がシスコンだと思ってるんだろうか。
返事をするのも面倒に感じて、俺は無言で姉さんがいる本部へと足を向けた。
当たり前のようにサギリもついてくる。
そうして姉さんの部屋に辿り着くと、部屋の扉が開かれたままだった。
そのまま室内に入る。
すると、望月 陽人が姉さんの手を握ってじっと姉さんの顔を見ていた。
一歩下がった所に兄さんがいて、俺たちに気付くと静かにするように仕草で伝えてくる。
思わずその場で立ち止まって、言葉を発しないように黙り込む。
「……よし」
と、唐突に望月 陽人が立ち上がった。
そのままくるりとこちらを振り返り、ぴたりと動きを止める。
全く隙のない動き。
さすが、現在存命の神位種の中で最も有能な神位種だと言われているだけの事はある。
「あっ、もしかして、あの時の……?」
「そう。ムツキだよ。あと、その後ろにいるのがサギリ。リドフェル教の使徒だけど、どちらも僕たちと同じ転生者」
望月 陽人の言う「あの時」とは、恐らく彼らが魔王ゾイ=エンと戦った時の事を指しているのだろう。
今世の俺と望月 陽人の接点なんて、あの時くらいしかない。
「そうか。初めまして、って事もないんだろうけど。俺はハルト=ロベル=レイグラント。前世の名は望月 陽人だ」
そう言って右手を差し出されて困惑する。
だって、今までほぼ敵のようなものだったのに、こうもあっさり……。
いや、それを言ったらフレイラさんやセンさんもそうか。望月 陽人──ハルトさんも、姉さんや兄さんの事をそれだけ信頼していると言う事なのだろう。
俺はそう自分を納得させ、ハルトさんの手を取る。
「俺はイザヨイ。前世の名は、瀬田 睦月」
俺が名乗ると、ハルトさんはにこりと微笑んだ。
「リクとタツキの前世の弟、だよな? 前世では面識ないけど……」
「ハルトさんは地元では有名人だったから、俺はハルトさんの事をある程度は知ってるけどね」
すかさず返すと、ハルトさんは苦笑いを浮かべて「外面が良かったからなぁ」と呟いた。
それから今度はサギリに手を差し出して名乗り、サギリが嬉しそうにその手を取って名乗り返す。
サギリは前世で住んでいた位置が遠いから、ハルトさんの事は知らなかったようだ。
「前世からその顔ならさぞかしもてたでしょ〜? ……で、何で今世ではリクを選んだのぉ?」
全く自然じゃない流れでそんな事を問いかけるサギリに、ハルトさんは一瞬固まる。
それから真剣な表情で考え込み、散々悩んだ挙げ句にこう言った。
「リクを好きになった理由なんて挙げてたらキリがない。でも敢えて言うなら、リクの近くにいたら好きにならざるを得なかった……ってところかな」
「ひゃーっ、ねっつれつぅ〜!」
茶化すサギリ。
でもハルトさんが真剣にサギリからの問いに答えた事は、聞いてたらわかる。
わかるからこそ、サギリは茶化して「聞いてるこっちが恥ずかしい!」と言う空気を誤摩化した。
「……っと、時間が差し迫ってるんだった。タツキ、リクの事は頼んだ」
外を見て太陽の位置を確認するなり、ハルトさんが慌て出す。
「うん、任せて。それで、誰と行くの?」
「正直悩ましいところなんだよな。魔族以外でとなると、フレイラに頼むしかないか……」
「……何の話?」
話が見えずに割り込むと、兄さんが「あっ!」と声を上げた。
「ムツキ! ムツキに手伝って貰ったら楽勝だと思うよ!」
「だから、何の話?」
改めて問いかけると、ハルトさんが少し困ったように眉尻を下げながら「交易都市ゼレイクにある“研究所”を潰しに行くんだ」と答えてくれた。
“研究所”を潰す。
なるほど、確かにそれも急務だろう。
あんな化け物をこれ以上増やされるのは嫌だし、これは現状では敵対する気がない事をアピールをするのにちょうどいい機会かも知れない。
「わかった。俺でよければ手伝わせて貰う」
「えっ、じゃああたしも」
「サギリはここで待機」
「えぇ〜っ!」
不満げなサギリ。
けれど向かう先は狭い“研究所”。人数が増えれば増えるほど動き難くなるだけだ。
「基本は二人組、状況によって三人以上、どんなに多くても五人。“研究所”は狭いから、二人。それ以上は余分だからいらない」
きっぱり言い切ると、サギリも渋々ながらも引き下がった。
この人数の配分はリドフェル教の使徒内で取り決めたものだ。
基本は二人。これが一番身軽で動きやすく、フォローもしやすい。
手こずるような相手の場合や、希少種狩りのような危険を伴う任務の場合は人数を増やす。
安全を確保しつつも少ない人数で効率を重視しながら動けるようにと、マスターの指示で皆で考えた手法だ。
「そんなはっきりいらないとか言わなくても」
ハルトさんがちょっと驚いたような様子で口を挟んできた。
けれど俺が応じるより先に、サギリが首を左右に振る。
「あたしたちは命懸けで戦ってるんだから、変に誤摩化したりするよりもはっきり言って貰った方がいいの。あたしはイザヨイ言う事が正しいと思うし、気にしてないから」
この辺は長年の付き合いだ。
サギリも俺の物言いに慣れているからか、俺の言葉が足りなくてもサギリの助力を拒絶した訳ではない事は理解してくれているようだ。
兄さんも本当に前世では俺の事をよく見ていたようで、ハルトさんに「睦月は前世でもあんな感じだったよ」と言っている。
それを聞いてハルトさんはふむ、とひとつ頷いた。
「リクからは“前世の弟は天然爆弾だった”って聞いてたけど、この事を言ってたのかな」
「天然爆弾!」
ハルトさんの発言に、即座に反応してお腹を抱えて笑い始めたのはサギリだ。「的を射過ぎてておかしいぃ〜っ!」と、ひぃひぃ言いながら笑いの渦へと落ちて行く。
ちょっと酷くないだろうか。
良く見たら兄さんも必死に笑いを堪えている顔になってるし。
ちょっとむっとしていると、ハルトさんが苦笑しながら話題を変えた。
「タツキ、ブライを借りるな」
「どうぞ。ブライ、ハルトとムツキをよろしくね」
「了解した」
短いやり取りを交わす二人と一匹。
どんな秘術なのか、何故か手乗りサイズになっている黒神竜がハルトさんの肩に乗る。
ハルトさんはそれを確認し、俺の傍まで来ると、ぽんと肩を叩いてきた。
「それじゃあ、ムツキ。よろしくな」
微笑みながら言われて、俺は表情を改めて頷く。
すると何故かくすりと笑われてしまった。
何で笑われたのだろう。
そう思って首を傾げると、「あぁ、ごめん」と謝られた。
「何というか……ずっと強敵だと思っていた相手がいざ味方になってみると、思っていた以上に心強いものなんだなぁと思って」
「それは……完全な味方って訳じゃないって事を、わかってて言ってるの?」
実際、俺たちは結局最後にはマスターを選ぶ。
マスターを止めようと姉さんやハルトさんが動くなら、その時にはまた敵になるのだ。
けれどハルトさんは、その辺に関しては理解しているようだ。
「そういう面ではお互い様だろう。俺だってもしムツキたちがあのまま希少種狩りを続けていたり、万が一俺が守りたいと思っているものを危険な目に遭わせるような事があれば、負けるとわかっていてもムツキたちに剣を向ける。例え、リクやタツキに止められようとも、だ」
強い意志が込められたハルトさんの言葉に、間髪入れずに兄さんが「僕は止めないけどね」と告げた。
どうやら兄さんも俺たちがいつまた敵に戻るかわからない事は、理解してくれているようだ。
それならば安心だ。
全幅の信頼を得ておきながらその信頼を裏切るなんて事はしたくない。
そんな事をしてしまっては、俺もマスターを裏切ったグードジアと同じになってしまうから……。
「さ、じゃあ今度こそ行こうか」
気を取り直して声をかけてきたハルトさんに続いて、俺は姉さんの部屋を出る。
そのまま村の外へと向かい、比較的開けている湖の畔から元のサイズに戻った黒神竜の背に乗り込んで、交易都市ゼレイクへと飛び立った。
ゼレイクへ向かう間、俺はハルトさんに気になっていた事を問いかけた。
気になっていた事。それは、アールグラントのみならず、オルテナ帝国も絡むような国家間の問題でもあるだろう“研究所”に、ハルトさんと俺のたったふたりで向かっていいのかという点。
この問いに関するハルトさんの答えは、こうだった。
「今件は俺に一任されている。実際、何をしているかわからない、何が潜んでいるかもわからない場所に一般の兵や騎士を向かわせるのは危険だし、俺から自分が対応するのが望ましいと国王陛下に進言して、ひとりで向かわないことを条件に許可を得ている。当然の事ながら、水面下とは言え先にこちらに手出ししてきているのはオルテナ帝国側だから、オルテナ帝国に配慮する気は毛頭ない。この結論についても陛下には伝えてあるし、了承も得ている」
きっぱりとした物言いに、思わず俺は感心のため息をついた。
ハルトさんがかつてアールグラントの王太子であり、魔王ゼイン=ゼルを打倒した後には王太子の立場を返上しつつも王族としてその責務を果たしてきた事は、いつの間にかハルトさんについて色々と調べてきたサギリから聞いているけれど……なるほど。
周囲の憂いを招かぬよう、効率を重視しつつも多少のリスクを負う事を覚悟の上で最も確実な手段を選び取り、切り捨てる相手には容赦しないような思考をしている。
そこに迷いは見られない。
少しだけ、正気だった頃のマスターを思い出す。
もしハルトさんが前世でもこの性格だったのだとしたら、あの頃よく耳にしていた周りからのハルトさんに対する評価は妥当だったんだな……と思った。
およそ二日間の道中で他にも色々と話をしたけれど、結果的に俺がハルトさんに抱いた感想はこれに尽きる。
あまりこちらから話しかけない俺に、しかし気を遣った風もなく自然と話題を振ってきて、こちらの言葉にも不快さを感じさせない返しをしてくる。この対人スキルは天性のものなのだろう。
本人には何の気負いも見受けられないし、自然体でいるように見える。
正に出来過ぎている人。
その人が言う。
「リクがいなかったら俺、この世界でここまで前向きにやってこれなかったと思うんだ。何度も目標を立て直してその度に折れそうになったけど、決定的に折れずに来れたのは、同じ境遇……むしろ俺以上に過酷な境遇にあっても尚、今世の人生をしっかり生きようとしているリクが傍にいたからだ」
何となく俺の方から「ハルトさんにとっての姉さんはどんな存在?」と問いかけたのだけど、その答えがこれだった。
前世の姉さんを知る人なら、とても同一人物の話をしているとは思えないような答え。
この言葉を受けて、俺は自分が想像していた以上に安堵した。
前世の姉さんはあまり幸せそうじゃなかった。
でも今世の姉さんは、ハルトさんが言うように過酷ではあっただろうけど、それでも全力で生きようと思えるくらい幸せなんだ。
それを自分の目で確認出来ただけではなく、周りの目から見ても同じように見えると聞けて、本当に良かった。
交易都市ゼレイクに到着すると、都市内は物々しい雰囲気に包まれていた。
至る所に兵士や騎士が立ち、道行く人々も足早に去っていく。
どうやらゼレイクの領主がオルテナ帝国と繋がっていると判明してから、警備や監視がきつくなっているようだ。
シスイたちが“研究所”を探り当てるためにゼレイクに潜入した時にはもうこの状況になっていたと、シスイからは聞いている。
実際目にすると、何とも息苦しい光景だ。
「“研究所”の場所はリドフェル教側でも把握してるのか?」
そんな街並を足早に歩きながら、手の平サイズのブライを肩に乗せたハルトさんが問いかけてきた。
ハルトさんは警備に当たっている兵たちに労いの声をかけながらも、その歩調を緩めない。
俺もハルトさんの歩調に合わせて歩きながら「場所もわかるけど、内部も多少は把握してるよ」と返した。
恐らくハルトさん側でも“研究所”の場所は把握しているのだろう。
迷わず進む経路は正に、俺が知る“研究所”が置かれている場所へと向かっている。
「そうか。さすがにこちらは内部までは把握してないから、もしよかったら、先導を頼めないか?」
「……いいよ」
ここで断る理由はない。
俺はハルトさんを追い抜くようにして前に出ると、迷わず街の北東部へと向かった。
恐らくハルトさんが知る研究所のある方向とは違う方向。
一瞬迷う気配はあったけれど、ハルトさんは黙って俺の後についてきた。
今俺が向かっているのは、“研究所”へ簡単に入り込む抜け道のような場所だ。
正確には、“研究所”に所属する人々が人目につかないように“研究所”に出入りする為の通路がある場所。
シスイたちは“研究所”に潜入した際に、しっかりとこの通路も見つけ出してくれていた。
そうして辿り着いた先は、人気が少ない路地裏。
立ち並ぶ質素な家々の合間に、倉庫代わりになっている空き家が数軒点在する。
その空き家のうちのひとつの前に立つと、俺は手の平を扉に向けた。
傍らに火の精霊が顕現し、一瞬にして扉のみを焼き払う。
背後から息を呑む音がしたけれど、気にせず炭化した扉を軽く押すと、火の精霊が鉄製の錠を溶かしてくれたおかげであっさりと扉が開いた。
俺は一度ハルトさんを振り返ってから空き家の中へと足を踏み入れた。
ハルトさんも黙って後に続く。
空き家の中は倉庫代わりにされているだけあって、色んなものが足の踏み場もないくらいにごちゃごちゃと置かれている。
その隙間を縫って奥に進み、ひとつの空き部屋に入る。
空き部屋の中にも雑多に物が置かれていたけれど、それらを無視してクローゼットを見遣った。
何の変哲もないクローゼット。
だけど、その扉だけは明らかに周囲とは異なり、埃っぽさが感じられない。
人が触れる機会が多いが故に、本来なら付着していたはずの埃がほとんど付いていないのだ。
俺はクローゼットに近付き、その扉を開けた。
その奥には本来あるべき壁はなく、空洞に繋がっている。
「隠し扉か……」
小さなつぶやきはハルトさんのものだ。
「ここから入れば、“研究所”の正面から入るより中枢部に近い所に出られるよ」
俺はそれだけ告げて、さっさと通路に入った。
相変わらずハルトさんも黙って後ろからついてくる。
通路は薄暗いけれど、壁が白いのと、所々に光玉が置かれているおかげで足下が見えないというほどではない。
途中途中で現れる分岐点では、シスイたちから聞いた通りに道を選択して進んで行く。
「これは……ムツキに来て貰えて良かったな」
思わずと言った様子で、ハルトさんがそんな言葉を零した。
俺もシスイたちからしっかり情報を貰っていなかったら厳しかった所だ。
しかしそれは口に出さずに黙々と進む。
敵の本拠地に近付くに連れて、嫌な気配が濃くなっていく……。
そうしてどれくらい歩いただろうか。
やがて、ひとつの扉の前に辿り着いた。
扉は鉄製で、どうやら鍵がかかっているようだ。
この狭い空間で先程と同じように火の精霊に鉄を溶かして貰うのは、ちょっと厳しいか……。
どうしたものかと考え込んだ時、ハルトさんが前に出て扉に触れた。
どうするつもりか問う視線を向けると、ハルトさんはにやりと笑んで声には出さずに「任せてくれ」と言った。
そして、俺にとってはこれまで耳にした事がないような詠唱を小声で唱え始める。
「総ての根源たる力よ、我が声を聴き、応えよ。
其は地中より生まれしものより造られた錠。
錠は開かれるもの。
今こそ正しく開け。
”解錠”」
カチリ、と小さな音がした。
目を瞬かせている俺の目の前で、ハルトさんは慎重に扉に手をかけて押し開く。
扉は何の抵抗もなく、あっさりと開いた。
そんな魔術も存在したのかと思い口をあんぐり開けていると、ハルトさんは再度悪戯の成功した子供のような笑顔をこちらに向けてくる。
「さっきも言ってくれたら鍵開けしたのに。とりあえず扉を開ける時くらいは穏便に行こう」
そう告げて、俺より先に扉の向こうへと姿を消した。
俺も慌てて警戒しながらも扉を潜る。
そうして通路から抜け出した先。
そこにあったのは、またもや通路だった。
ただし、先程までの白壁とは違う。
濃い緑色の壁が続く、不気味な通路だった。