97. 在りし日の追憶 ─ソムグリフ③─
フレッグラードが国王となって15年が経過しようとしていたその日、久々に首都テデリンを訪れると、街の雰囲気が心無しか暗かった。
いつもなら街に到着して間もなくやってくる、城からの遣いも来ない。
「何だか、ちょっと恐いですね……」
キアシエが昔からの癖で、俺の後ろに隠れるようにして街の様子を窺っている。
その傍らではひとり娘のシフェーナが母親を真似て、キアシエの後ろに隠れて街を覗き込んでいた。
「確かに妙な雰囲気だな……ちょっと聞いてみるか」
俺は早速、通りかかった顔なじみの商店主を見つけるなり声をかけた。
「久しぶりだなぁ。何だか前に来た時と街の雰囲気が違うけど、何かあったのか?」
そう問いかけてみれば慌てた様子で口を塞がれ、路地裏に引っ張り込まれる。
それから慎重に辺りを見回し、余程言い難い事なのか抑えた声で俺の問いに答えた。
「リドフェル教の神の代行者であるグードジア様が、とんでもない事を言い出したんだよ」
「とんでもない事?」
更に詳しい話を聞こうと問いかけると、「俺が言ったってのは絶対漏らすなよ!」と念を押した上で教えてくれた。
曰く。
リドフェル教の神の代行者・グードジア様が、「この国は閉鎖的すぎる。他の大陸にも国土を持つべきではないのか」と言い出したそうだ。
それはつまり、他の大陸にある国に対して戦争を仕掛けろと言っているのだ。
当然、フレッグラードは反対した。
しかしグードジア様は国教であるリドフェル教の中でも特別な存在だ。例え国王であろうとも、完全に説き伏せる事は出来ず。
その事が災いして、神殿がフレッグラードに対してグードジア様を諌めようとした事を理由に、神殿や教会を訪れる民衆に向けて「国王はリドフェル教を疎んじている」と吹聴し始めたらしい。
そしてグードジア様に賛同するリドフェル教徒が、「フレッグラードは国王に相応しくない」と騒ぎ始めたらしい。
当然、これまで善政を続けてきたフレッグラードに味方する国民は多く存在する。
しかし国教とは厄介なもので、これまでずっと信じてきた神の教えを説く神殿の方針を軽視する事も出来ず、真っ向から対峙する事も出来ず。
戦争には反対だしフレッグラードの味方ではあるものの、声高にグードジア様の発言を非難する動きは起きなかった。
結果、首都では誰もがこの件に関しては黙り込み、反対もしなければ賛同もしない、妙な空気が流れるようになってしまったそうだ。
「国王様もお気の毒に。連日城壁前に過激派信徒が押し寄せていて、この国が発展しないのは国王様のせいだとか言って、国王様を糾弾しているらしい」
こそこそとそう伝えると、商店主はきょろきょろと周囲を見回して、改めて「いいか、俺から聞いたってのは絶対に黙ってろよ!」と言い残して足早に去って行った。
その後ろ姿を呆然と見送り、背後のキアシエとシフェーナを振り返る。
こちらの会話が聞こえていなかったらしいふたりは俺の視線を受けて同時に首を傾げた。
似た者母娘で可愛いなぁ……などと和んでいる場合ではないようだ。
俺は急ぎふたりを連れて表通りに戻った。それから城の方へ慎重に近付いて行き──商店主が言っていた通りの事が現実に起こっている様子を目の当たりにして、愕然とした。
愕然としながらも、俺とキアシエが同時にシフェーナの耳を塞ごうと動いた。
シフェーナのすぐ近くにいたキアシエが先に娘の耳を塞ぎ、くるりと体を反転させ、今来た道を戻り始める。
俺も背後に気を配りながらその後に続いた。
「フレッグラードは国王に相応しくない!」
「この国はリドフェル教のものだ!」
「グードジア様こそが我々の王に相応しい!」
「王に相応しくない者は、城から出て行け!」
背後から聞こえてくる耳を塞ぎたくなるような言葉に、心臓が早鐘を打ち始めた。
テデリンに来るまでそれなりに情報収集をしながら旅をしてきたけれど、首都がこんな状況になっているだなんて全く知らなかったし、どの街や村にもこの情報は伝わっていなかったように思う。
グードジア様の言葉を肯定し、フレッグラードを糾弾する動きはこの首都だけで起こっている事だ。
けれど……。
充分城から離れた頃合いを見計らって、俺はもう一度城の方へ視線を向けた。
そこにいるであろうフレッグラードの事を思う。
今日迎えが来なかったのは、俺たち家族を城に招くのは危険だとフレッグラードが判断したからだろう。
きっと城内ではあの罵声を聞きながら、それでもこの国を守ろうと、良くしようとフレッグラードは奮闘しているに違いない。
心を痛め、つらい思いをしているだろうに、少年時代から彼を知っているからこそ、俺にはわかる。
フレッグラードは幼き日から既に将来国王となる自覚を持ち、その為に様々な努力を積み重ねてきた。国王となってからは、身を粉にして国民に尽くしてきたのだ。
俺は常々、友人として、自分の国の王として、フレッグラードの事を誇らしく思っていた。15年もの間、国王として民の為に心を砕いてきた人物だ。一体誰に、彼の努力と実績、人柄を否定する事が出来るだろう。
そう思っていたのに。
「あんな……あんな、酷い言葉!」
震える声に振り返れば、キアシエが珍しくその目に溢れんばかりの涙を浮かべていた。
悲しみと怒りに、声のみならず体ごと小刻みに震えている。
その気持ちは俺も同じだ。
俺はグードジアと、その意志に同調し、フレッグラードを貶めようとしている者たちが許せない。
特に、グードジア。
リドフェル神の代行者。
俺はその名の主を、この時初めて敵であると認識した。
だって、おかしいだろう?
思い出すのは数年前に見た、神の代行者に対して全幅の信頼を寄せ、楽しそうにそいつの話をしていたフレッグラードの笑顔。
友人じゃなかったのか?
フレッグラードがあんなにも心を許していたから、俺はてっきり相手も人として出来た人物なのだろうと思っていたのに。
どうやら思い違いだったようだ。
やはり自分の目で見なければわからないものだな……。
グードジアは友人面をしてフレッグラードからの信頼を得ておきながら、一体どんな意図があるのかはわからないがその信頼を裏切り、フレッグラードが苦しんでいる状況でも何の手も打たない。
この時点でもう、グードジアがフレッグラードを大切に思っていない事は明白だ。
だったら何故グードジアはフレッグラードに近付いたのだろうか。
その意図が気になる……。
一度気になり出すと思考が止まらなくなり、もどかしさが押し寄せて来た。
守るべき家族を持っていなければ、今すぐにでもリドフェル教の神殿に乗り込みたい衝動に駆られる。
守るべき家族が、ここにいなければ。
リドフェル教の本部に乗り込む。
俺は不意に湧いて出てきたその考えに身震いした。
キアシエとシフェーナを振り返る。
泣き始めてしまったキアシエを、娘のシフェーナが何故泣いているのか意味もわからずに慰めている。
その姿を見て、俺は自分の思考を振り払うように頭を振った。
同時に、妙な事を考えたせいか寒気を覚える。
寒気の原因が背後の城とリドフェル教の神殿がある方面から感じられるような気がして、今すぐここから……テデリンから離れなければと思った。
そうしなければ、目の前でキアシエやシフェーナを失ってしまいそうな予感がした。
俺はシフェーナを抱き上げ、今も尚涙を零すキアシエの背を押してテデリンから抜け出すべく足早に歩き始めた。
びっくりして涙が止まったらしいキアシエが「ソムグリフさん?」と問いかけてくるが、俺は背後が気になって何度も振り返りながらも足を止めずに歩き続ける。
歩く傍ら、頭の中では様々な思考が膨れ上がってきていた。
フレッグラードが心配だという思考。
ここにいてはいけないという、不安からくる思考。
グードジアは一体何を考えているのだという、怒りと疑問の思考。
首都から離れたらどこに向かうべきか考える、冷静な思考。
そして。
家族をリドフェル教の影響が少ない安全な辺境まで逃がし、自分はリドフェル教の神殿に乗り込んでグードジアの意図を確認しに行こうという、決意の思考。
それらの思考が絡み合いながらも何とか自分の中で整理出来た頃、街と外とを繋ぐ門に辿り着く。
門の前には、別行動中だった両親が待っていた。
俺は両親に向かってキアシエの背中を押し、抱えていたシフェーナをキアシエに預ける。
自分がどうしたいのかは既に決まっている。
だから、不思議そうな顔でこちらを見てくる家族に、決意を告げた。
「俺はここに残り、ひと月後、リドフェル教の神殿に乗り込む。だからみんなは、出来るだけテデリンから離れた街に向かってくれ」
俺の決意が固い事を長年共に過ごしてきた家族は皆、理解してくれた。
今にも泣きそうなキアシエとシフェーナをこれが今生の別かも知れないと思いながら抱きしめ、年老いてきた両親の手を固く握って別れを告げた。
父や母の目にも涙が浮かんでいたけれど、両親もフレッグラードの事は幼少時から知っている。フレッグラードを心配する気持ちは皆一緒だった。
そして今、この首都テデリンに於いて、フレッグラードの為に行動を起こせるのは俺だけなのだという事も、家族全員が理解していた。
……そう。ルウがいない今、フレッグラードのために何か出来るのは俺だけなのだ。
俺は何度も振り返りながら首都から遠ざかって行く家族を見送り、決意を新たにしてひとり首都に戻った。
そこからは来るべき日に備えて準備を進めた。
まずは情報収集だ。
行商をしている関係上、人や物の動きに関する情報には詳しいけれどリドフェル教に関してはあまり情報を持っていない。
なので早速リドフェル教の本部である神殿……よりも先に、首都の教会に関して調べる事にした。
首都には神殿に付属している教会を含めて3つの教会が存在する。
どこも遠目に見る限りは特別問題があるようには見えない。
けれど、疑いの目で見れば色々なものが怪しく見えてしまう。
これまで信じ切っていたリドフェル教の教え…その母体である組織そのものに疑問を抱いたからだろうか。
特に、教会に通う人々が無条件にひとつの教えを信じ切っている事を思うと、恐ろしいとすら思えた。
教会に通う熱心な信徒の人数は、この首都に暮らす全人口に対しておよそ8割。
残り2割の人間は信徒ではあっても、教会に通うほどの熱心さは持っていない。
熱心とは言っても、教会に通う全員が全員狂信しているわけではないだろう。
けれど、中には教えを一切疑わない人々も存在する。
城壁近くに集まっている群衆は正にそんな人々であるように思える。
自ら思考する事をやめてしまったのか、それとも元々リドフェル神の代行者・グードジアの意志に同調する素養があったのかはわからないけれど、もし彼らがこれまでフレッグラードの政治に不満を持っていたのだとしたら、今までその不満が噴出しなかったのはおかしい。
ずっと沈黙を守ってきて、ここにきて突如行動を起こしたとは考え難い。
となると、やはり今の状況に陥った切っ掛けは、グードジアの発言にあるように思える。
同時に、過激派信徒のあの行動が彼らの意志で為されているのかも、怪しくなってきた。
一瞬脳裏を過ったのは、“洗脳”という言葉。
もし彼ら教会側が信徒に「これは神の意志である」と前置きしてグードジアの言葉を告げたらどうなるか。
それこそ全員が全員、従うわけではないだろう。
むしろ疑問を抱く人間もいるかも知れない。
でも、一定数はその言葉を信じる。
「我らが神は新天地を目指し、発展せよと仰せだ」と思うかも知れない。
そこでもし、国王がその「神の言葉」を否定したらどうなるだろうか。
王よりも神を信じる者たちは、どのように行動するだろうか。
……どれも予測に過ぎない。
けれど実際城壁の前に過激派信徒たちが群がる光景を目にしてしまっては、そう考えるのが自然なような気がしてきた。
ただ問題なのは、そんな信徒たちを俺がどうにか出来る訳じゃないって事だ。
そこまで妄信的にリドフェル教の言葉に従うような人間を相手に出来るほどの話術を、俺は持ち合わせていない。
明らかに俺よりも存在感があり、紡ぎ出す言葉に力を持つフレッグラードですら、過激派信徒たちの中のグードジアという存在には勝てなかったのだ。
いくら考えても打開策は見つからなかった。
俺に出来る事と言えば、機会を窺ってグードジアから直接発言の意図を聞き出し、その答えに納得出来なければ説得を試みる事くらいだろう。
グードジアへの説得は、フレッグラードには成せなかった事だ。
フレッグラードに出来なかった事を俺ならば出来るなどとは思っていないが、友人を貶められてこのまま黙っているのは耐えられそうにない。
先ず聞くべきは、本心から他の大陸への進出を考えているのか否か。
もしそれが本心なのだとしたら、今ある平穏を捨ててまで一体何を得ようと考えての発言だったのか。
そして、これも必ず確認しておきたい。
何故、フレッグラードが苦境に立たされている状況を放置しているのか。
そもそも、何故フレッグラードに近付き、このような形で裏切ったのか……。
俺は、調べる対象をいよいよリドフェル教の神殿へと移した。
「おい、もうやめておけよ。お前、殺されるぞ?」
俺が首都にひとり残って半月が経過したある日の事。
食事処で昼食を摂っていると、どこから聞きつけたのか首都を訪れた行商仲間の男がこそっと耳打ちしてきた。
俺はちらりと相手を見る。
心配顔でこちらを見ているのは俺と同年代。何度も行商先で行き合って顔馴染みになったジグという男だ。
「お前は、このままでいいと思うか?」
ジグなら信用できるか…と思い、俺は小声で問いかけた。
ジグは口をへの字に曲げて「思わねぇけどさぁ……」と、やはり小声で返してくる。
幸い、ジグはリドフェル教を妄信している訳ではない類の人物だ。
なので、俺は静かに語りかけた。
「このままではいずれこの国は滅ぶ。フレッグラードもいつまで耐えていられるかわからない。俺に出来る事なんて限られてるだろうけど、友人として、フレッグラードが破滅して行く様を指をくわえて見ている事は出来ない」
俺の言葉を聞いて、ジグは深いため息をついた。頭をガシガシと掻き、それから歯を見せて諦めたような笑みを浮かべる。
「まぁ、そう言うだろうとは思ってたけどな。ほらよ」
そう言ってジグは紙束を放ってきた。
何かと思いながら目を通すと、そこには神殿に関する情報が書かれていた。
思わず紙面から顔を上げてジグを見ると、ジグは更に1枚の紙を差し出してくる。
それを受け取り、俺は改めて視線を落とした。
ジグから渡された1枚の紙。
そこにはテデリンを訪れて異変に気付いた行商仲間や、首都の空気から逃れたくて地方の街や村に移住した人々がこの国の置かれている状況を方々へと伝え始めている事や、それを受けて国王を助けるべく水面下で動きがある旨が書かれていた。
「みんなお前と同じ思いだ。正直なところ、首都と違って地方の街や村ではさほど熱心な信徒はいない。いても少数派だ。国民全体で見れば、国王様を支持する人間の方が圧倒的に多いんだ」
声を潜めてそう告げ、ジグは得意げに笑んだ。
確かに、首都は国内でもちょっと異質な街だ。
ここまで強烈な国教信徒が数多くいる街はテデリンぐらいだろう。
今件はその首都であったからこそ、フレッグラードが追いつめられる形となってしまったのだ。
一歩外に出れば、糾弾されるのはむしろ……。
「急報! 急報ーー!」
思考を断ち切るかのように、店の外から声が響いた。
その声は近付いてきたと思ったらあっという間に遠ざかって行き、声の主が通り過ぎた後、店の外から悲鳴や絶望の声が聞こえてきた。
俺はジグと顔を見合わせ、店主に代金を支払うと大急ぎで店の外に出た。
道には数多くの紙が散らされていた。
そのひとつを拾い上げ、ふたりして食い入るように内容に目を通す。
すっと、心臓が氷の刃で貫かれたように感じた。
目の前が真っ暗になりかけ、膝が折れる。
ジグが支えてくれなかったら、地面にへたり込んでいただろう。
それぐらい衝撃的な内容が書かれていた。
“王妃リュシェ様、急逝”
日々城門の前で繰り返される国王糾弾の声に心を痛めて体調を崩していたが、本日早朝に亡くなったといった内容が書かれていた。
リュシェ様はフレッグラードにとって、何にも替え難い宝だった。
そして、何よりの支えだった。
そのリュシェ様が亡くなって、フレッグラードがどれだけ悲しみ、絶望してしまうかなど、容易に想像出来る。
手遅れだった。
俺は、フレッグラードを助けられなかった。
それと同義の知らせだった。
「お、おい、大丈夫か、ソムグリフ」
「……行かなきゃ」
ふらりと、俺は一歩踏み出す。
頭の中はただひとつの言葉で埋め尽くされていた。
フレッグラードのもとへ、行かなければ。
「ソムグリフ……?」
気遣わし気に声をかけてきたジグを、俺は一度だけ振り返った。
けれどいても立ってもいられず、
「ジグ……情報、ありがとう。でもごめん。もう神殿どころじゃなくなった!」
そう告げるなり、脇目も振らず城に向かって全力で走り出していた。