96. 在りし日の追憶 ─ソムグリフ②─
ルウが東大陸に渡って五年が経過した。
この年、フレッグラードは晴れて可愛いと惚気に惚気ていた婚約者と結婚した。次期国王の婚姻ともあって、国を挙げてのお祭り騒ぎだ。
どこの街や村に行っても、盛大に祝われていた。
アルスト国は白い神竜が守護する国である、という言い伝えがある。それ故に、この国の国旗は巨大な白い竜がその翼を広げて城を守っている姿の意匠になっている。
そんな白神竜が描かれた国旗が街の至る所で翻り、誰もがフレッグラードの結婚を祝福して笑顔を見せる中、俺たち家族は首都近くの街に辿り着いたばかりで宿で一休みしていた。
「王子、ご結婚されたのですね」
何気なくキアシエに言葉を投げかけられて、窓外に向けていた視線を室内に移す。
机の上で帳簿をつけているキアシエは、どうやら帳簿を付ける手を止めずに話しかけてきたようだ。振り返った先には真剣な表情で帳簿を付けている、髪の長さがようやく肩に届いたばかりのキアシエの姿があった。
「そうだな」
「ソムグリフさんは、ご結婚されないのですか?」
「そうだな……」
気付けば俺の年齢はもう23になっていた。
窓枠に寄り掛かり、改めて窓の外へと視線を向ける。街を歩く俺くらいの年齢の人々は、大体既婚者だ。既婚者は不思議と、未婚者とは違う雰囲気を持っているから何となくわかる。どう表現するのが正しいのかはわからないが、しっかりしているというか、どことなく落ち着いているというか。
しかし、フレッグラードが結婚……か。元々婚約者だったとは言え長年想い続けていた女性と結ばれて、きっと幸せそうな顔をしているに違いない。
フレッグラードが浮かべているであろう表情が簡単に想像出来て、俺まで顔が緩んでしまった。
そんな、気が緩んだ瞬間だった。
「ソムグリフさん。私と結婚して下さいませんか?」
飛び込んで来た言葉に、俺は目を見開いた。
聞き違いか?
我が耳を疑いながら、ゆっくりと室内へ向き直る。キアシエは先程とは違って帳簿を付ける手を止め、顔を真っ赤にしながらじっとこちらを見ていた。
好意を寄せられているのは何となくわかっていた。けれど自分の気持ちを表に出すのが苦手なキアシエはきっと、その気持ちを口にする事はないと思っていた。
……思い込んでいた。
「……え?」
そう思い込んでいたが故に、聞こえていたけれど信じられず、反射的に聞き返してしまった。
するとキアシエは今にも泣きそうな顔になって俯いてしまう。その体が小刻みに震えている。いつもならこういう時は俺の影に隠れるのに、今はそれが出来ず、どうしたらいいのかわからなくなっているのだろう。
……こんな風に、キアシエの事ならちょっとした仕草で何を考えているのか、どうしたいのかがわかる。
いつの間にか、わかるようになっていた。
わかっていてなおキアシエが黙っているのをいい事に、俺は彼女の気持ちを放置していたのだ。何故なら、俺自身の気持ちがわからなかったから。
キアシエはもう家族だと思っていたし、このままならこのままでもいいとも思っていた。このまま一緒にいられるのなら、俺の気持ちが家族に対するものであろうとそうでなかろうと、関係ないと……。
一方で、このままではいられなくなる時がいつか来る事もわかっていた。
うちの両親がキアシエの幸せを考えて行商仲間や街の顔なじみの商店にキアシエの縁談を持ちかけている事は、俺も、そしてキアシエも知っている。
このままなんて事は、あり得なかった。俺は現実から目を背けていたのだ。
けれど、キアシエは現実と向き合い、勇気を振り絞ってその想いを伝えてきた。それも、はっきりと。
それを聞き返すなんて、意地が悪かっただろうか。
俺は敢えてゆっくりと歩き、キアシエの向かい側の席に座った。目の前には、真っ赤な顔で俯いたままのキアシエのつむじが見えている。
何となく、指でそのつむじを軽く突く。すると弾かれたようにキアシエが顔を上げ後ずさった。キアシエの座る椅子が後方へと傾く。
俺は反射的に椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、キアシエの手を引いた。結果、バランスを崩しかけていた椅子はなんとか転倒を免れた。
「──キアシエは、俺の事が好きなの?」
キアシエが椅子を立て直すのを手伝いながら、これも意地悪だろうかと思いつつ問いかける。すると恐る恐る顔を上げたキアシエはしっかり俺の目を見据えて頷いた。
日頃から意思を伝えるのが苦手なキアシエが迷う事なく頷く姿にどうしようもなく喜びが湧き上がり、胸が熱くなる。
「……俺でいいの?」
「ソムグリフさんじゃないと、嫌です」
完全に心臓を打ち抜かれた。
たまらずキアシエを抱きしめると、腕の中でキアシエが「ひゃっ!?」と声を上げる。その柔らかい声が、やたらと愛しく思えた。
「じゃあ結婚しようか、キアシエ」
「えぇぇっ!?」
自分で言い出した癖に、キアシエは頓狂な声を上げる。思わず吹き出して笑うと、「からかってるんですか!?」と、俺の腕を叩いてきた。全然痛くない。
しかし心外だ。からかっているのかと言われて、少なからず傷ついた。からかっていると思われて傷つくだなんて、俺もキアシエの事が好きだという事なのだろうか。
「からかってない。多分、俺もキアシエの事が好きだよ。だから、フレッグラードに便乗して、俺たちも結婚しよう」
「多分って何ですか! 便乗って何ですか!」
キアシエの声が震えた。どうやら曖昧なのが嫌らしい。
そりゃそうか。俺が逆の立場でも軽率な言葉だと思うし、返事を貰えるのならばはっきりした言葉が欲しくなると思う。
「じゃあ、確かめさせて」
俺はキアシエを抱きしめながら、真っ直ぐその瞳を覗き込む。
揺れ動くキアシエの瞳がとても綺麗だと思った。出会った時はぱさぱさだった髪も今ではすっかりつやのある髪に生え変わり、キアシエが頭を動かす度にさらさらと流れて行くのを見ていると、衝動的に触れたいと思う。
不意に、キアシエの手の甲が視界に入る。キアシエの手の甲にはうっすらと、引き取った際に見受けられた傷の痕が残っていた。
そっとキアシエの手に触れ、指先で傷痕を撫でる。途端に、キアシエは手を隠すように引っ込めてしまった。
傷痕を見られる事を極端に嫌がる傾向にあるのは知っていたけれど、俺はそんな消える事の無い傷痕が残っている肌も、その痕ごと自分のものにしてしまいたいと思った。
……思ってしまった。
今までそんな風に見ていたつもりはなかったけれど、キアシエの気持ちを直接聞いたからだろうか。もう自分以外の誰かにキアシエを託そうなどとは思えなくなっていた。
「た、た、たっ確かめるって、どうやって……」
俺の行動に耐えかねたのか、動揺する余り吃音気味になるキアシエの柔らかい声が心地いい。
期待と不安が入り混じる、特別美人でもない純朴な顔から目が離せなくなる。
これまでこんなにもキアシエが大きな声を出したり、動揺したり、赤くなったり、色んな表情を見せてくれた事はなかった。きっと、俺と同じくらい彼女との時間を過ごしてきた両親だって知らない。こんな風に色んな顔を見せる彼女を知っているのは、俺だけだ。
そう思うと、じわりと独占欲が湧き上がってきた。
「どうやって確かめようか?」
「し、知らない……! さっきからソムグリフさん、意地が悪いです!」
首を傾げながら問いかけると、キアシエはさっと顔を背けてしまう。
顔を真っ赤にしながら眉を吊り上げている仕草すらも可愛いと思ってしまう辺り、俺も単純だなと思う。
「意地が悪かったら、俺の事嫌いになる?」
問いの内容を変えてみる。
するとキアシエはバッとこちらを振り返って、俺の腕を両手でぎゅっと掴んだ。ちょっと痛い。
「きっ、嫌いになるわけ、ないじゃないですか! 私はっ……初めて会ったあの日から、ずっと、ずっと、ずっと……ソムグリフさんの事が、ソムグリフさんの事だけが、好きだったんですから……」
「……そっか」
嬉しい。一体何を叫びたいのかはわからないけれど叫び出したい衝動に駆られて、確信を得た。
俺は、キアシエの事が好きだ。この気持ちがいつからあったのかなんてどうでもいい。仮にこの気持ちが今さっき芽生えたものだとしても、俺が彼女の事を好きな事に何ら変わりはないのだから。
「キアシエ。俺はキアシエの事、本当に好きだよ。キアシエの気持ちを聞いて、その事がよくわかった」
キアシエが息を呑む。愛らしい口許が戦慄いて、掠れて消えてしまいそうな声で「ほ、本当ですか……?」と問いかけてきた。
答える代わりにそっと顔を寄せて唇を重ねると、もの凄い勢いでキアシエが後ずさった。と言っても俺が抱きしめたままだから、キアシエに出来たのは頭を引く事だけ。
顔どころか全身真っ赤にして硬直してしまったキアシエに思わず苦笑しながら、俺は彼女を腕の中から解放した。「あっ」と、キアシエが小さく声を上げる。名残惜しいのは俺も同じだけど、心さえ決まってしまえばすべき事は山積みだ。
「さて、それじゃあキアシエ。父さんと母さんのところに行こうか」
俺は椅子に座ったままのキアシエに手を差し伸べる。
意味を理解していないのだろうか、キアシエは戸惑った様子で俺の顔と差し出されている手を交互に見た。
「結婚の意志がある事を報告しに行くんだよ。早めに行かないと、またうちの両親はキアシエの縁談相手を探しに出てしまうだろう?」
そう告げた途端、キアシエはぷるぷると震え出した。
フレッグラードに頭を撫でられた時の震えの意味はわからなかったけれど、この震えの意味はわかる。ようやく現実が呑み込めて恩のある俺の両親に何と言えばいいのかわからず、けれど想いが通じて俺がキアシエとの結婚に向けて行動しようとしている事を嬉しいと思ってくれているのだ。
嬉しい反面、キアシエの為に色々と手を尽くしてきたうちの両親に対しては申し訳ない……とか考えてそうだな。きっとうちの両親なら諸手を上げて賛成してくれると思うけれど。
……というか。思い出してしまった。
そうだ、そうだった。フレッグラードめ。
気安くキアシエの頭を撫でた件、あの時は護衛の人に先を越されたけれど、いつかきっちり叱りつけてやらないとな。
フレッグラードが結婚した半年後、俺はキアシエと正式に婚姻を結んだ。
と言ってもする事と言えば、たまたま同じ街にいた行商仲間に声をかけ、ごく小規模の宴会を開くだけだ。参加者は好きなだけ飲み食いして主役ふたりを祝い、飲食代は婚姻を結ぶふたりの両親が持つのが行商人流。
俺たちの場合も例に漏れず、両親が飲食代を持ってくれた。
ちなみに。
俺が両親にキアシエと結婚する意志があると報告に行った時、両親は涙を流しながら喜んだ。
あまりの喜びように俺は対応に困り、キアシエすら俺の後ろに隠れてしまうほどだった。
その後喜びの勢いのままにすぐにでも婚姻の宴会を開こうとした両親を止めたのは他でもない、キアシエだった。
曰く、「王子の結婚でお祭り騒ぎの今、婚姻の宴会をしたら関係のない人たちまでもが集まって我が家が破産してしまいます!」との事。
出鼻を挫かれた両親が呆気に取られてキアシエを見ていた姿が印象的だ。
それでも敢行しようとする両親を、キアシエは数字の羅列で説き伏せた。
今の我が家の財産はこれだけあり、このお祭り騒ぎに乗じて集まるであろう人数をこの街の人口から割り出し、更に彼らが好きなだけ飲み食いした結果叩き出されるであろう飲食費を算出。
明らかに赤字だった。
むしろ、一家が路頭に迷う結果にしかならなかった。
「いいですか、ここでもし我が家が破産してしまった場合、当然依頼されている商品もお客様の許へ届ける前に没収されてしまいます。当然信用を失い、仮に改めて行商として再出発したとしても失った信用は二度と取り戻せないでしょう。それは私たちの本意ではありません。急ぐ必要はないのです。私はいつまででも待てますし、そ、その……ソムグリフさんも、きっと、待って下さるはずです」
このキアシエの言葉に、ようやく両親は引き下がった。
それから父さんが俺を睨みつけ、「キアシエを不幸にしたら許さんぞ!」と念を押してきた。そんなに自分の息子が信用ならないものかと軽くショックを受けたのも、今となってはいい思い出だ。
そんな幸せな毎日が続く中、現国王の急逝の知らせが国中を震撼させた。
けれど国王の死を悲しむ暇もなく、亡くなった国王のひとり息子であるフレッグラードが18歳という若さで即位する事となった。
前国王の葬儀の後、十日ほどで新たな国王となったフレッグラードは、即座に国内の街や村に知らせを出す。
知らせの内容には前国王である父の死を悲しんでくれた国民への感謝と、新たな国王としての自らの決意が記され、その強い意志のこもった言葉は国民の心を揺さぶった。
行く先々で聞くのは、「前の国王様も良かったけれど、新しい国王様なら安心して暮らして行けそうだ」といった言葉ばかり。
あぁ、あの幼く頼りなかったフレッグラードは、もう立派な国王なんだな。
俺自身も街の至る所に貼り出されている知らせの内容を読んで、心底そう思った。
以降、フレッグラードは俺が首都テデリンに赴いても城を抜け出して来なくなった。
その代わり、よく護衛に付いていた男が俺たち家族を迎えに来るようになった。
通される城内の謁見の間では、立派な玉座に収まっている精悍な顔つきのフレッグラードと、柔らかい表情で見る者を包み込むようなフレッグラードの愛妻、リュシェ様がいて、旅先での話や新たに仕入れてきた品物などを披露する。
時にはフレッグラードから珍しい品物を請われ、仕入れてくる事もあった。
この関係は、その後も長く続いた。
俺はフレッグラードの友人兼王室お抱えの商人として重宝されていた。
フレッグラードも始めは国王としての手腕こそ覚束無かったものの、10年も経てばさすがに国王としての威厳や仕事ぶりが板についてくる。
今ではすっかり国民から人気の国王様だ。
愛妻や2人の子供の前では以前のような柔らかい表情を見せるけれど、国王の顔になると途端にその顔に凛々しさが宿る。
幼い日のフレッグラードを知る俺からしたら、まるで別人のようにも思える立ち居振る舞い。
けれど友人として会話をしていると、あっという間にいつものフレッグラードに戻った。
「リドフェル教に神の代行者と呼ばれる者がいるのだが、とても博識なんだ。話をしていると私の知らない知識が飛び出してきて、今まで見えていなかった色々な事に気付かされる。それがとても楽しいんだ」
いつの日からか、フレッグラードは心底楽しそうに国教であるリドフェル教の神の代行者について話をしてくるようになった。
どうやらフレッグラードにとって彼の存在はとても新鮮で、共に過ごす時間が有意義な相手のようだった。
長年の友人としてはちょっと複雑な気持ちもあるけれど、これまでその身分や立場故に親しい友人を作る事が困難だったフレッグラードがあまりにも嬉しそうにしているので、俺まで嬉しくなってしまう。
「そんなに素晴らしい友人なら、大切にしないとな?」
そう伝えるとフレッグラードは目をぱちくりさせ、続いて幼い日の彼を彷彿とさせるような柔らかい微笑を浮かべた。
「そうだな。私からしたらソムグリフだって、大事な友人だ。今はもう会えないけれど、ルウもな。……ああ、ルウで思い出した。実は水面下で魔王種に関する決まり事を見直す動きがある。まぁ私がそのように仕向けているのだが。もしかしたら、ルウを呼び戻せるかも知れないぞ」
その日を思い描いているのか楽しそうに声を弾ませるフレッグラード。
その後も魔王種に関する決まり事をどう変えて行くのかを語り、時には俺に意見を求め、「なるほど!」と頷いていた。
国王としての生活は大変そうだけど、こうして笑顔でいるフレッグラードを見るとほっとする。
俺も行商人の端くれ。ずっと首都に留まる事は出来ないし、これまで両親と共に行商をして来たせいか、店を構えて定住する事も考えられない。
だからルウがいなくなって以降、親しい友人が少なかったフレッグラードの事は常に気になっていたけれど……どうやらリドフェル神の代行者とは馬が合うようだ。
こうしてフレッグラードが笑顔でいる姿を見れて、俺はまた安心して旅に出られる。
そんな事を、何年もの間繰り返していた。
しかし。
ある日を境に、フレッグラードを取り巻く環境に大きな変化が……いや、変化なんてものではないか。
異変が、起こり始めた。