93. 壊れた勇者と救済の魔王
レグルスがオルテナ帝国の国境を越えて半月が経過しようとしてた。
レグルス率いるギニラック軍は猛スピードでオルテナ帝国を縦断。道中でも村や街を破壊し、目に付く人族という人族を虐殺しながら、オルテナ帝国の東寄りに位置する同国の首都ルデストンを目指していた。
その目を覆いたくなるような非道さが、魔王ゾイ=エンやゾルの記憶にあるゴルムアの所業と重なる。
まるでゴルムアの行いをなぞる事で、ゴルムアに命を踏みにじられた魔族たちの復讐をしているかのようにすら思えた。
そんなギニラック軍があと数日でオルテナ帝国の首都に到達しようとしていた、ある晴れた日の事。
この日は朝から嫌な予感に襲われていた。
ハルトが言ったからという訳じゃないけれど、私は自分の第六感がそこそこ当てになる事を知っている。
なので、この日の戦況の監視はレネに任せてサラの腕輪を外し、知覚と感覚を身体強化魔術で強化した上で感知能力を全開にして警戒に当たっていた。
昼になっても嫌な予感は一向に消えてくれず、フォルニード村中央の広場でひとりで警戒を続けていると、見兼ねたセンが共に村周辺の様子に神経を尖らせてくれた。
途中、センから請われてセンにも知覚と感覚強化を施し、ふたりでフォルニード村周辺に全神経を傾ける。
「身体強化って凄いんだな。こんなに広範囲を明瞭に感知出来るのか……」
「センも魔王種なんだから、魔力は有り余ってるでしょ。低くても適性があるなら、努力次第で魔術も使えるようになるはずだよ」
センが隣で感嘆のため息を吐いたので、うっかり魔術馬鹿が顔を出して魔術訓練を勧めてしまった。
ついでとばかりに身体強化魔術に関して簡単な説明を始めると、センが苦笑を漏らす。
「フレイラさんから聞いてたけど、本当にリクさんは魔術にのめり込んでるんだなぁ」
それは褒め言葉と受け取っていいのかな? いいんだよね?
……後でフレイラさんに確認しに行こうかな。
そんな事を考えていた時。
強烈な気配が、まるでその存在感を叩き付けるようにして膨れ上がった。
私とセンはほぼ同時に村の北東方向を振り向く。
この気配、間違いない。
ゴルムアだ!
それとなく私たちの動向を見ていた周囲の村人たちが、一斉に「南西に避難しろー!」と叫ぶ。
大勢の村人や復興支援で駆けつけていた人族が、恐怖に顔を青ざめさせながらも村の南西方向へと移動を始める。
「リクさん、これを逆流して行くのは危なくないか!?」
「うん、上から行こう!」
センが避難し始めた人々に逆らって行く事を躊躇う様子に私も同意して、すぐさま自らとセンに限界ギリギリまで身体強化を施す。そのままひょいとセンを肩に担ぎ上げると、地面を思い切り蹴って跳躍した。
ほぼ真上に跳躍した後、すぐさま転移魔術を構築。ゴルムアが到達するであろう結界の外側へと転移した。
一瞬視界が真っ暗になるも、すぐに先程までとは違う、木々が立ち並ぶ景色に切り替わる。ちらりと背後を振り返れば、結界越しにフォルニード村北東部の湖が広がっているのが見えた。
前回はゴルムアの体当たりで吹き飛ばされて、あの湖に落ちたんだっけ。今回は同じ轍を踏まないように、気を引き締めないと!
「い、今、一体何が……!?」
「説明は後で! 来るよ!」
驚きの声を上げるセンを肩から下ろし、私はすぐさま身構えた。慌ててセンも気配の方へと向き直り、正面から迫り来る巨大な気配の塊に相対する。
気配の主、ゴルムアは目にも留まらぬ速さで向かって来ている。目を凝らせば、既に“神覚の加護”の光が薄らと見えた。既に向こうは全力だ。
私は正面から迎え撃つのは危険と判断して、すぐさま古代魔術結界を構築。一瞬にして構成された魔法陣が、向かい来るゴルムアの眼前に隔離結界を展開する。
ゴルムアは結界に気付いていないのか気にも留めていないのか、直線的に結界へと突っ込んだ。衝突と同時に、バキンッと古代魔術結界に罅が入る音が響く。
対竜族用ともいうべき古代魔術の結界に、たった一撃で罅を入れるとは…相変わらずゴルムアは化け物だな……。
ゴルムアは体当たりの姿勢からゆらりと後方へと数歩さがる。もう一度体当たりを試みるつもりなのだろう。そして恐らく、次で結界は破壊される。
そう思うだけで緊張感が増し、心拍数が急上昇していった。
「セン、覚悟はいい?」
自分だって出来ていないであろう覚悟を、センに問う。
「当然! 前回みたいな情けない姿は見せられないからな!」
力強い返答に、問いかけた私の方まで気が引き締まり、覚悟が決まった。
センが意識している相手はマナなんだろうけど、センの言う通り、私も前回のような失態を繰り返す気はない。そう思うと自然と拳に力がこもる。
「リク!」
ゴルムアが更に数歩さがって行く様子を射殺さんばかりの視線で睨みつけていると、背後に複数の気配が現れた。
気配だけでわかる。タツキ、マナ、フレイラさんだ。どうやらブライは村の護りのために置いてきた様子。
駆けつけた面々の中で、私の名を呼んだのはタツキだ。その意図を察して、私はゴルムアへの警戒をセンに預けて背後を振り返った。
「マナ、フレイラさん。覚悟はいい?」
先程センに問いかけたものと同じ問いを、マナとフレイラさんにも投げかける。ふたりは間髪入れず、当然のように頷いた。
言葉は無くとも、その表情を見ただけでわかる。マナとフレイラさんも、私やセンと同じ思いでいるのだと。
私はマナとフレイラさんに頷きを返すと、ふたりにも限界ギリギリまで身体強化魔術を施した。
そして再びゴルムアの方へと向き直り────私の目の前で、ゴルムアが私の古代魔術結界を破壊した。
ゴルムアは早速私たちを敵認定したようだ。結界を破壊するとその勢いのまま、真っ先にセンに向かって行く。
センは髪も目も耳も尾も警戒色の赤だ。センが私たちの中で一番に目につくのは当然の事で、ゴルムアも無意識の内に最も危険な存在と認識しているようだ。
容赦のない体当たりがセンを襲う。
恐らく獣人であると同時に赤目魔王種で、更に私が身体強化魔術を施しているから、センならば簡単に避けられる攻撃のはずだ。
けれどセンは避けなかった。何故なら、背後にはマナとフレイラさんがいるから。
センは敢えて、自らも助走をつけてゴルムアに体当たりをかけた。あんな巨大な鉄球かと思うようなゴルムアの体当たりに向かって行ったら、私や他の面々では即死しかねない。しかしセンは迷わず向かって行った。
その間にマナが古代魔術を構築し、周囲の気温が一気に下がった。どうやらマナは水属性やその派生属性の氷属性が得意なようだ。扱い難い古代魔術を精密に制御して、センとぶつかる直前のゴルムアの体に冷気を凝縮させた。ゴルムアの体が凍り付く。
が、ゴルムアも神位種だ。純白の光がその身を包む。神聖魔術──浄化魔術だろう。
しかし凍り付いた体が元の状態に戻る前に、センと衝突した。とても生身の生き物同士がぶつかったものとは思えないような、重い空気振動が襲い来る。
その衝撃に怯む事なく、剣を抜いたフレイラさんが走り出していた。
後方からタツキが放った治癒能力の淡緑色の光がセンに降り注ぐ中、フレイラさんの突きがセンを避け、驚くほどの命中精度でゴルムアへと吸い込まれて行く。
その頃には私も走り出し、ゴルムアに力負けして後方へ倒れかかっていたセンの服を思い切り引っ張り、後方へと投げた。先程までセンの体があった空間には、一瞬遅れて巨大な岩の槍が地面から天に向かって勢いよく生える。
ギリギリセーフ。危うくセンが岩の槍で串刺しにされるところだった。
ゴルムアが思念発動で魔力操作を始めた気配に気付けてよかった。
私はセンを逃がすと同時に地面から生えた岩の槍を一刀のもとに切り裂き、ゴルムアの方へと蹴り飛ばした。
後方でタツキがセンを治療している間は私がマナとフレイラさんの盾にならなければ。そのためにもゴルムアの注意を自分に引き付けなければいけない。所謂ヘイト管理のようなもの。
まさか自分が盾役になる日が来るとは思ってもみなかったけれど、思わぬ所で前世のゲーム知識が生きてくる。さっと仲間の能力を確認して、誰がどのように動くのが最善なのかがわかる。
これは恐らく家族単位でしか行動しない、しかも魔術に偏っている妖鬼として生きただけでは、決して出来なかった判断だ。
しかし私には、どう動けば敵の注意を引けるのか、どんな時に敵の注意を引くべきなのか──自らが取るべき行動が、前世知識と今世知識を併用することで理解出来る。
私はきっちりと、ゴルムアの脇腹に穴を開けたフレイラさんからゴルムアの注意をこちらに向ける事に成功した。このまま畳み掛けて私にゴルムアの注意を引きつけながら、ほぼ確実にゴルムアにダメージを通せるフレイラさんに隙を突いて攻撃して貰うのがよさそうだ。
そんなこちらの意図を察してくれたのか、フレイラさんはバックステップでゴルムアから一旦距離を取った。
一方でゴルムアは、倒れ掛かってきた岩の槍を手を振って脇に払いのけた。あんなに巨大な岩の槍を、軽々と。ゴルムアが神位種の力を極めた神位種とは言え、規格外にも程がある。
歴史上で魔王が勇者に負ける確率が高かった理由が、嫌でも理解出来てしまう。
しかしそんな恐ろしさに反して、私の中の魔王種の血は騒ぎ始めていた。恐怖を押しのけて、沸き上がる闘争本能。その熱を維持したまま、私は魔剣に魔力を込め、風属性を付与してゴルムアと対峙する。
正面からこちらを睨み据えてくる薄青の瞳は、相変わらず暗い闇の底に沈み込んでいるかのよう。けれどもう、恐ろしさはほとんど感じない。この化け物じみた神位種と私、どちらがより強いのか──思わず口許に笑みすら浮かぶ。
「ぐ、ぅ……ま、魔王……魔族……殺す……殺せ……殺さなければ!」
こちらの変化に気付いたかのようなタイミングで、ゴルムアがガサついた声でぶつぶつと呟き始めた。かっと目を見開き、佩いていた剣を引き抜く。
その剣が、ぼんやりと光を帯びた。淡い光ながらも、その剣からは危険な気配がびんびん伝わってくる。
ハルトの練気と魔力を混ぜた光の剣と言い、フレイラさんの刺突前に剣が光る現象と言い、実に勇者らしい能力だ。
「リクさん!」
フレイラさんが叫び、私に注意を促す。
一瞬ゴルムアの意識がフレイラさんに向きかけたけれど、すかさず私がゴルムアに向けて威圧を放ち、ゴルムアの注意をこちらに引きつけ直す。
「大丈夫! 私だって散々ハルトの光の剣とか見てきたし!」
あれがどれだけ危険なものであるかなど、気配からでも十分に察知できている!
そう続けるより先に、ゴルムアが動いた。とんでもない速度だ。けれど、前回よりもその動きがよく見えた。何故かなど、考えるまでもない。前回は恐怖や焦りが目を曇らせていたのだ。
けれど本来なら私は、竜のみならず獣種のゾイ、ゾルをもこの身に取り込んでいるのだ。ゴルムアの動きを追えないはずがない。
私は瞬時に制御術式を交えた古代魔術を構築しながらゴルムアを迎え撃つ。元々互いの距離が近かったのもあって、ゴルムアが私の許に到達するのにかかった時間はほんの数秒。
私は正面から振り下ろされたゴルムアの剣に魔剣を充てがうと同時に、準備していた魔術を発動。ゴルムアの顔面に高温の火炎球を炸裂させた。
当然、近くにいる私にも影響はある。だけど私が取り込んだ竜は火竜だ。火には多少耐性があるし、すぐにゴルムアとの距離を取るべく次なる魔術を発動させる。
制御術式を交えた、風属性の古代魔術。それをゴルムアに向かって叩き付けると同時に、自分はその反動で後方へと吹き飛んで距離を取った。
制御していても古代魔術は強烈な威力を持っているから当然私にも強い負荷がかかったけれど、何とかセンの治療をしているタツキの前に着地できた。
ちょっと肋骨に罅が入ったかも……。
顔をしかめながら、自らに回復魔術を行使する。視線の先ではマナが放った無数の錐状の氷塊がゴルムアに降り注ぎ、半数近くが前回同様、ゴルムアが思念発動で放った炎に蒸発させられていた。けれどかなりの数の氷塊がゴルムアに到達している。
フレイラさん同様、マナにも隙を突いて攻撃を加えて貰うのが良さそう。
それにしてもゴルムア、制御していたとは言えあんな至近距離から古代魔術を受けたのに、火傷の痕ひとつないとは……。
「リクさん! 剣が!」
再度ゴルムアに向かおうとすると、背後にいるセンに声をかけられて反射的に魔剣に視線を落とした。思わず目を見開く。魔剣の刀身が、半ばまで斬られていた。
さっきゴルムアと剣を合わせたあの時か!
あまりの衝撃に固まっていると、
「俺が出る!」
そう言って、センが私の横を駆け抜けて行った。
赤い残像を追うようにその背中を見送ると、センが向かった先では既にフレイラさんが次の一撃をゴルムアに加えるべく一歩踏み出したところだった。
手前ではマナが魔術を構築し始めている。
「リク、その剣ちょっと貸して」
「え?」
魔剣を置いて援護に行くべきか悩んでいると、タツキが私の手から魔剣を引き取った。
何を、と問う間もなく、タツキの手の上で魔剣が消える。
──分解能力。
あっ、と思った。
その魔剣はアルトンの皆から貰った大事な剣なのに。その事をタツキも知っているはずなのに。
あまりの事に言葉を失っていると、タツキの手の上に再び魔剣が姿を現した。それを目にして、ようやくタツキが何をしたのかを理解する。
再構成能力。
その力で魔剣を修復してくれたのだ。
「削れてた分を他から移植したから微妙に短くなっちゃったけど、同じように使えるよ」
はい、と手渡されて反射的に受け取ると、私は魔剣をぎゅっと握り締めた。
うん、さっきまでと全く変わりない持ち心地。重さもほとんど変わっていない。
時々使うくらいなのに、手にしっくりと馴染む魔剣が、今まで以上に大切なもののように思えた。
「ありがとう、タツキ!」
「どういたしまして。ほら、早く行ってあげて。センは経験不足だから、すぐこっちに戻って来る事になりそうだし」
「うん!」
それは私もちょっと思ってた。
戦闘経験量で見るとマナだってセンと変わらない──むしろセンより少ないくらいだろうに、何故かマナの方が上手に戦っている。
センはフィオの下で兵士として多少は戦った事がありそうだけど、恐らく命懸けの戦いの経験は無いのだろう。魔王種としての能力は十分あるのに、存分に生かし切れていない。
私は魔力を込めた魔剣を手に駆け出すと、真っ直ぐゴルムアと近接戦闘を始めていたセンの許へ向かった。その間にもフレイラさんが与えたゴルムアの傷が治癒されていっているのがわかる。
時折発生する純白の光に、前回ゴルムアと戦った私やマナ、フレイラさんとは違って、センは焦りを見せ始める。焦りが小さな隙を生み、その隙を見逃さずにセンの脇腹目がけてゴルムアが拳を叩き込む姿勢に移行し……寸でのところで私が間に合った。突き出されかけていたゴルムアの腕を、横合いから蹴り上げる。
油断していたのだろうか。あまりにもあっさりと、ゴルムアの腕があらぬ方向へと折れ曲がった。これを回復されてはたまらない。
私は蹴り上げた際に捻った体をそのまま回転させ、折れ曲がったゴルムアの腕を目がけて魔剣を振り下ろした。
剣が肉に食い込む感触。魔力が乗った魔剣はすんなりとゴルムアの筋肉を断ち切っていく。しかし私の力不足故か、骨に到達した所で剣が止まりかけた。
すぐさま横からセンが手を伸ばし、魔剣を握る私の手の上から魔剣の柄を握る。センの力が上乗せされて、魔剣がゴルムアの骨を絶つ。
そのまま魔剣の刀身は残っていたゴルムアの肉を一息に切り裂き──
ぼとり、と。
地面にゴルムアの腕が落ちた。
その瞬間、途轍もない威圧感が膨れ上がるようにしてゴルムアから放たれた。
反射的に私はセンを抱えて後方へと逃れる。
「ぐあぁぁぁぁぁあああっ!!」
耳を劈くような咆哮。
反対側にいたフレイラさんは逃げ切れず、まともにその衝撃を受けてしまう。
硬直してその場から動けなくなったフレイラさんに、ゴルムアの血走った目が向く。
いけない!
咄嗟にセンから手を離し、フレイラさんの許へと走り出した。その間にもマナが放ったのであろう氷塊の礫がゴルムアに襲いかかるが、ゴルムアは煩わしそうに氷塊の礫が向かい来る方向へと炎を放つ。氷塊は一瞬にして溶け、蒸発し、その更に向こうにいるマナ目がけて炎が迸る。
マナはさすがと言うべきか、すぐさま古代魔術で氷壁を構築すると、ゴルムアが放った炎を相殺した。辺りが一気に蒸す。
纏わり付くような湿度と高温の空気が広がる中、私はゴルムアの背中に魔剣を突き立てようと振りかぶる。しかしゴルムアは半身でこちらを振り返るなり剣を一振り。いとも簡単に魔剣を弾き飛ばした。
強い力で魔剣を弾き飛ばされた影響で、手が痺れる。
フレイラさんの硬直状態は未だ解消されていない。
どうしよう。次はどうしたら……!
一度は払拭された恐怖の感情が、焦りの感覚が、逆流するように戻ってきた。
恐れてはいけない。焦っては駄目だと思っても、止められない。
ゆっくりと、ゴルムアがフレイラさんに向き直った。
切り落とされた腕の根元が、見えない何かでフレイラさんを捕らえようとするかのように、ゆっくりとフレイラさんの方へと持ち上げられて行く。反対の剣を握る手は刺突の姿勢へと移行していった。
目の前で展開されていくその光景を、私は為す術もなく見ていた。
遠くでタツキが何事かを叫んでいる。けれど、私もゴルムアの放っている威圧感に浸食され始めていた。
手が、足が、頭が。
全く動かなかった。何も考えられなくなっていた。
フレイラさん──!
「おいおい、ゴルムア。お前、俺様の嫁候補を手にかけるつもりか?」
唐突に、空から声が降ってきた。
いや、降ってきたのは声だけじゃない。巨大な塊がゴルムアの直上からゴルムア目がけて落ちてきた。ゴルムアはまるで野生の獣のような動作で素早く横へと逃れる。
重苦しい音を立てて地面に落ちてきたその塊が、ゆっくりと立ち上がった。
眼前に広がる、真夜中の空のような黒に近い深い紺色の翼。風になびく、朝焼け色の鮮やかな髪。身長二メートルはあるであろう、翼魔人の大男。
「無敵の魔王、ルウ=アロメス様の登場だぁ! どうだフレイラ! 惚れ直したか!?」
初めて遭遇した時と同じく豪快に仰け反り、翼を大仰に広げて大音声で名乗ったのは、私たちがゴルムアについて話を聞くべく探していた、魔王ルウ=アロメスその人だった。
というか、惚れ直したかって……そもそも惚れられてもないでしょうが!
しかしルウが登場した衝撃のおかげか、ゴルムアの威圧の呪縛から私もフレイラさんも解放された。すぐさま私はルウの横を回り込んで、フレイラさんを背にルウとの間に立ちはだかる。
「おー、リク、だったか? お前もいたのな!」
だっはっは! と豪快に笑うと、ルウは私の反応など気にも留めずにゴルムアに向き直った。
「久しぶりだなぁ、ゴルムア。あぁ、もう記憶がないんだっけか? そんなんでよく生きてたなぁ」
「ぐっ……ル、ウ……ルウ? 何故……何故だ」
ルウが声を掛けると、ゴルムアの目に僅かながらに光が戻る。そして前回と同じく、「何故」を繰り返し始めた。
対するルウは、柔らかい表情でゴルムアに微笑みかける。
「お前は疲れ果ててるんだな、ゴルムア。もう、何故なんて考える必要はない。俺様が眠らせてやる。そうしたらお前もようやく、家族に会えるだろう」
ルウの言葉に、ゴルムアが動きを止めた。息すらも止めて、目を見開く。その瞳にあった闇が、みるみるうちに晴れていく。
「俺様はなぁ、全力で生き抜いて死んで行くのが理想だと思うし生きてる奴は全員そうあるべきだと思うから、こうしてお前の命を絶つのは不本意なんだけどな」
そう言いながら、ルウは一歩一歩ゴルムアへと近付いていく。ルウが近付くに連れ、ゴルムアの瞳に生気が戻ってきているように見えた。
その様子はまるで、自らの死が近付いてきているのに、死が近付くに連れて生きる希望を取り戻していくかのようだ。
「ルウ……フレッグラードは……」
「あぁ? 俺様は、もうあんな奴知らん! 今頃自分がぶっ壊れて、そのうちこの世界もぶっ壊すんだろうよ」
眼前で立ち止まったルウを見上げ、ゴルムアは前回同様“フレッグラード”という名を出した。
どうやらルウもその人物の事を知っているようだ。投げやりに右手をぷらぷらと振って、ゴルムアの問いに応じる。
そして。
ぷらぷらと振ったその手を、一息にゴルムアの胸部に突き刺した。
一瞬の出来事だった。
カランと音を立てて、ゴルムアが握っていた剣が地面に落ちる。
縋るようにルウの腕を掴んだゴルムアを片手で支えると、ルウは恐らく私やセンでなければ聞き取れないほどの小さな声で「お疲れさん」と、ゴルムアの耳元で囁いた。
その言葉で安心したかのようにゴルムアの表情が和らぐ。同時に、ゴルムアの目から雫が零れた。
ゴルムアの流した涙がひとつぶ、地面へと落ちていく。それに続くように、ゴルムアの命も空へと零れ落ちていった……。