88. フォルニード同盟
マナがいるという部屋の扉をノックして、しばし待つ。しかし全く返答がないまま、沈黙が下りた。
おかしい、室内には確かにマナの気配があるのに……。
首を傾げながら「マナ? 寝てるの?」と問いかけると、室内からドタン! という音が聞こえた。
えっ、何!?
思わず私は返事も待たずに扉を開けた。するとベッドから落ちたのか、床に倒れ込んでいるマナの姿が視界に入った。
「マナ!」
私は慌てて駆け寄ってマナを助け起こす。マナも私の腕に捕まって何とか床に座ると、ゆっくりと顔を上げ──その目には、溢れんばかりの涙が溜まっていた。
綺麗な翼も髪もぼろぼろで、肌にも包帯を巻かれているのが垣間見える。
あまりの痛々しい姿に私が絶句していると。
「リク……ごめん、ごめんね。ボクが呼んだから、来ちゃったんだね……」
ぽろぽろと涙を流しながらマナは私に縋りついてきた。そして何度も「ごめん」と繰り返す。
どうしてみんな、自分を責めるのだろう。ラーウルさんに言った通り今回の事は誰にもどうにもできなかったし、マナが私に念話を送ってきた事で何かが悪い方向へ転んだわけでもないのに……。
私はそんな事を考えながら、そっとマナの背中に手を回してその髪を撫でた。
「謝らなくていいよ、マナ。むしろ知らせてくれてありがとう。おかげでこれまでぼんやりとしてた脅威がどれほど危険なものなのか、はっきり認識できたよ。マナが念話を送ってくれたから、アールグラント側でもこれまで以上に国境警備に力を入れてる」
だからありがとう、ともう一度伝えると、マナは更に顔をくしゃくしゃにして泣き始めてしまった。
相当恐ろしい思いをしたのだろう。念話を送ってきた時のマナは確実にこの村にいる全ての人の命が失われると感じていただろうし、自らの死をも覚悟していたように思える。
どんなに足掻いても手も足も出ない。敵に背中を見せて逃げ出す事も恐ろしくて出来ない。ただただ、殺されるのを待つだけの時間。それがどれほど恐ろしいものか。想像するだけで身震いしてしまう。
実際にマナは嗚咽の合間に「恐かった」と何度も口にした。
そうして泣きたいだけ泣かせてあげると、やがてマナはすっきりした顔でぐいっと涙を拭いた。
「いつも頼っちゃってごめんね。ありがとう、リク」
「いいよ。だってマナは大切な友達だもの」
「……うん。ボクにとってもリクはすごく大切な友達だよ」
ようやく落ち着いたようで、マナは眩しい笑顔を浮かべた。私はマナに手を貸してベッドに座らせる。
マナはまだゴルムアにやられた際のダメージが残っているようで痛みに少し表情を歪めたけれど、人の手を借りれば立ち上がる事が出来るようだ。私はまだ自力で座れない様子のマナを支えながら、その隣に座った。
「マナが無事でよかった。あの念話の後、全然繋がらなくなっちゃったから凄く恐かったんだよ」
「ごめんね。あの後すぐにあの化け物にやられちゃって、そこから記憶がないんだ。でも、リクでも恐いって思うんだね」
「当たり前だよ! 恐いものなんて一杯あるもの」
「そういう風に見えない」
えぇー……マナの中の私って、どんだけ強靭な精神力してるんだろうか。
今私は相当変な表情を浮かべているのだろう。
マナは私の顔を見て小さく笑った。
「初めてリクに会った時にね、ボク思ったんだ。同じ年くらいなのに、落ち着いてるなって。それに、リクは魔王ゾイ=エンとの戦いに赴く時も全然恐がってなかったでしょ。だからリクはいつでも落ち着いてて、簡単には揺らがないんだと思ってた」
「そんなに落ち着いてるように見えた?」
「うん」
そうか。
自覚はないけれど、マナと初めて会ったのは確か7歳の時だ。あの頃には既に前世の記憶があったから、その分同年代より精神年齢が高くて、落ち着いて見えたのかも知れない。
ゾイと戦う前は……確かに、恐がってはいなかったかな。何となく、負ける気はしなかった。
「でも、そうだよね。リクだって恐い事くらいあるよね……」
過去の自分を思い出していると、隣でぽつりとマナが呟く。
それから意を決したように、真剣な表情を浮かべ、強い眼差しで私を射抜く。時折マナが見せる迷いのない瞳と、凛とした空気。
「あのね、リク。ボク、ずっと考えてた事があるんだ」
マナが纏っている空気に気圧されて、私は自然と姿勢を正し、耳を傾ける。
「例の化け物はまた襲って来る可能性が高い。けれどいつ来るのかはわからない。だからと言って、ずっと警戒しつづけるのは無理だと思う。ならば古代魔術の結界を張ればいいかと言うと、外部とのやり取りが一切出来なくなるからそれはそれで厳しい」
「うん」
マナが語る内容は、私たちが城塞都市アルトンを防衛する手段に迷っていた際に辿った苦悩に近いものがある。
なので肯定の頷きを返す。
「現状あの化け物の脅威に晒されているのはフォルニード村だけじゃなくて、周辺の集落も同じだと思うんだ。なのにみんなバラバラに対処しようとしてる。そんな事をしても結果は蹂躙されて終わるだけだと思う。このままじゃ、魔族領南中部の魔族が全滅しかねない」
「……そうだね」
私はつい縁が深いフォルニード村にばかり目を向けていたけれど、どうやらマナはもっと広い視野で考えていたようだ。
言われてみれば、確かにその通り。このままでは魔族領南中部に住まう魔族が全滅する。
辛うじてギルテッド王国は耐え切る可能性があるけれど、フォルニード村規模のやや大きめながらも国規模ではない村やそれよりも小さな集落は、間違いなく耐え切れないだろう。
そう考えたら、背筋に寒気が走った。
脳裏に浮かぶのは魔王ゾイ=エンの故郷がゴルムアに蹂躙される光景。あの光景が、魔族領の南中部にある集落全てで起こるかも知れない。
魔族領南中部には相当な数の魔族の集落がある。既にかなりの数の集落でゴルムアによる蹂躙が行われているけれど、他の集落だっていつ同じ目に遭うかわかったものではないのだ。想像を絶する。
「だったら個々に対応するのはやめて、魔族領南中部の集落が人族のように手を結んで、協力し合えばいいんじゃないかって考えたんだ。ただそう考えはしたものの他の集落と手を結んだ後、何をどうしたらそれがいい方向に結びついて、村や手を結んだ集落を守る事に繋がるんだろうって思って。……人族はさ、手を取り合うと急に強くなるでしょ? リクなら人族領でずっと暮らしてきたから、どうしたらいいのか知ってるかなと思ったんだけど……何かいい案はない?」
「えっ? いや、壮大な話すぎてちょっとすぐには……」
無茶振りにも程がある。
けれど、話せる事がないわけでもない。
「でもひとつ、似たような事例の話を聞いて貰ってもいい?」
「うん!」
ぱっとマナの顔が輝いた。先程までの凛とした空気が霧散してしまったけれど、こちらの方が私も話しやすい。
私はマナに城塞都市アルトンの話をした。
オルテナ帝国の都市のひとつが国の意に背いて戦争に反対したこと。戦禍から逃れる為に手を貸して欲しいとアールグラントを頼ってきたこと。そしてアールグラント側から打った手についても。
「やっぱり、古代魔術結界を使ったんだ……」
「そう。でもそうすると物資の流通が止まっちゃうでしょ? 結果的に兵糧攻めと同じ状況になっちゃうから、私とタツキとブライである魔術を開発したの」
私はマナならば悪用はしないだろうと判断して、空間魔術について話をした。
星視術に関しては伏せて、だけど。
「物を転送する……なるほど、それなら古代魔術結界を使ってもかなり不便が改善されるね」
「物資が無事手元に届くっていう安心感もあるしね」
改めて「なるほど」と呟いているマナを、私はじっと見つめた。
その真剣な表情を見ながら、言葉を続ける。
「……手を結ぶっていうのはね、同じ目標を持つ者同士が力を合わせて、目標を達成する為に自らと相手のために惜しまず努力するって事なんだと思うの。多分マナが言う“手を結ぶ事でどうやって互いの身を守る効果を出すか”という点に関しては、例えば相互に不足している物資を融通し合ったり、その集落独自の身を守る術を共有したりする事で実現出来るものなんだと思うよ」
私がそう告げると、マナは唸りながら考え込んだ。
先程よりも更に真剣さを増した顔つきになっている。いっそ険しいとも言える表情だ。
「相互に……か。いずれにしても、やっぱり身を守るには古代魔術結界が必要になりそうだね。仮に古代魔術結界を使うとして、効果範囲は限られてるし使い手も限られてる……いや、むしろボク以外で使える人が南中部の魔族にいるのかな? もし使えるのがボクだけだった場合、どうしても故郷から離れて効果範囲内に退避して貰わないとだし……」
ふむ。確かに古代魔術が使える術者となると、魔族領南中部にはフィオとマナくらいしかいないように思える。探せば他にもいるのかな?
魔王種って神位種に比べると数が多いから、探せば案外いるのかも知れない。けれど今から探すのは骨だし、時間が経てば経つほど状況が悪化してしまう。
だったら……。
「ねぇ、マナ。こういうのはどうだろう? まずは手を組むか組まないか、周辺の集落に呼びかけてみるの。で、応じてくれた集落と同盟を組んで、古代魔術結界の魔法陣と転送魔法陣の魔法碑を渡す」
「魔法碑?」
マナが首を傾げた。
薄々そんな気はしていたけれど、保有する魔力量が多い魔族はあまり魔法道具に頼らないので、人族から見てもマイナーな魔法道具である魔法碑の存在を知らないようだ。
「魔法道具の事だよ。スクロールは紙に魔法陣を描くけど、魔法碑は石に魔法陣を刻むの。破損しないように管理が必要だけど、効果範囲を狭めた古代魔術結界だったら案外各集落の人たちでも使えるんじゃないかなぁ。そこに加えて転送魔法陣の魔法碑も渡しちゃえば、各集落ごとに結界で守る事も出来るし物資も融通しあえるでしょ? まず最初にフォルニード村側から身を守る手段を同盟を結んだ集落に提供して、信頼を得る。物資に関しては魔族領南中部の集落内で賄うのは厳しいかもだから、フィオにも協力を呼びかければ何とかなると思……」
と、そこまで提案した所でガシッとマナに手を掴まれた。
話す事に夢中になっていた私は急な事に吃驚して黙り込み、マナを見遣る。
「リク! ほんっとうに助かる! ボク、リクに相談してよかったよ! それで行こう!」
マナの目はこの上なくキラキラしていて、その顔も普段の少し眠そうな顔が嘘のように活力に満ちていた。
私はあまりの眩しさに仰け反りながらも、「お、お役に立てたようで良かった」とだけ、返した。
そこからのマナの行動は速かった。
いや、デジャヴだわ。
この行動力には見覚えがある。アールグラント王国の国王陛下の行動力を思い出す。
マナはまずラーウルさんに自らの案を伝えに行った。
一刻も早くラーウルさんに伝えたかったようで、治癒魔術と身体強化魔術を駆使して重傷から復帰しかけの体のまま部屋を飛び出して行ってしまった。
慌てて後を追いかけると、マナは既に村の広場にいたラーウルさんに先程の話を持ちかけていた。
す、素早い…!!
ラーウルさんはマナの案と私の補足案を聞くなり、即断で賛成、すぐに近隣の村への連絡を開始した。
どうやら今回の戦争に際して、フォルニード村と周辺の集落で念話でのやり取りが出来るよう、ネットワークを構築していたようだ。
そうして力を合わせて立ち向かうか自分の集落で対応するかを確認するのに半日。15の集落がフォルニード村の提案を受け入れて同盟を組む選択をしたようだ。
同盟を組まなかったのは8つの集落。そのほとんどが魔族の中でも能力が高い、悪魔系列の魔族が形成する集落だったようだ。
悪魔族の集落と言ってもそもそも彼らはちょっと特殊な種族で、大人数で群れる事はせず、特定の場所に定住せず。更に言えば神出鬼没。そう簡単にゴルムアに集落を発見されたり蹂躙されたりはしなさそうなので問題ないだろう。
同盟を組む集落がはっきりしたので、早速マナはまとめ役として最適だと考えたのだろう、ラーウルさんに声をかけに行った……のだけど。
「何を言ってる、マナ。私はフォルニード村の代表者なんだぞ。村の事で手一杯なんだ。それに、この話を持ちかけてきたのはマナだろう? まとめ役はマナがやるべきだ」
と、諭されてしまった。
するとマナは青い顔で、近くで様子を見ていた私の方へと歩いてくる。
近付くにつれて、その視線は強さを増して、私に向けられ……って、え、まさか、おかしな事考えてないよね? マナ?
「リク。 ボク、常々思ってたんだ。リクはリーダーとして凄く優秀だって」
「マナさん……?」
「モルト砦でも指揮官役を絶賛されてたし、頼りになるし」
「マナさーん??」
まるで何かに取り付かれたかのようにそう呟きながら、マナは私の手をがっしりと掴んだ。
「リク! この同盟の盟主にならない!?」
やっぱりそうきたか!
「ならない! だって考えてもみてよ、私はそもそもアールグラントの人間なんだからね!?」
「でもボクには無理だよ! 人と話すの苦手だもん!」
「いやいやいや。でもね、私も常々思ってたんだけど、マナは盟主とか向いてると思う! だって、マナはやるときはもの凄い行動力でやり遂げるじゃない。前にセンザまで逃げ延びてフォルニード村の危機を知らせたのはマナなんだよ。それに、マナには全体を見る目があるでしょ? 今回の件だって元を辿れば、魔族領南中部の集落で手を結んだ方がいいって言い出したのはマナなんだからね! 私はそれを実現する案を提示しただけだからねっ!」
涙目のマナに私は活を入れるべく、やや強い口調で言い返す。
そんなやりとりを傍から見ていたラーウルさんが苦笑いを浮かべながら「まぁまぁ」と間に割って入ってきた。
「リク様の仰る通り、私もマナは案外盟主に向いていると思います。周囲を思いやり、誰かの為に何かをやり遂げる姿勢は昔から目にしておりました。普段は頼りないのですが、こうと決めたら別人のような行動力を発揮するのも皆、知っております。更に言えば、マナは魔王種。多くの者の上に立つに相応しい力も持っている。それに、今件は間違いなく、マナが盟主になるのが筋だと思います。リク様の仰りようからすると、どうやら元々の発案者はマナのようですし、ね」
ラーウルさんは柔らかい表情でマナを見遣り、微笑む。
当のマナはまだ涙目だ。
「必要とあらば私も手伝うから、やってみないか? マナ」
今一度諭すように、ラーウルさんは膝を曲げてマナに視線の高さを合わせた。なかなか首を縦に振らないマナに、根気よく向き合う。
ここはラーウルさんに任せた方が良さそうだ。私は黙ってふたりの様子を見守る事にした。
どれくらいそうしていただろう。やがて、マナは一度俯くと、ぽつりとある言葉を呟いた。
それから改めて顔を上げる。もうその顔に迷いはない。例の凛とした、強い決意を湛えた顔つきになっていた。
「わかりました。ボク、やってみます」
「そうか。もし困った事があったらいつでも相談するといい。出来るだけ力になろう」
ふぅ、と肩の力を抜いてラーウルさんはマナの頭を撫でた。
フォルニード村は村人同士の繋がりが強い。村の大人たちは、村の子をみんな自分の子と同じくらい大切に見守ってきたのだろう。
その事が、マナの頭を撫でるラーウルさんの仕草からも見て取れた。
私もマナが自分の意志で引き受けてくれてほっとする。
だって……今のマナを見ていると、つくづく思う。
同盟の盟主になる決断をしたその姿は凛々しく、その容姿の美しさも相俟り、鮮烈な印象を伴って人々の目を引きつける。その身からは王者の気品のようなものすら滲み出ているように錯覚する。
民を思い、全力で守ろうと行動する。その為に頭を悩ませ、力を尽くす。
力を尽くすと決めたら、決して揺らぐ事なく突き進む……。
マナは、ちょっと王様みたいだ。
確かに普段は頼りない感じもするんだけど、こうと決めたら途端にその身に宿る魅力を発揮する。
今はまだ表舞台に立っていないから多くの人の目に止まる事はないけれど、表にさえ出てしまえばきっと、誰もがマナから目が離せなくなる。
私がアールグラントの国王陛下に感じたような、この王様の為ならば、という思いが湧き上がってくるのを止められない。
「ふふ」
あんなに嫌がっていたのに、引き受けると決めたら全力で取り組む姿勢になっているマナ。
正に適任だな、と思って小さく笑い声を漏らすと、マナが不思議そうな顔でこちらを見た。だから「ごめん、何でもない」と伝えてマナに近付き、そっと抱え上げた。
随分走り回らせてしまったけれど、マナはまだ重傷の体なのだ。
「それではラーウルさん。マナを部屋まで送りますので、失礼します」
「はい。よろしくお願いします、リク様」
ラーウルさんに見送られながら、私はラーウルさんの家に向かった。
脳裏には、先程マナが呟いた言葉が反響している。
“フィオに出来て、ボクにできないはずがない”
それを思い出すとついつい笑ってしまいそうになる。
どうしてそこでフィオに対抗しようと思ったのか。
もしかしたら敢えてそう思う事で自らを奮い立たせているのかも知れない。
マナの真意はわからないけれど、未だにマナにとってフィオの存在が大きい事だけは理解出来た。
それからふと獣人の赤目魔王種の青年を思い出す。
襲撃を受けた日から眠ったままのセン。
今でもマナの事を好きなのだろうか。
だとしたら敵は今尚強いぞ、セン!
私は心の中で応援してるからね……!
こうしてこの日、魔族領南中部にある16の魔族の集落が、狂人ゴルムア並びに戦禍から身を守るべく同盟を組んだ。
後日正式にこの同盟の約定が制定され、同盟自体の正式な名称も決定した。
その名も「フォルニード同盟」。
盟主は発案者でありフォルニード村在住の金目魔王種、マナだ。
この日より、マナは多くの魔族を代表する立場に立った。
そして5日後……マナは魔王種の最終覚醒に至った。
新たなる魔王が、誕生した。