誇り高き所有物
目の前のそれを切り刻む。何度も何度も刃を通し、すでに元の形はわからない。切った相手の体液を全身に浴びながらも、俺は刃を止めなかった。辺りはすでに死体――否、切り刻まれた残骸のみが積み重なっている。元は生あるそれらを、切って今の惨状に至らしめたのは俺自身だ。けれど、それに対して特別な感情は抱かない。もう何回も、何日も――何年も経験した、俺にとっての日常だったのだから。
一仕事終えた俺はざばざばと湯を浴びる。体にこびりついた汚れと肉片を洗い流し、さっぱりと綺麗な体に戻る。俺はこの湯浴みの瞬間が好きだ。仕事をして汚れて、その不快な影響から逃れて。そうして再びあの殺伐とした景色にまみえる。また“彼女”のために働くことができるのだ。この至福を噛みしめつつ、水気を布で拭き取る。それが終わると、俺は薄暗い部屋に戻った。
そこは個室などではなく、同じくここにいる者達が集まる大部屋だった。それぞれが自分の場所を決めているが、それだけだ。密集した雑魚寝状態で、誰かが話せばがやがやと騒がしい。俺はその部屋の、少し離れた部屋の端で体を休ませる。俺が帰ってくるのをみて、誰かが口を開く。
「あんたは知っているかい、あの噂。彼女、最近夫と喧嘩気味なんだってね」
「おうおう、知っておるぞ。あっちの方が浮気してるとも聞いたな。今後の関係次第じゃ、わしらにも影響があるだろうねえ」
あまり穏やかでない会話が聞こえてくる。俺は別段興味は無いが、その噂自体は知っていた。と、ある者が俺の方を見る。
「なあ、お前さんはどう考える?」
「別に何も。“彼女”がどうあれ、俺のすべきことは変わらない。いつものように、彼女の命令に従って切るだけだ」
俺の答えに、聞いていた皆がどよめいた。面白くない、相変わらずの堅物だ、そんな声が聞こえてくる。
「はあ、あんたはそればっかりだねえ。たまには命令以外のことも考えないのかい」
「必要ない。俺は彼女の所有物だからな。ここに名が刻まれている限り、逆らうという選択肢はない」
言いながら、俺は自らの体に刻まれた文字を見せた。そこには彼女の名前が特徴的な字体で彫られている。それが、俺が彼女のモノであるという証だった。と、誰かのため息が聞こえてくる。
「それでいいの? このままじゃ彼女に言いように使われるだけの一生じゃない。ほかの生き方を考えてみることはないの?」
「他の生き方、か。それはつまり、彼女に逆らえる機会があれば、という仮定の話か?」
尋ね返せば、肯定の頷きが帰ってくる。俺はわずかに思考をめぐらせ、しかしすぐに息を吐いた。
「勘違いしているようだから言っておくが、俺はこれでも自分なりの矜恃をもって今の役割に徹しているんだ。例え逆らえたとしても、彼女が彼女である限り、彼女に従うことに変わりはない」
俺がはっきりと言い切れば、聞いていたモノは皆呆れたと言わんばかりの言葉を漏らす。俺への興味を失ったらしく、次々に別の話題で盛り上がってしまう。勝手なことだ、とは思ったが、俺自身それ以上関わるつもりもなかった。
次の日も、その次の日も、命令通りに切りつける日々が続く。存在は形を失い、肉は細切れの欠片へと変わる。そうして全てが終われば、いつものように湯浴みして汚れを落とすのだ。ほら、何も変わらない。俺のすべきことは、いつだってたった一つ。俺自身が折れて使い物にならない限り、物騒で平凡な一日が永遠に続く。そう思っていた。
――あの事件が起こるまでは。
その日、彼女に呼び出されたのは、深夜のことだった。いつもなら、こんな時間に呼ばれることはない。何があったのかと訝しめば、彼女の目の前に、泥酔した男が座っている。口をわずかに開けて眠っている男は、彼女の夫だ。仕事着を着替えてないのを見るに、どうも帰ったばかりらしい。夫を見やる彼女の目は暗く、笑顔がない。その表情を見て、俺はこれから起こることを直観してしまった。けれど、気付いたときにはもう遅かった。
俺の刃が夫の胸に突き刺さる。刺したところからどろり、と赤黒い液体がしみ出てくる。肉も骨も血も、俺がいつも切っていたものより生暖かく、体にまとわりつく感触が気持ち悪い。ずっと大きくて形がまだ残っているというのに、触れるそれはじわじわと熱を失っていった。
彼女は一回では満足しなかった。二度、三度と切りつける。胸を首を、もう事切れているだろうに入念に刺したのだ。べっとりと血に濡れて、やがて我に返ったのかはっとした顔をする。彼女は動かなくなった夫を担ぎ上げ、ベッドの下に押しこんだ。シーツとマットレスで誤魔化し、外からは見えないようにしてしまう。
次に彼女は血糊の付いた家具を拭い、自分の服を切り刻んで燃やした。最後に彼女は俺を手に取る。俺は、彼女がしようとしていることがわかってしまった。だからその手を振り払い、ベランダから飛び降りた。道端に落ち、体が痛む。それでも、見通しのいい場所に落ちたことに安堵した。
翌日の朝、散歩中の誰かが俺を見つけた。俺の姿――つまり血まみれの包丁を見て、ただならぬ事態が起きたと察したのだろう。それからことは早く進んだ。警察が呼ばれ、早速捜査が始まった。俺の体には彼女の名が刻まれているのだから、特定は簡単だった。字体が明らかになり、俺は重要な証拠として保管される。
捜査に連れられて彼女の家に戻ったとき、かつての同僚が声をかけてきた。
「あんた、自分の意思で彼女に従っているって言ったじゃないか。命令通り切るだけだ、って。なんで夫を切ったあのとき、彼女を裏切るような真似をしたんだい」
相手に疑いの視線を向けられる。俺はやはりはっきりと答えた。
「言ったはずだ、俺は自分の矜恃で従っていると。かつて生き物であった食材を切り続ける日常であったとしても、俺の働きで彼女が喜ぶ顔が見られるのだから、俺は誇りを持って従っていたんだ。だが、あのときは切っても、彼女は喜んでいなかったからな」
俺の答えに、相手――菜箸は訳がわからないという表情だった。ああ、そうだろう。食材をつつき回すだけの菜箸に、包丁の俺の心意気なんて理解できないはずだ。いや、理解されなくてもいい。
俺は、包丁だ。食材を切って人の料理の手助けをするだけの、包丁なんだ――
この主人公のように、主たる存在には逆らえないけれど、自分なりの美徳と価値観で従うのって格好いいなあと思っていたら、いっそ主人公道具でいいんじゃないか?と、突拍子もないことを閃いたので書くしかありませんでした。どうしてこうなった