第328話 決裂
その二日後、俺はアンジェのところから回されてきた偵察報告を読んでいた。
着任してから初の偵察だからか、報告書はかなり細かい。二度三度と繰り返すと、前回と変わっていない点は省くようになるので、適度な長さの報告になってくる。
敵偵察部隊がどこそこにいた。どこそこの村に火事の痕跡があった。傭兵団が村落を襲っていた。武装した商隊が襲われた形跡があった。森を伐採して砦を作っている。堤防の工事をやっていた。様々な報告がある。
「……ん?」
堤防の工事?
今、そんな公共事業のような真似をするのか。まあ堤防は決壊したら大きな被害が出るから、緊急の対処が必要なら仕方がないのかもしれない。というかアルフレッドがやっているわけではなく、実際に決壊したら迷惑を被る周辺の村落が自主的に修復している可能性もある。
場所は――。
地図上に碁盤目状の升目の入った地図を取り出す。縦線に割り振られた文字と、横線に割り振られた数字を辿ると、問題の地点が判明した。
なんだか川が屈折している。
当然、俺はここらの地理にはまったく詳しくないが、ここが決壊したら、アンジェが決戦場所として想定している地域は水浸しになってしまうんじゃないか。
俺は危惧したところをしたためると、偵察報告の所感としてアンジェのところに送り返した。
しかしこの川、流域を見るとこないだ遠征した時、行きに通ったはずの川なのだが……どんな川だったっけ?
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一日もしない内に返答が来て、遠乗りをして川を視察するので、どうか来てほしい。と書いてあった。
……まあいいが。
翌日、仕事を部下に預けて白暮に乗ると、俺は指定された場所に向かった。それほど遠くはないが、馬を使ったら往復に一両日はかかるだろう場所だった。
昼過ぎにその場所に到着し、上空から見てみると――ああ、この川か。と記憶が蘇った。
水が透明ではなく、青みがかったような緑がかったような、濁った翡翠のような色に染まっている。
上流が侵食が進みやすい軟弱な地質だと、下流の川はこういう色になる。常に上流の土が運ばれてきているのだ。
地上を見てみると、草刈りの終わった農地に赤いバツを描いた大きな白い布が張ってあり、近くにはアンジェらしい一人の人間がぽつんと立っていた。
少人数で来なければならないこちらに配慮してか、人を遠ざけておいたようだ。
布の近くに白暮を降ろす。
「よく来てくれた」
「ああ」
農民が日陰を作るために植えたのか、農地の近くには一本の木があった。太い枝に手綱を引っ掛けて、堤防を見上げる。
雪はあっても大雨が降ることはあまりない白狼半島では、ほとんど見られないほど大きな堤防だった。
「まずは礼を言わせてくれ。この件、よく気づいてくれた。私だけだったら、せっかくの報告を見逃してしまっていただろう」
「こないだ痛い目を見たばかりだからな。偵察も、川や池のような水場には特別に注意を払っていたんだろう」
「なんにせよ、気づいてくれて助かった。登ろう」
アンジェは堤防を登り始める。堤高は七メートル近い。
川は堤防のすぐ近くを流れていて、いわゆる河川敷といわれるような、堤防と川との間の平坦な部分はほとんど見られなかった。堤防の人工的な感じも加わって、運河みたいな川だな、という印象を受けた。
「この川はククルスル川という。なにか気づいたことはないか」
「あえていうなら……まあ、厄介そうな川だな。歴代の統治者の苦労が忍ばれる」
七メートル近い堤高の堤防を、両側に一つずつセットで、川沿いに延々と作ってゆく。おそらく国を横断するような長さで。それは、冷静に考えれば想像を絶するような、恐るべき大事業だ。
「……そうだ。この堤防の最後の改修を行なったのは、私の父だ」
どうりで新しく見えるわけだ。
「見ての通り、この川は堆積物が多い。そのせいで、堤防を定期的に高くしないと増水の際に溢れてしまう。いわゆる天井川だな」
自然の川というものは、地表面より低いところを流れるのが普通だ。侵食によって川底を削りながら、下流に土を運んでゆく。
しかしながら、常に濁っているような堆積物の多い川は、それを途中で川底に堆積させてしまう。
川は低きに流れることを好むので、堆積物が多くなれば低いところに流れは変わる。平野部の河川地形というものは、そうやって蛇がのたうつようにして流域が変化することで、何万年もの年月をかけて自然に形成されるものだ。
しかし土地に人間が住み始めると、川が暴れるたびに道路や田畑が破壊され、大量の溺死者が発生するのは不都合となる。統治者は、川を制御して治水することを試みる。
そこで堤防を作るのだが、当然の成り行きとして、今度は堤防内に堆積物が溜まり始める。そうなると必然的に水面が上昇していき、治世者は氾濫を防ごうと更に堤防を高くする。
そのイタチごっこを繰り返すと、必然、いつか川底が地表面より高くなってしまう。それが天井川だ。
この七メートルの堤高も、たぶんアンジェの父が一代で建設したものではない。歴代の統治者たちが、必要を感じるたびに嵩上げし、築きあげたものなのだろう。
「ここの堤防は、まだ低いほうだ。約五百年前の増水で、ここより少し上流にいったところが決壊して、流路が変わったからな」
普通の川であったら、増水して溢れた分の水は、溢れた分が流れ出るだけで済む。
しかし天井川の場合、そうはいかない。川底が地表面より高いのだから、水桶をひっくり返したように、堤防内にたたえた水はすべて堤防外に吐き出されてしまう。
決壊箇所を素早く埋め直せば元に戻せるが、それが無理だった場合、流れは変わったままだ。アンジェの言った五百年前の決壊では、埋め直せなかったのだろう。天井川の堤防は次第に巨大になるので、いずれはそういうことになる。
「そんなに水が多いようには見えないが、これから増水期なのか?」
「これから冬だ。むしろ水は減っていく」
「なら、取り越し苦労か。この流量だと……それでも、それなりの被害にはなるのか?」
この川は、確かに念入りに広く河川敷を取っているわけではないが、堤防本体に川がバシャバシャ当たっているわけでもない。
堤防を貫通する形で川底までトンネルを掘れば、決壊させること自体はできるだろう。だが、軍を押し流すような濁流を広範囲に作れるかというと……この水量だと難しいと思う。少しは土地がぬかるんで、行軍が難しくなったりはするかもしれないが。
「……この河川に繋がる水系には、三つも大きな貯水池がある。ぜんぶ、アルフレッドの支配地域だ」
ああ、そういうこと。
それなら話は別だ。
「なるほど確かに、そりゃ気づけてよかったな」
「やつが、やると思うか?」
「やるだろ」
普通にやる。
その貯水池がどんなものか見ていないので、どういった大惨事になるかはうまく想像できないが、三つ一斉に破壊すれば広範囲を呑み込む一過性の濁流を生み出すことくらいはできるだろう。その後、もちろんククルスル川は堤防を切った地点から流れが変わるはずだ。
「想定される被害域に、一体何十万の民がいると思う? 一部とはいえ、自らの支配地域も含まれている。それほどの民の生活を奪い、溺死させる権利など、どんな王にだってありはしない」
それは、俺への質問のようでいて、そうではないようだった。アンジェはやるせない思いを抱き、ここにいない兄をなじっているのだろう。
「アルフレッドが憎いんだな」
「当たり前だ。一刻も早く、この国から除きたい」
「手伝ってやるさ。俺も、あいつには裏切られた」
最初から信頼していなかったとはいえ、裏切られたことに違いはない。リャオを絡めた策謀を見抜けなかったのは自業自得というか、我ながらアホだったと思っているが、報復をする資格までも消えたわけではないだろう。
「……ありがとう。本当にありがたいよ。今まで、頼りにできる友邦などいなかった」
アンジェの笑みには、何年もの間、頼れる者もなく孤独に戦ってきた疲労の影が見えた。
こちらの調べでは、アンジェはユーフォス連邦やフリューシャ王国と外交関係を強めていた。しかし、どちらも援軍を送るほどはっきりと肩入れしたわけではない。正確には最後に一度援軍は送ったが、教皇領の指図で簡単に裏切った。
「こんなところまで援軍を送ってもらってすまないが、残念ながら今回は戦えなくなった。死地に飛び込むようなものだ」
「判断が早くないか。貯水池がどうこうって話は、まだ推測にすぎない。実際工事が始まっているか、確かめてからでも遅くない」
「工事は必要ない。貯水池には底樋が通ってるから、そこに火薬でも詰めれば一瞬で決壊できる」
「ああ、そうか」
貯水池は渇水時に水を取り出すためにある。そのため、水を貯める堤体の底に導水管を埋めてあって、栓の開け締めで水を取り出せるようになっている。でなければ溢れた分しか利用できないことになり、作る意味がない。
導水管は切石で出来ていたり、素焼きの筒で出来ていたり、原始的なものだと中をくり抜いた丸太で出来ていたりするが、どちらにせよ破壊する側にとってはなんの面倒もない。
「私の計算では、もう一刻の猶予もない。ユーリ殿の援軍は、もう被害域に足を踏み入れている」
「ふうん……その被害域ってのは、低地地域いっぱいに水が広がったら、みたいな話か」
「そうだ」
まあ、そうだよな。軍主力が今いる位置は、工事をさせている問題の場所からは、かなり離れている。貯水池の規模は知らないが、被害域といっても、まあ今すぐやられたら足元がぬかるみますよ、程度の話だろう。
むしろ、アンジェの主力が集結しているルオークのほうが、敵に近い分もっとずっとヤバい。
「ユーリ殿の援軍には、すぐ引き返してもらわなければならない」
そりゃそうだ。このまま行ったら、川に溺れに行くのと同じだ。
「その上で、決壊までにどれだけの民を避難させられるか……兄と競争だな。準備が終わるまでに、まだ時間があることを祈るしかない」
「そりゃあ、考え方が違うな」
俺がそう言うと、アンジェは疑問符を浮かべた顔で俺を見た。
「なにが違うのだ」
「一般市民のことを思うなら、決壊させないのが一番だろ」
「そんな方法はない。奴は躊躇しないって、さっき言ったじゃないか」
「考え方の問題だよ。まずそっから始めて、無理だと判明したら、次善の策を検討すりゃあいい。なにも、最初から最善を諦めてかかる必要はない」
俺はゆっくりと思考を巡らしながら、雑草がまだ枯れきらぬ堤防の斜面に腰を下ろした。
アンジェは、立ったまま見下す格好になるのが気が引けたのか、俺の横で膝を折ってしゃがんだ。座り込みはしないらしい。
「……無理だよ、そんなことは。もう仕掛け終わっているのなら、決壊させない理由がない」
「仮に、すでに全部の工事が終わっているとしよう。なら、なんで今決壊させないんだ?」
「考えるまでもない。我々の軍を巻き込みたいからだ。今決壊させても、ユーリ殿の援軍をうまいこと呑み込めるか怪しい。それに、ルオークは一応は高台にあるし、城壁に囲まれているから、水が迫ってきたとしても軍を優先すれば逃げ込める可能性がある。援軍と合流して、ルオークを出立してから決壊させれば、今より何百倍、何千倍も大きな損害を与えることができる。工作が露見していないなら、もっと引き付けたいと考えるのが自然だ」
ちゃんと理解できてるじゃないか。
もし今決壊させたとして、仮にアンジェの軍を壊滅させたとしても、それほどの意味はない。アンジェ自身はまあ助かるだろうし、援軍は一旦国境まで戻って別の位置から攻め込むだろう。
「奴の目的は、あくまでも軍だ」俺は考えを巡らしながら言う。「べつに、民衆を虐殺することは目的じゃない。どうなっても構わないと思っているだけで、まさか積極的に殺戮したいという願望があるわけでもないだろう」
「それが無理なんだ。ルオークから軍を退避させるなら、必ず低地地域を通過しなければならない。それなら、まだルオークに留まっていたほうが安全だ。そんなに高さがあるわけじゃないから、どれだけ意味があるかは分からないけど……」
「そりゃあ、戦争の考え方が違う」
戦争というのは、相手の手に乗ったら終わりだ。こないだは、手のひらの上に乗っかっていることにすら気づいていなかったので、無様に嵌められた。しかし今回はそうではない。幸い、事前に気づくことができた。
ならば、犠牲を払ってでも手から降りなければならない。敵の手の上で上手に踊る手段を考えていても仕方がない。
「奴の立場になって、一番やられたら困ることはなんだ? お前がルオークから動かないことだよ。そしたら奴は決壊できない」
「なぜだ。決壊してから軍を進めて、私と戦うという選択肢もある。」
「近辺全域が水浸しになっているのに、どうやって進軍するんだよ。泥濘に車輪が沈むから荷駄は進まないし、到着したところで攻城兵器の一つも作れない。補給もない兵に、手ぶらで城壁をよじ登らせて戦争するのか? いくらなんでも非現実的だ」
ふう、と息をついて、思考を整理する。
つまり、決壊をさせて、アンジェと戦うという選択肢は存在しない。ルオークにいる限りは、壊滅させることもおそらくできない。
「俺の援軍は引き返し、やつはお前を殺したい。その状況を作れば、奴に一つの選択肢を強制できる。決壊させてお前を封じ込めるか、あるいは決壊させずに進軍して、お前と戦うか」
アンジェはハッとしたような驚きの表情を見せた。当然のこと、後者の場合は決壊は行われない。民は辛酸を嘗めずに済む。
堤防にしゃがんだまま、翡翠色の川面を眺めながら、アンジェは何かを必死に考えていた。
「……やはり、ダメだ。ユーリ殿の援軍が大転回をして東から侵攻をかけるというのであれば、奴は決壊を選ぶだろう。だって、別方面から軍が襲来したら、私の軍と挟み撃ちになる。それなら決壊させたほうが得だ」
そりゃ、そうだろうな。
「ユーリ殿の軍がすみやかに援軍に来れないほど遠くに行ってしまったら、確かにやつは決壊させずに進軍してくるかもしれない。だけど、そうなったらやはり私は負ける。一対一で戦えるほどの戦力はないから」
アンジェの軍は撤退戦でボロクソにやられたので、現在は二倍以上の戦力差がついている。単体で勝てるなら、国土の多くを割譲しての同盟関係など結ばなかっただろう。
「戦う必要はないだろ。十分に引き寄せてから逃げればいい。民が心配なら、可能な範囲で連れていけ。土地は多少占領されるだろうが、すぐ取り返せる。アルフレッドが動き出して何日か経ったら、こっちはすぐ軍を東に差し向ける。そうなったら引き返さざるをえないだろ」
さすがに、逃げてゆくアンジェをどこまでも追っていって、本土を俺たちに奪われるに任せる、なんて戦い方はできない。補給線の元となる策源地を失えば、軍は維持できないからだ。略奪で軍を維持するにも限界があるし、アンジェがどこか堅固な要塞にでも籠もってしまったら、食べるものもない軍は空中分解するハメになる。
必ず、引き返してこちらと対峙するはずだ。それ以外の選択肢はない。
「その頃に洪水を起こしても、もう手遅れだ。引きつけられた連中が愚を悟って洪水被害域から脱した頃には、あんたの軍は相当遠くに逃れている。そこから決壊させても意味がない」
「………………」
アンジェは、眉間に深い皺を寄せながら、必死になにかを考えていた。
美人が台無しだ。
というか、一体なにを考えているのだろうか。これで話は解決だと思うが。
「……やはり、無理だ。あなたの軍が撤退をはじめたら、こちらの狙いは露見したも同じだ。感づかれたと判断して、すぐに決壊させるだろう。やつは、私の軍を封じ込めることを優先する。そちらのほうが、大転回して回り込んだあなたの軍と戦いやすい」
なんだ、そんなことを考えてたのか。
「そこは、どうとでもなるんだよ」
アンジェは訝しげな目で俺を見た。やはり、堅物なところも似ている。
「男女の仲なんて、いつ、どこで、どんな形で破綻してもおかしくないんだから」
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