第312話 黒い亡骸
ホウ家軍と近衛軍の連合部隊は、王都に向かって北に伸びる街道を北上し、ルベ家と教皇領の連合軍と対峙していた。
対峙といっても、戦争の当日に戦列を並べて向かい合っている、というわけではない。
街道沿いにある大きな宿場町を本営として、ホウ家の軍を二つに分け、それに近衛軍を加え、敵軍が動きだしても奇襲などを受けないよう三交代制で警戒に当たっていた。
刈り入れの終わった畑はもちろんのこと、近隣の伐採地にも、切り株の間を埋めるように天幕が張られている。
毎朝の偵察代わりの飛行を終えると、俺は宿場町にある民家に入った。
「閣下!」
なんの変哲もない個人宅の食卓で話し合っていた将たちが、一斉に敬礼をする。
なぜこんなところを会合場所にしているかというと、敵が鷲を持っているからだった。特定の会合場所で毎回集合していたら標的になりかねない。突然天井を突き破って弾頭が落ちてきて、軍首脳が全員大火傷というのは間抜けな話だ。
さりとて、会って話をしないわけにもいかない。
「楽にしろ。今日も延期だ」
「……しかし、閣下ッ」
ディミトリが、らしくないほどの抗議の声を上げた。
俺はその抗議を無視するように、ソファに腰を下ろす。
「延期だ」
ディミトリが焦れるのも分かる。戦意というのは、そう長く続かない。兵たちの、やってやるぞ、と意気軒昂になった気持ちは、いや待て、と数日待たされれば雲散霧消してしまう。
ディミトリ自身が血気にはやっているのではない。いってみれば、決戦に投入する兵のコンディションを気にしているのだ。
「早く戦いたいのは敵も同じだ。守る側のほうが緊張を強いられるからな。ここは条件が整うまで待て。そう長くかかるもんじゃない」
俺は、昨日も言ったことを言葉を変えて言った。実際、いつ攻めてくるか分からない敵を、ただ待っているリャオのほうが厳しい状態を強いられている。攻勢の側はある程度自由に休めるが、守勢の側は休むことができない。
「……分かりました」
「俺が待っているのは、そう難しい条件じゃない。むしろ、この時期今のようになることのほうが少ないんだ」
こればかりは、運が悪いとしか言いようがない。
「失礼します!」
突然、ドアが開け放たれた。白い腕章をつけた伝令だ。
「ここでしたか」
集合場所が毎回変わる上に見分けのつきづらい民家なので、何軒か回ったのだろう。伝令は逆に少し驚いた顔をしていた。
「近衛の偵察部隊から伝令です」
「敵が動いたか」
すわ、と並んでいる幹部の一人が待ちかねたように言った。
そういう感じではない。もしそうだったら、伝令はもっと興奮しているはずだ。彼は事務報告をするような、落ち着いた雰囲気だった。
「いいえ。敵軍から回収したものがあるので、至急閣下に確認してもらいたいと」
「そうか。すぐ行く」
俺はソファを立った。
「すまないが、待機だ。引き続き、徴募に応じた新兵をくたばらない程度に鍛えてくれ」
「ハッ!」
ディミトリが鋭い声で応じた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
カケドリから降りると、ドッラが待ちかねた様子でこちらに歩いてきた。金魚の糞のようにギョームがついてきている。
「ユーリ。こっちに来い」
言葉少なに言うと、ドッラは勝手に歩き始めた。なにを回収したんだ。
俺は何も言わずドッラのあとをついていった。いつになく深刻な様子だ。
「偵察隊は隔離してある。そちらの判断を仰ぐまでは、箝口令を敷くべきだと思ったのでな」歩きながらギョームが喋る。「報告では、通常の哨戒をしていたら、街道を乗り手のない馬車が走ってきたらしい」
馬というのは賢い動物で、そこにはっきりとした道があるなら、乗り手や御者がなにも操作をせずとも勝手に曲がってゆく。特別に気性が荒かったり、興奮しているのでなければ、道を無視して直進して森に突っ込んでいくようなことはない。途中で乗り捨てる形で、こちらに馬車ごと送ってきたのだろう。
「それで、幌を開けてみると」
「ギョーム!」
ドッラが強い声をあげた。
「黙ってろ。見れば解ることだ」
なんだなんだ。何が入ってたんだ。
不安になりながら、それきり口を閉じた二人の後ろを歩いていくと、すぐに問題の偵察隊のところにたどり着いた。皆軽装で、狭く固まってカケドリの世話をしている。その中に黒毛の荷馬が一頭いて、少し離れたところに馬の外された馬車があった。
前で、突然ドッラが立ち止まった。そして、歩みを止めないギョームの後ろ襟を掴んで、強引に止める。
「……あれだ」
と、分かりきったことを言って、その場で立ち止まった。どうやら一人で行かせたいらしい。
俺は二人を置いて歩みを進め、幌を開けた。
最初に目に映ったのは、今朝方に斬って落としたような生々しい生首だった。死んだ人間は容貌が変わるが、その顔の主は一目で分かった。
ノザ家に参謀として貸し出していた、カルノーという男だ。参謀というか、お目付け役として出向させていた。
――殺したのか。
腸が煮えくり返るような怒りが湧いてきた。あの野郎。貸してやってた男を殺しやがって。
その横には、腐った生首が並んでいる。開いた木箱に収められていて、目の部分に短刀が突き刺さっていた。
その柄をまじまじと見ると、見覚えのある家紋が刻まれていることに気づいた。
モリ家の家紋だ。
ヴィトー・モリ。大砲とともに戦地に残してきたおっさんだ。
駄目だったのか。
全身の力が抜け、脱力してしまった。殺されたのか。同じように短刀が目に突き刺さった木箱がいくつもあるところを見ると、これも残してきた爺どもの頭部なのだろう。いくつか数が足りないが。
死体を穢すとは……教皇領らしい手口だ。
そして、最後に目に入ったのは、真っ黒く焼け焦げた死体だった。ひび割れたところから、ところどころ赤い肉が見える。男にしてはかなり小柄だ。
……焼死体には詳しくないのだが、人間は焼かれると縮むのだろうか。
特徴的なのは、バンザイのようなポーズを取っていることだ。教皇領がよくやる、十字架に磔にした人間を燃やすとこうなる。やつらは戦意高揚のため戦場でこういうことをする。
焼け焦げた死体の顔には、手のひらほどの大きさの紙が置いてあり、黒い軸のペンによって眼窩に刺し留められていた。
魔王の躍進を支えし翼、大宰相を謹んでお返しする。
そのテロル語の意味が理解できなかった。大、宰相。内政を司る宰相職に、大、という接頭語をつけたものだ。
そんなわけない。
頭の一部が意味を理解することを否定し、現実を受け容れようとする脳の働きと衝突した。誤作動を起こしたような混乱が意識を覆い尽くす。
立っていられなかった。
なぜ? リャオが殺したのか? そんな馬鹿な……。
俺は、無意識にその可能性を除外していたことを自覚した。あいつがミャロを殺すわけがない。惚れてもらうための努力はするかもしれない。熱心に口説いたりもするかもしれない。場合によっては、無理な乱暴を働くこともありえるかもしれない。
しかし、殺すことだけはない。そう考えていた。
奴の叛意も見抜けなかった男が、何を理解した気になっていたのだ。
ありえる。教皇領が、あいつの手元にミャロがいることを知れば、ミャロを殺せという要求は一番最初にするだろう。
嘘だろ。
死んだのか。殺されたのか。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。
だが、状況は拒絶したい現実を肯定していた。
これが?
この焼け爛れた遺体がミャロだっていうのか?
「ああ、あ……」
口から声が出ていた。涙腺から涙が溢れ出てくる。
ごめん。すまない、申し訳ない、悪かった。
お前の想いには気づいていたのに。なにも返さずに仕事を押し付けて、殺させてしまった。
俺は炭化したミャロの亡骸に縋りつき、慟哭した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
俺は馬車から離れると、歩き出した。歩き方を忘れてしまったかのように、足がもつれる。
茫然自失の脳でしばらく歩くと、肩を掴まれた。逆側から抱きかかえるように、力強くドッラが肩を支えていた。
「どうする?」
短く、それだけ言ってきたドッラの目を見ると、その目は憤怒に燃えていた。ああ、知ってるのか。そういえば、ギョームはテロル語を読める。当たり前か。
「やるか」
ここで、俺が「ああ」と一言いえば、ドッラはカケドリに跨って飛んでいくのだろう。騎兵集団を一条の槍と化し、その怒りで敵を貫くのだろう。
だが、それは駄目なのだ。
「やらない。待て」
あと一つだけ、条件が整わなければ。
ここで攻めれば敵の思う壺なのだ。
「あれを見て怒らないのか。腑抜けてしまっては困るぞ」
隣から声が聞こえた。
俺はギョームの肩を強く掴んだ。親指が埋まるほど、深く指が沈んだ。
ギョームの表情が強く歪む。
「俺が……俺が、怒っていないように見えるか」
そう問いかけると、ギョームは表情を凍らせて首を横に振った。
手を離すと、もはや肩を支える必要はないと感じたのか、ドッラが離れた。
「偵察隊には箝口令を敷け。俺とお前ら以外には情報を伝えるな。ディミトリにもだ。馬車は、戦う当日に来たことにする」
俺はそう言い捨てると、
「少し一人になりたい。本部に、帰らない旨伝えてくれ」
そう言って二人に背を向けた。
すべてが嫌になった。なにもかも。
勝ったからどうだっていうんだ。それを共に祝ってくれるミャロはもういない。共に新しい国を作ることを約束した同志は、もういないのだ。たった一人で国を作るなんて、虚しいだけだ。
山から吹き付けてくる強い風が、濡れた頬を寒々と撫でた。







