第282話 口づけ
その翌々日、俺はリリーさんに呼ばれ、ホテルのレストランに向かっていた。
ウェイターに案内され店内を歩き、窓の大きな個室に通されると、リリーさんは既に待っていた。
いつもと違うのは、リリーさんと並んで、シャムが座っていることだ。
なんだか心配そうな顔をしている。
「おはよ。ま、座って座って」
今はランチの時間なので、おはようというには少し遅い。このレストランはいつもディナーで使っていたので、なんだか空気が違うような気がして、居心地が悪かった。
しかし、リリーさんは機嫌がよさそうだ。一昨日の夜から、二人の間でどんなやり取りがあったんだろう。
「まあ、座りますけど……」
俺は対面の椅子に座った。
リリーさんはどんな話をするために俺を呼んだんだろう。リリーさんのことはよく知っているつもりだけど、予想がつかなかった。
「じゃ、お茶をお願いね」
リリーさんがウェイターに言うと、ほぼノータイムでお茶と茶菓子のセットが出てきた。用意させていたのだろう。
「あとの注文は呼んだら持ってきて」
「はい。それでは、失礼します」
ウェイターが個室から出ていくと、部屋は三人きりになった。
先程カップに注がれた茶だけが、テーブルの上でゆるゆると湯気を上げている。
「それで、今日はどうしたんですか?」
「シャムともえっちしてもらおうと思って」
思わず飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。
えっちって。
「ユーリくんはシャムとえっちするのは嫌なん?」
「嫌っていうか……」
ちらっとシャムのほうを見る。やっぱり、心配そうな顔をしている。
「……想像したことがないというか」
そう言ったあと、俺はやや説明不足かなと思い、
「その……妹みたいに思っていたので」
と言葉を繋げた。
それを聞くと、シャムはなんだか衝撃を受けたような顔をして、すぐに泣きそうな顔で肩を落としてうなだれた。
「やっぱり……」
やっぱりってなんだ。
「ユーリくん、妹っていうのは酷い。謝って」
リリーさんは真剣な目で俺を見ていた。
「謝るんですか?」
「うん」
そうか……妹ってのは酷い暴言だったのか。実際傷ついてるみたいだしな。
じゃあ謝ろう。
「ごめん。妹ってのは言いすぎたかも」
なんのこっちゃ。
「ユーリくんはさ、シャムのことをえっちな目で見られない対象だと感じてるん?」
話が変わった。
どうも、あらかじめ用意されている質問な気がする。たぶん、リリーさんは昨日と一昨日の間でシャムが吐露した不安のようなものを代弁しているのだろう。
「うーん……」
「男の子って……その、女の子とは違って、えっちな目で見られなかったら、そもそもえっちできないわけやん。そ、その……」リリーさんはちょっと恥ずかしそうな目でシャムのほうをちらっと見た。「硬くならないわけやから」
この二人、仲はいいが……これまでそういう下ネタっぽい会話はなかったんだろうな。
「そういう意味でシャムとえっちしたくない、できないって感じてるん?」
「……いや」
うーん……また難しいことを言ってくる。
できると言い切ってしまうのも、なんだか昔から性的な目でシャムを見ていたみたいな感じになるし、できないと言ってしまったら、これはシャムが大層傷つくだろう。
好きな女に「男として見れない。無理」みたいに言われるのと同じことだ。それほど傷つく言葉は世の中あんまりない。
「いや、そういうことはないと思います」
「じゃあ、別によくない?」
いや、よくないっていうか……。
「俺はリリーさんがどう思っているか聞きたいです。嫌じゃないんですか?」
「そんなの、嫌に決まっとるよ」
やっぱそうなのか。
なんだかほっとした気分だ。なんというか、リリーさんはそうだよな。という感じがする。
意外と嫉妬深い側面があって、他の女性を少し見たくらいで不機嫌になったりする。いくらシャムといっても、そう簡単に心のなかで割り切って「嫌でもない、なにも感じない」とはならないだろう。
「でも、シャムの恋が実らないのはそれ以上に嫌」
「じゃあ、嫌だけど我慢するってことですか?」
「嫌なのはそうやけど、我慢とは違うよ」
どういうことなんだろう。
「私はシャムが喜んでくれたら、それが嬉しいから。嫌は嫌やけど、その嬉しさのほうが上回ったら幸せでしょ?」
「そういう感じなんですか」
「ユーリくんには分からないかもやけど、女の人生ってそういうことの繰り返しやからね。好きな男の人といっしょにいたくても、仕事が忙しかったら逢えもしない。でも仕事がなかったら生活していけない……それって交換みたいなもんでしょ? 仕事もなにもかも放り出して、ずっといっしょに居てとは言えないもん。妊娠や出産だってそう。お腹が大きくなって体型が崩れて、出産は痛いし苦しいし、もしかしたら死んじゃうかもしれない。そんなの、誰だって嫌や。でも、赤ちゃんが産まれたら幸せやから我慢する。嫌やけど、嫌々ではない。もっと大きな幸せとの交換やから」
まあ、それはそうか……。
「私は、シャムのことも幸せの交換だと思ってる。だから、私のことは別にいいのよ。あとはユーリくんの問題」
「俺は……」
俺はどうしたいんだろう。
リリーさんは、嫌だけど足し引きでいえば嬉しい方が勝つから平気なのだという。
俺は……正直言って、シャムに対しては肉欲みたいな欲望は湧かない。でも、家族として庇護してやりたいとは思っているし、幸せになってもらいたいとは思う。
「わかった」
リリーさんは、悩んでいる俺を見て言った。
「じゃあ、別れよっか」
は?
「別れるって……俺とですか?」
「うん。そしたら、ユーリくんは独り身に戻るわけやし、シャムとそうなっても問題ないわけやろ?」
「ちょっと」
横から声が入った。
「なにを言いだしてるんですか? 意味わかんないこと言わないでください」
今まで黙っていたシャムが、リリーさんの正気を疑うような顔をしながら言った。
演技には見えないから、これは伝えられていなかったんだろう。
「私はシャムを差し置いて、二年間もユーリくんを独占させてもらった。もう十分幸せや。シャムが誰とも知らん男と結婚して子供を産むくらいなら、別れて――そうやね、姿を隠してもすぐに見つかるやろうから、大人しく実家に帰るかな」
「本気なんですか? そんなの絶対ダメです」
「いいんよ」
リリーさんは、詰め寄るシャムをぎゅっと抱きしめ、小さく賢い頭を胸に抱いた。
「私が、シャムの不幸が嫌って言ったのは、浮気されるのが嫌とか、そんな天秤で計れる嫌じゃないの。シャムのことは、自分の子どもと同じくらい愛してる。だから、シャムのためなら全部捨てられる」
「先輩……」
「じゃ、気が変わったら会いに来てね。いつでもええから」
リリーさんは席を立った。
そして俺の横を通り過ぎて、部屋を出ようとした。
「待ってください」
俺はリリーさんの手を掴んで止めた。
「降参です。別れるなんて言わないでください」
◇ ◇ ◇
話がついたことで、二人は本当の姉妹のように和気あいあいと食事を楽しんでいた。
さっきのリリーさんの別れる発言は、一種のブラフだったのだろうか……?
何度か考えたが、そうとは思えない。俺がおそらく止めるだろう、止めてくれるだろうとは思っていたのだろうけど、止めなかったら本当に実家に帰っていたような気がする。
リリーさんにはそれだけの覚悟があったということだ。
なんだかこの後のことを考えると、料理の味がしない……。
リリーさんの時は紳士的にエスコートすることを考えながら、内心ではやる気満々だったが、シャムに対しては……なんというか、心の準備ができてない。
リリーさんは、いっちゃなんだけれども、そういう関係になる以前から性的な目で見てはいたし……なんの障壁もなく行為に転がり落ちて行けたわけだけれども、シャムの場合は……うーん。
なんか緊張してしまうな。
「それじゃ、私はそろそろお暇するわ」
食事が終わりかけたところで、リリーさんはすぱっと席を立った。
「えっ、先輩も一緒にいてくれるんじゃないんですか」
思わずお茶を吹き出しそうになった。なんてこといいやがる。
「なにいってんの。それはダメ。なんか変態みたいやん」
よかった。リリーさんの中でもそれは無理めの行為らしい。
「はい。これ部屋の鍵」
と、リリーさんは俺のテーブルの横に鍵を置いた。タグにこのホテルのマークがついている。
「じゃあね。優しくしてあげて」
俺の肩に軽く手を置いて、リリーさんは出ていってしまった。
「……それじゃ、俺たちも行くか?」
「あっ……はい」
シャムは緊張しながら頷いた。
◇ ◇ ◇
部屋に入ると……なんだかいきなりベッドに腰掛けるのも生々しい気がして、俺はなんとなく一人掛けのソファのような椅子に座ってしまった。
それは二人が向かい合って座れるよう、小さいテーブルを挟んで向こう側にも同じものが一脚用意されている。
シャムは自然な流れでそこに座ると、
「あの……私、ユーリが嫌なら、無理にとは思いませんから」
と、変なことをいい出した。
「……どういうこと?」
「その、ほら……なんかこんな流れになっちゃいましたけど……そもそも、こういう関係って片方が嫌なら成り立たないわけじゃないですか」
「まあ、そりゃそうだな」
「ユーリが嫌なら、無理に迫るのもおかしいですし……嫌々してほしいとも思わないので……」
なんだかシャムは自分に魅力があるか心配しているようだ。
まあ……リリーさんがずっと隣にいたからな。どう考えてもモテモテで男の視線を集めるリリーさんを横目で見ていたら、自分に性的魅力があるか疑わしくなるのも仕方ないのかもしれない。胸……はちょっと、比較的小さいし。
「俺は嫌々じゃないが、正直、シャムのことは……」
妹っていう表現が最もピッタリ合うんだが、たぶん禁句だから口にせんほうがいいだろう。
「なんていうか、触ってはいけない対象みたいに思ってきた。昔っから、俺に懐いているのにくっついてきたりしなかったし、そういうのが苦手なんだと……」
「ええ? なんでそんなこと」
シャムはびっくり仰天、意外そうな目で俺を見ている。
「嫌じゃないですよ。本当は宿題だって膝の上に乗って受けたいくらいだったけど、そんなのやったら……なんていうか、おばかさんみたいじゃないですか」
おばかさん……。
「もっと甘えたかったけど……それよりも、ユーリに認めてもらいたいと思ってたから……凄いな、賢いな、って言われるほうが嬉しかったし」
うーん、まあ、確かにそうしていた覚えがある。
シャムも、そんなふうに褒めると本当に嬉しそうにしていた。
「途中から、らぶとは方向性が違うなって気づきましたけど、その頃には先輩がらぶらぶだったから……そこからべたべたに甘えたりなんかしたら、なんだか立場を利用して抜け駆けしてるみたいじゃないですか……」
声が段々と涙目になってきている。
シャムが内心でしてきた葛藤が感情に姿を変えて溢れ出しているみたいだ。
「じゃあ、今甘えてみろよ」
「えっ、今……ですか?」
「ほら」
俺は身を乗り出して、シャムの手を取った。
引き寄せるようにすると、シャムはソファを離れて、こっちにやってきた。
「ど、どうすればいいか」
「膝の上に乗ってみたらいい。やってみたかったんだろ」
「は、はい……それじゃ」
シャムは慣れない様子で、いそいそと膝の上に乗った。
普通に座るもんだと思っていたが、なんだかお姫様抱っこみたいな格好になってしまった。
「お、重くないですか?」
「いや、重いわけないだろ」
重いどころか、ちょっと心配になるくらいだ。人間を抱えてる感じがしない。
ちょっと重い猫でも抱えてるような重量感だ。
俺はシャムの背中に腕を回して、体重を支えてやった。
「ああ……いい感じです」
「この数日、気を揉んだだろ。よしよし、よく頑張ったな」
頭の後ろを撫でてやった。
しかし我ながら、甘やかすにしてもよしよしって……どうなの。
「はい……頑張りました。ずっとこうしたかったです」
シャムはすりすりと、頭を胸板に擦り付けた。
「いい匂い……ユーリの匂い、初めて嗅ぎました」
考えてみたら、シャムにこんな風に触れるのは初めてだ。
もう十年以上一緒にいるのに、触れた回数はほんの僅かだった。ハグのように抱きしめたことも、ほんの数回しかない。
あんなに一緒にいて、数え切れないほど横に並んで机に向かったのに……。
「……もっと甘えたいです」
「ああ。好きなだけ甘えろ」
「じゃあ」
シャムは身を乗り出して、顔を俺の首元に埋めた。
自然、抱きしめ合う形になり、俺は背中と頭に手を置いて、甘やかすように撫でた。
シャムはそのまましばらく身動ぎせず、俺の首に腕を回していたが、
「わっ」
突然、シャムの唇が触れていた首筋に、濡れた感触がした。
舐めてきた。
「……だめですか?」
「いや、別にいいけど……」
「それじゃ」
シャムは言葉少なに、ぺろぺろと首筋を舐めていった。
猫のような舌使いで、まるでそこに甘い蜜が塗ってあるかのように、ぺろぺろと執拗に舐め続けた。
そして、満足したのか体を少し離すと、俺の顔を真正面から見た。
カーテンから差す日の光に照らされたシャムの横顔は、興奮して上気した、今まで見たことのない顔だった。
「……ここも、いいですよね?」
「ああ」
そして、シャムとおれは口づけを交わした。







