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第223話 十字軍の戦い* 前編

 6月19日、陥落したミタルの地で、アンジェリカ・サクラメンタは馬を駆って走り回っていた。

 ホット橋の戦いから九日、全軍にぱらぱらと痘瘡が発生しはじめ、急速にその数を増やし、アンジェリカは大司馬エピタフから対処を命じられていたのだった。


 痘瘡は、接触により感染する。

 そのことは常識であったので、折よく陥落したミタルの一地域に、彼らは隔離されることとなった。


 アンジェに命じられたのは、無論彼らを治療せよという命令ではない。

 感染拡大に対処せよ、という内容であった。


 そのため、アンジェは数人の供回りを連れて、特命を帯びた使者として、全軍を駆けずり回っていた。


「おい、クチンというのはお前か」


 アンジェリカは、フリューシャ王国軍のとある陣で、ようやくその男を探し当てた。

 一日中探したので、日が暮れかけていた。


「はい? そうですが」


 クチンはその時、傷の腐った者の腕を切断していた。

 戦場では良く見られる風景であった。


 縛って止血し、縫い、血を通してなお血色が戻らず、腐っていく四肢は切断するしかない。

 そうしなければ、腐れた血が命を奪ってしまう。


 ただ、縫合の仕方は雑で、名医とは思えなかった。


「痘瘡の医者の弟子であったというのは本当か」

「……誰からそれを?」


 クチンは、訝しげにアンジェを見上げた。


「緊急のことなのだ。一緒に来てもらいたい」

「いずこかの姫君かとお見受けしますが、その類いのことは医家にとっては秘中の秘にございます。わたくし、師の元を去る時に誓約書を書かされておりますゆえ、それを話せば破滅してしまいます」


 秘密を漏らせば、多額の違反金が課せられるのだろう。

 医術を生業とする医家が、そのような方法で秘密を守っているのはアンジェも知っていた。


「いずこの医家がその誓約書を作ったのだ。国を申してみよ」

「……教皇領ですが」


 教皇領。

 吹き出してしまいそうになった。


「貴殿の知恵を求めているは、大司馬エピタフ・パラッツォなるぞ。そのような誓約書、幾らでも無効にできる。安心して知恵を貸せ」

「それが本当であれば……して、報奨金はいかほど」

「ここで話してよいのか?」


 周り中に、何ごとかと聞き耳を立てている兵たちがいた。


 ここで金貨何枚などと言えば、この者はもはや一夜も安全には過ごせまい。


「いえ、では、これだけ縫合して――」


 クチンは、針と糸を持って、やりかけだった縫合を済ませた。


 縫われていた男は、舌を噛まぬよう口を布で覆われていたが、拘束を外して怒られるのが怖いのか、クチンはそのままにして自分の荷物らしきものを肩に担いだ。

 手を水で洗うが、服は血まみれであった。


「では、行きましょう」

「うむ。付いてこい」


 馬に乗せたいところだったが、血と油で塗られたような服を着たクチンを愛馬に乗せるのはためらわれた。

 供回りの衆にそれをさせるのさえ抵抗があった。


 従軍医師の服というのは、それほど酷いものだ。

 戦場の男たちは服に血痕などついているのは当たり前だが、従軍医師の場合は、血脂の上に血脂を塗り重ねたような有様になる。


「話が終わったら、従軍する際にしたためた契約も解いていただきたいが、口利きはしていただけるのでしょうな」

「クウェルツ・ウェリンゲン卿に言おう。これから会うのだ。その場で許可を貰えばよい」

「成る程」

「途中で、服を着替えよ。重鎮と会うのだからな」



 *****



 各国軍の長たちが集まったのは、夜中と言ってよい時刻であった。

 アンジェは、服を替えさせたクチンを連れ、その天幕に来ていた。


「この男です」

「クチンと申します。俗界にて生きてきた詰まらぬ者ですゆえ、貴人の方々におきましては、失礼をお目溢しくださいますようお願い致しまする」


 着替えたクチンが奇妙な挨拶をした。

 席は与えられず、立ったままでいる。


「まず、それを」


 エピタフ・パラッツォが、手を挙げた。

 教皇領に仕えているであろう従者が、盆に乗った革袋を持ってきた。

 金貨が入っているのだろう。


「確かめよ。下にあるのは特免状である」


 クチンは、革袋の中の金貨を確認すると、その下にある書状も確かめた。


「クウェルツ・ウェリンゲン卿、彼の者を軍務から解き放ちいただきますよう」

 アンジェが言った。

「解き放つ。これが終わったれば、どこへとも行くがよい」


 予想通り、クウェルツは即座にクチンを軍務から解き放った。

 クチンは、一種の特殊兵種の募兵に応じた医者ということになるが、別に代わりはいくらでもいるし、一人欠けたところでなんの問題があるわけもない。


 クチンがこの場に召喚されたのは、痘瘡の専門医の下で修行をした経験があるからだ。

 といっても、別に痘瘡を治療するための専門医ではない。


 痘瘡を予防するための医者というのがいるのだ。


「エピタフ殿の前で言うのは憚られることかもしれぬが、私は幼少のころ種痘を受けたことがある」


 アンジェは言った。


 痘瘡の感染を防ぐ種痘は、カソリカ派にとってはあまり推奨していない医療行為だ。

 聖典を構成する書物の一つであるヨル記に、神が敬虔な信徒を試す場面があり、ヨルという幸せな信徒がすべての財産を奪われ、皮膚病に冒され、それでも信仰を捨てないという場面がある。


 ヨルは神によってあまりにも酷い仕打ちを受けるわけだが、信仰とは神に何かを求めるものであるのか、つまり信仰とは報酬を求めて祈り、神がそれに応えなければ失われるものであるのか、という問いがなされ、つまりは信仰の本質について議論をする書となっている。


 その話を元にして、カソリカ派は皮膚病は神の試しであるとし、それを予防することは試練からの逃避であるという理屈を並べた。

 確かに、神はヨルに皮膚病を与え、模範的信徒であるヨルはそれから逃げなかった。

 カソリカ派による数々の曲解のなかでは、この文化はまだ理屈が通っているように思われる部類だ。


 とはいえ、それは建前であって、教会は苦い顔をしているだけで、禁止しているわけではない。

 実際は、アンジェも接種したように広く行われている医療であった。

 例えば、公に禁令が発せられている堕胎などと比べれば、それほど眉をひそめられる行為ではない。


 さらにいえば、種痘そのものが邪悪というわけではない。

 エピタフ・パラッツォも、今回は黙認どころか、推奨しようとしている。


 十字軍という神聖行為にあたっては、その進展を妨げる痘瘡を種痘によって治療することで、兵力維持が改善されるのであれば、それをやらないほうが罪である。という理屈であった。

 十字軍に限っては、種痘の接種は悪行とはみなされない。


 痘瘡が神の試しであるなら、これも十字軍への試しになるんじゃないのか、と思ったが、アンジェは口に出してはいない。


「端的に尋ねるが、種痘というのはここにいる誰しもが受けられるものなのか? 例えば、全軍――」


 それがアンジェの一番聞きたいところだった。

 全軍に種痘を施せば、これから感染の拡大を危惧する必要はなくなる。


「無理でございましょう」


 クチンは即座に否定した。


「それは何故だ。種痘に使う膿は痘瘡の患者から作ると聞く」


 原料なら幾らでもある。


「その通りでございます。いえ、無理というのは誤りでございました。時間を掛ければ可能です」

「どれほどの時間が必要なのだ」

「ううむ……その前に、まず、製造工程から知っていただく必要があるかと。少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか?」


 問われたので、アンジェはエピタフに目線を送った。


「構わない。話したまえ」


 許可が出た。


「では……。まず、種痘というのは、確かに痘瘡患者の膿から作ります。ただし、痘瘡患者の膿を他の者の皮膚に移植したところで、その者も痘瘡にかかるだけ……それほどの意味はありませぬ」


 まあ、それはそうだろう。

 そうでなかったら、痘瘡患者の周りのものは皆耐性ができることになってしまい、感染が広がることの説明がつかない。


「ですが、採取した膿に乾燥させるなどの処置を施しますと、病の素となる膿は人を病とする力を少しずつ失うのです。これを我々は膿を磨くと表現いたします。もちろん、最初の磨きとなる患者は痘瘡に普通に罹ったのとほぼ同じ症状を発しまする。それでは種痘の意味がありませぬ」


 そこまで言われたところで、アンジェは半ば興味を失ってしまった。

 後の展開が予想できたからだった。


「膿を七度磨くと、我々が熟苗と呼んでいる種痘用の膿が完成します。ただし、この時点で既に症状はかなり弱くなってしまいまするので、普通の痘瘡患者のように、全身が膿ぶくれだらけになって熟苗を取り放題というわけには参りませぬ。通常、接種した場所に一箇所膿ぶくれができるのみとなります。それを継いでいくわけですから、一人から十人二十人、というわけにはいかぬわけです。おそらく、アンジェリカ姫殿下に植えられた熟苗は、十三回磨きから十五回磨きの間の最上等のものかと思われます。このあたりは医家によってどこを最良にするかに違いがあるらしいのですが、私は未熟者の段階で医家を離れたのでそこまでは存じません。二十回磨き以上の膿は、そのうちに症状が全く現れなくなり、熟れすぎた熟苗は価値を失いまする。そういった熟苗を接種しても、普通に痘瘡に罹ってしまうことがあると聞きます」


 やはり、そういうことか……。


「痘瘡は、移植してより症状が現れるまで十日前後かかります。実際には、七回磨くまで八十日前後と言われておりまして……かなり時間がかかる作業なのでございます」

「つまりは、一度や二度磨くだけでは、普通に痘瘡の症状が現れて、体力を消耗してしまうわけだな」


 アンジェが言った。


「その通り。一回磨きや二回磨きの患者は全身に膿が現れ、かなり苦しむことになります。もちろん、死ぬこともございます。三回から七回磨きの患者は、死ぬことはあまりございませんが、あばた面になる危険はなお高い。七回以上でも、場合によっては全身に症状が現れます。十三回にまでなれば全身の症状はまず現れませぬ。だから最上等なのでございます」


 もちろん、八十日待つなどということはできるはずもない。

 ユーリ・ホウは補給を破壊しようとしている。


 八十日ものんびりとやっていたら、次々と餓死者が発生し、十字軍自体瓦解してしまうだろう。


 それに、八十日後といえば、もう九月になってしまっている。

 なおさら、お話にならない。

 そこから一ヶ月すれば十月であり、シビャクまではまだまだ距離がある。

 間にコツラハという城塞都市が挟まっているのだから、そこまで待てば全軍が極寒の冬の中孤立してしまう事態になりかねない。


 また、伝令を出して種痘の医家を呼びつけるにしても、これも何十日とかかってしまうだろう。

 呼んだところで、説明を聞いた限りでは、五万人以上の兵に与えられる熟苗を持っているなんてことはありえない。


 こちらは兵の体力を温存するために種痘を施そうとしているのだから、七回磨き以下という種痘を施して体力を失わせるわけにもいかない。

 クチンが言っている移植というのは、おそらく栄養を十分に摂っている健康体に施すのが前提であろうから、糧食配布を制限している兵士に与えれば、更に症状が激化することもあるだろう。


「きみは現在、その熟苗というのを持っているのか?」

 エピタフが尋ねた。

「持っておりません。私は、師の元から破門されて十四年となりますし、契約通り一度も種痘には関わってきませなんだ」


 まあ、都合よく持っているわけもない。

 そもそも、そういった仕事をしている専門医は、このように戦争に従軍したりしない。


「成る程。十分に分かりました。行ってよろしい。気をつけて帰りたまえ」


 エピタフがそう言って、退出を許す。


「それでは、失礼いたしまする」


 クチンが深く頭を下げ、天幕から去っていった。


「覚悟を決める必要がありそうですね」


 エピタフが言った。


「この場で手軽に感染を食い止める術があるかと思ってみたものの、そのようなものはないらしい。現在痘瘡に冒されている者をこの地に置き、進軍を急ぎます」


 ここにいる将軍たちは、また為政者でもある。

 全てを誰かに任せている一部の馬鹿者以外は、皆その性質を知っているだろう。

 また、先程クチンが述べもした。


 痘瘡の患者を隔離したところで、それで感染が収まるわけではない。

 病のもとは種のように潜伏して、一週間から二週間後に発芽する。


 なので、村ごと軍で囲って隔離したところで、数日前にその村に訪れた誰かが別のところで発症する。

 感染者をミタルに置き捨てていったところで、行軍中に新たな感染者が出るだろう。


 そこで、アンジェリカは手を上げた。


「アンジェリカ殿下、どうぞ」

「ここにおられる諸将軍に尋ねたいのですが、ホット橋までの道のりで痘瘡が流行している村を通った報告を受けた者はいますか?」


 十秒ほど待ったが、誰も口を開かなかった。


「これは大事なことです。よく考えてください」


 アンジェリカは繰り返してそう述べたが、誰も口を開かなかった。


「どういうことでしょう? 何か考えがおありですか?」


 エピタフが言った。


「痘瘡というのは、通常一人が発症して、周りに徐々に撒き散らす形で発生するものです。ですが、今回軍中で起きた流行は、全軍において同時多発的に発生している。まずこれを覚えておいてください」

「女というのは、話が長くていけない。さっさと結論を述べ給え、アンジェリカ殿」


 アンジェの兄であるアルフレッドが言った。


「構いません。アンジェリカ殿下の指摘はいつも的を射ている。どうぞお話ください」


 エピタフが庇う。

 アンジェにとっては、気味の悪いことだった。


「今日は六月十九日です。痘瘡の接触から発症までは十日前後かかることは皆さんご存知でしょう。つまり、おそらくは川を渡ってからこちらで発生したもの、という推理ができます」

「なるほど」

「結論を申しますと、ユーリ・ホウの罠である可能性を考慮すべきかと。つまり、現在痘瘡を発症している者は、人為的に膿を塗布された家などを使い、また残された食料を口にし、そこから感染した」


 アンジェがそう思ったのは、何故かホット橋付近の村に残されていた食料が気になっていたからだった。


「ホット橋付近の村々には、その全てに食料が残されていました。各家々に少しずつパンがあったという報告を聞いた方もあるかと思います。しかし、小麦粉はなかった。これは、パンにする過程で焼かれるのを嫌ったからではないでしょうか」

「焼かれることで毒性がなくなるのを恐れた、と?」

「そういうことです。ホット橋付近の村々には食料が残されていたのに、このミタルには一つの食料もありません。本当に取り忘れのようなものは僅かに残っているようですが」

「つまり、今回のことは敵側の人為的な作戦だということですか?」

「その通りです」


 アンジェがそう言うと、


「考えられん」


 と、アルフレッドが言った。


「そのようなことをすれば、この都市は数年間使えなくなるではないか。疎開させた住民を戻すのに、全て例の熟苗とやらを接種するのか。どれほどの手間がかかるか分からぬわ」


 愚兄ながら、的を射た指摘であった。


「可能性の話です。皆さんにお伝えしたいのは、もしそうであった場合、このミタルの全戸――今、おそらく三万ほどの兵力が宿営している家の中、その全てに膿が塗ってある可能性もある、ということなのです。もしそうであった場合、十日後から爆発的に感染者が増加するでしょう」


 兵にとっても、吹きさらしの外に張った薄い陣幕の中で寝るよりは、家の中で寝たほうがいいに決まっているので、一部の兵力はミタルの中に入り、家の中で休んでいる。


「ユーリ・ホウがシビャク近郊まで焦土化を進めていた場合、どう急いでも十日では間に合いません」

「ならば、行軍を急ぐ必要がありますね」

「あるいは、ここで十日間様子を見、感染者が現れるようであったら……後日、再度挑む、という選択肢も」


 アンジェにとって、それを言うのは勇気がいることだった。

 今回は縁がなかったということで、十字軍を解散しろということであり、言うまでもなくエピタフにとっては重い決断になる。

 莫大な金額をかけた十字軍を、ほとんど戦いすらしないうちに、略奪による収穫もないまま解散し逃げ帰るのだから、場合によってはエピタフほどの背景を持つ者であっても破滅を意味する決断になるかもしれない。

 こういった決断は、ここにいる当事者の者たちにとっては英断だと理解できても、なにも知らぬ部外者には理解されないものだ。


「それは、ありえません」


 エピタフは断言した。


「明日、感染者を切り離して進軍を開始します。これが神の試練であれば、辛苦の先には光輝ある恵みが待っているでしょう」


 ヨル記でのヨルは、神による試練においても信仰を貫き通した結果、以前に勝る財産を与えられた。


 考えてみれば、エピタフが進軍を止めるわけがなかった。

 アンジェは、忘れかけていたエピタフの狂気を思い出していた。


「全速での進軍をこの会議の決定事項とします。出立は明朝八時。各自、間に合うよう通達を怠らぬように。それでは、解散」

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