シビャクの戦い
シビャクの戦いは、畏歴2020年7月15日、シビャク北方で発生した十字軍とシヤルタ王国軍との会戦である。[注釈1]
シビャク近郊で行われた戦いとしては最も有名な戦い。
>背景
2018年の第十五次十字軍の派遣にて頭角を表したユーリ・ホウの台頭に、危惧を顕にしたエピタフ・パラッツォは、シヤルタ王国の内部崩壊を狙い 黒い雨の事件[リンク] を引き起こした。
このクーデター事件により、シヤルタ王国内に魔女主導によるカーリャ政権が成立したが、暗殺を逃れたユーリ・ホウの迅速な行動により、カーリャ政権はすみやかに打倒された。
その後、ユーリ・ホウは国内の脆弱な将家を打ち倒し、5月11日のオレガノ陥落[シャン語版]をもって国内を平定し、十字軍に挑むべく戦力の再編に着手した。
だが、吸収した兵力の大部分は士気に乏しく、訓練不足な弱兵であり、ユーリ・ホウに与えられた時間は少なかった。
十字軍は当初、クーデターが成功した王都シビャクへの直接上陸を意図していたが、暗殺の失敗とユーリ・ホウによるシビャク攻略によって実現不可能となり、2020年6月10日、ホット橋の戦い[シャン語版]が引き起こされた。
ユーリ・ホウは国境での戦いを選ばず、焦土作戦を実施し、王鷲爆撃兵によって補給を破壊しつつ十字軍を国内深くまで引き込み、王都シビャクにて決戦に挑んだ。
>両軍
シヤルタ国軍 63,201人[1]
歩兵 52,349人(銃配備数:1392丁)
騎兵 10,852人
十字軍 約90,000~100,000人[注釈2]
歩兵 約80,000~90,000人[注釈3](銃配備数:35,000丁以上[2])
騎兵 約7,100人[注釈4]
>作戦・布陣
布陣図
・戦場
合戦は現在のシビャク北部の荒野で行われた。
当時、シビャク北部は住民の薪需要を満たすため広い範囲で伐採されており、平坦な荒野が広がっていた。
・シヤルタ国軍の作戦と布陣
ユーリ・ホウの作戦は、中央に敵軍の目を引きつけておきながらの右翼迂回であった。
そのため、布陣中央部をわざと薄くし、そこに戦闘馬車とホウ家精鋭部隊を置き、薄いながらも最も強固な防御力を持たせた。
ユーリ・ホウがそれをした意図は、敵軍に中央突破を図らせ、敵戦力を集中させるためであり、戦力に不安のある右翼及び左翼への攻撃を手薄くする狙いがあった。
騎兵部隊の主力と思わせるため、左翼にはルベ家の騎兵隊を置き、右翼にはソイム・ハオの独立軽騎兵隊を置いた。
ソイム・ハオの独立軽騎兵隊は数は400騎程度の小勢であり、本隊となる7,300騎の騎兵はシビャク都市内に隠していた。
・十字軍の作戦と布陣
中央突破を図りながらも、騎兵戦力での左翼(シヤルタ王国側の右翼)からの迂回攻撃を意図していた。
右翼(シヤルタ王国側の左翼)にある敵騎兵大戦力(ルベ家騎兵)の攻撃を防御するため、右翼に対騎兵戦闘に慣れたガリラヤ連合軍を置き、更に1,000騎の騎兵を配備することで対処しようとした。
シヤルタ王国側の航空偵察に対抗するため、主力の合同騎兵団は後方に位置する森の中に隠され、その全容と兵数を把握されないよう配慮されていた。
>緒戦
前日にシビャク近郊へと到着していた十字軍戦力は、翌日全ての糧食を吐き出し、全軍に食事を摂らせると、シビャク近郊に偵察を出し、シヤルタ王国軍の陣容を観察し、会議をした。
この会議の議事録は伝わっていないが、この会議に参加した何人かの諸侯が手記を残しており、それによってこの時の十字軍の意図が伺い知れる。
十字軍は中央突破を意図しつつも、アンジェリカ・サクラメンタを中心とした幾らかの人間は、それに反対していた。
中央を意図的に薄くしているのには、当然なんらかの意図があると考えられたからだった。
つまりは、中央突破を狙うことはユーリ・ホウの策略に自ら飛び込むことを意味するという反対意見があった。
当時、十字軍は疫病(天然痘)の発生と補給破壊により、体力的に弱体化しており、銃器は先込め式の滑腔銃のみを使用していた。
先込め式の滑腔銃は連射速度に難があり、そこから発せられる弾丸と大音量は、敵軍を脅し、士気をくじくことが出来たが、銃撃のみによって敵陣を突破することは不可能であり、最終的には突撃による白兵戦が必要であった。
それを考えると、大軍対寡兵の戦いであっても、体力の衰えた大軍に精鋭であろう寡兵と切り結び、突破する力が存在しているかは不安があった。
また、敵陣には用途不明の馬車部隊が見えており、これもユーリ・ホウの罠であるという危惧を深めた。
会議では、騎兵を中央突破に使用するか、迂回しての突撃に使用するかが焦点となり、結局は馬車部隊の存在が決定打となり、迂回攻撃に使用することが決まった。
アンジェリカ・サクラメンタ他幾らかの将校の努力により、騎兵だけは厳重に隔離され、良好な戦力を保っていたのであった。
ただし、中央突破を完全に諦めたわけではなく、中央突破派の論者であったアルフレッド・サクラメンタは中央を攻めることを強く主張し、最も良好な歩兵戦力を有していたティレルメ神帝国軍は中央を担当した。
>戦闘馬車
10:30頃、最初に火蓋を切ったのは、ジーノ・トガ率いる戦闘馬車隊であった。
この馬車は、ユーリ・ホウ発案のものであったとされ、制作はホウ社が担当し、当時ホウ社の技術部部長であったリリー・アミアンが監督・制作をした。
現存している五台の戦闘馬車にはいずれも激しい弾痕があるが、装甲を突き抜けたものが一つもないことから、当時のホウ社が有していた技術力をうかがい知ることができる。
・銃眼
この戦闘馬車には上下左右前後に銃眼となるスリットが設けられていた。
現在に残るリリー・アミアンの制作資料からは、当時世界の擲弾兵が用いる手榴弾を調査し、スリットの幅はそのどれもが入らぬ広さに調整されていたことが伺い知れ、擲弾兵による炸裂弾の投げ込みを阻止する試みが成されていた。
・換気扇
当時の黒色火薬は発射の際大量の白煙が生じるため、戦闘馬車には換気のためのプロペラが取り付けられていた。
動力は手動であり、空力的に優れた木製五枚羽のプロペラは、革のベルトで手動のハンドルと繋がれ、一種の変速機となっていた。
ハンドル一回転につきプロペラは十九回転するようになっており、これはボールベアリングが使用された最初の製品とされている。
換気用のプロペラは右側前方の天井にあり、これは多人数により押し倒された場合を考慮していた。[注釈5]
・実用
内部に設置されたあらゆる備品は押し倒された場合を考慮して制作されていた。
この戦闘馬車は、一度閉じ込められると内側からは開けることができないようになっており、乗員は敵地のただなかに取り残された場合、逃げることも出来ず、死なないために戦い続けるしかなかった。
そのため、戦後には乗員から非人道的兵器であるとの非難がなされている。[要出典]
天井と床は十分な厚みを有した木材で補強されており、斧でも容易に壊せないようになっていた。
戦闘馬車の装甲は左側面と後部に施してあり、実際の戦闘では敵陣に後ろを見せる形で斜め四十五度に停車して使用した。
斜めとなることで、避弾経始の効果を期待でき、また四角形の対角線で自陣を庇うことができ、防弾面積を平均25%ほど増やすことができた。
この戦闘馬車は防御兵器として有用に働き、アルフレッド・サクラメンタ率いるティレルメ神帝国軍は、その攻略に苦慮した。
ティレルメ精鋭兵が投入され、部分的に押された場所では、敵中に飲まれながらも島のように抵抗を続ける防御拠点となり、馬車を押し倒されようが槍を突きこまれようが、ひたすらに発砲を続けた。
そのため、乗員からは「もう乗りたくない」「敵の軍勢に飲み込まれた時は、地獄の窯の中に入れられたような思いがした」「換気扇を銃撃で壊されたあとは、煙が凄くて燻製になるかと思った」といった苦情が寄せられた。[議論]
>左翼の戦い
左翼においては、ルベ家軍が押していた。
ルベ家軍は、こちらも迂回攻撃を意図して騎兵を突撃させていたが、あらかじめ見えていた騎兵に対処するため布陣していたガリラヤ連合軍がそれに対抗し、迂回突撃は阻止された。
ルベ家軍の正面にあったペニンスラ王国軍は、十字軍側の戦列において最も弱体な集団であった。
参加した4,000の実態は、その殆どが頭数を揃えるだけに寄せ集めた傭兵部隊であり、訓練をまったくしていない農民が多数含まれていた。
苛烈な行軍により、戦端が開かれた時には既に士気崩壊の状態にあり、ルベ家歩兵軍の攻撃が始まると、あっという間に崩壊寸前にまで陥った。
予備隊として展開していた教皇領軍が急遽投入され、左翼崩壊の危機を救った。
>右翼での戦い
ユーリ・ホウの作戦は、単純なもので、右翼に潜ませた騎兵で敵陣を迂回し背後を衝くというものであった。
真ん中に弱点(と見える部分)を作ったのは、そこに敵を引きつけ、あるいは中央突破を誘発し、右翼と左翼の負担を減らすのが目的にすぎなかった。
ティレルメ神帝国が戦闘馬車とホウ家精鋭部隊を攻めあぐねている間に、右翼ではフリューシャ王国のクウェルツ・ウェリンゲン率いる十字軍主力騎兵6,100が突撃を敢行していた。
彼らはまず、シヤルタ王国軍右翼に存在していたソイム・ハオの独立軽騎兵隊を排除しようと、攻撃を仕掛けた。
しかし、歴戦の老将ソイム・ハオは、その突撃を回避し、速力に勝る駆鳥兵の足を生かして正面からの衝突を避け、細かな攻撃を加えながら、戦場を離れるように彼らを南東へと誘引していった。
>「勝敗の帰趨はこの一撃にあり。総員突撃せよ」[議論]
独立軽騎兵隊の誘引作戦によって、十字軍左翼には機動戦力が欠如した。
ユーリ・ホウはシビャク都市中に潜ませていたホウ家騎兵及びドーン騎兵団、つまり主力騎兵戦力に攻撃の号令を出し、「勝敗の帰趨はこの一撃にあり。総員突撃せよ」と付け加えた。[注釈6]
主力騎兵戦力は十字軍左翼を大迂回し、中央にあるティレルメ神帝国の背後を強襲した。
中央を担当するティレルメ神帝国はあっという間に総崩れとなり、戦闘していたディミトリ・ダズ率いるホウ家精鋭部隊は、その機に乗じて猛烈な突撃を開始した。
中央戦列の崩壊を支えるべく用意されていた予備隊も突撃に加わり、12:20頃、十字軍部隊の中央戦列は完全に突破され、十字軍全戦列は総崩れとなった。
>損害
シヤルタ王国軍
戦死2,002人[3]
負傷4,193人
十字軍
死傷者35,000~40,000人[注釈7]
捕虜52,952人[4]
>戦後・評価
シビャクの戦いでの十字軍の敗因はどこにあったのか、という議論は、戦後多くなされた。
騎兵を、側面でなく中央に投入していたら、シヤルタ王国軍の中央を突破できていたのではないか、というのは、幾度となく議論されてきた”もし”である。
戦闘馬車の運用では、馬車に鎖が装備され、これは適切な長さで隣の馬車と連結できるようになっていた。
この効果をもって重騎兵隊の突撃衝力は無効化されたであろうとし、防御できていたと論ずる戦史家は多い。
ティレルメ神帝国軍側の資料では、この戦いに18,000丁以上の滑腔銃を用意したとあり、このときジーノ・トガ率いるシヤルタ王国側の中央戦列には1,112丁の滑腔銃しかなく、火力の差は単純に言って十倍以上あった。
だが、ディミトリ・ダズが率いるホウ家精鋭部隊の損害は、たった592名に過ぎず、93名の戦闘馬車乗員の損害を含めても、十分に余力のある状態であった。
そのことから、中央戦列の戦いでは、戦闘馬車が非常に有効に働き、十倍以上の火力、そして三倍以上の兵力差をもってして行われた突撃を受けても、戦闘馬車とホウ家精鋭部隊はなお余力を残していたことが伺い知れる。
考察には限界があるにしろ、十字軍主力騎兵の兵力を持って突撃していたらば、確実に突破できていただろう、と断言するのは、やはり誤りであろう。
では、ソイム・ハオの独立軽騎兵隊に誘引されてしまった、十字軍主力の合同騎兵団の責はどうだったのだろう。
戦後には、致命的な誤断を下したクウェルツ・ウェリンゲンの責任が大とされ、ユーリ・ホウの台頭を許した根源として、長きに渡って非難され続けた。[5]
捕虜となった本人は、七年後、失意のうちに自殺している。
だが、クウェルツ・ウェリンゲン自身は、第十四次十字軍に従軍し、第十五次十字軍においてはヘルベラの会戦[リンク]において華々しい活躍をあげた、優秀な軍人であった。
クウェルツ・ウェリンゲンが、もしソイム・ハオの独立軽騎兵隊を無視し、シヤルタ王国軍の後背に突撃を敢行していたらどうだったのだろう。
現在残されている当時の書簡には、その判断が成されていればシヤルタ王国軍は瓦解していただろうとし、クウェルツ・ウェリンゲンにいわば責任を押し付けようとするものが多い。[6]
しかし、これは都市内に隠されていた主力騎兵団の存在を無視している。
ユーリ・ホウの計画では、そうされた場合は、ただちに主力騎兵団が発進し、これを撃滅するという手筈になっていた。[7]
シヤルタ王国軍の主力騎兵団を追うことができなかったのは、あまりに距離が離れていたのもあるが、全身に板金鎧で鎧った十字軍側騎士の突撃に、馬が疲れてしまっていたのが大きな理由であった。
その原因の一つになったのは、後方に位置する森の中から出撃するという案のせいであるが、これを決めたのはクウェルツ・ウェリンゲン個人ではない。
十字軍の合議の場で決められた事項であった。
また、ソイム・ハオの軽騎兵隊は板金鎧の重騎兵を攻撃するために、特注の槍を装備しており、彼らを無視すれば、速度に勝る軽快なカケドリを生かし、突撃するまで延々と追尾され、攻撃を受けていたことは想像に難くない。
当然、陣列は乱れ、一糸乱れぬ突撃など敢行できなかったものと思われる。
ただ、全ての責任があるわけではないにしろ、ソイム・ハオの軽騎兵を深く追い、馬の脚を泥濘に沈んだように鈍くしてしまったクウェルツ・ウェリンゲンの指揮が、誤りであったことに間違いはない。[議論]
十字軍が採るべき最適解はなんだったのかという議論であれば、主力の合同騎兵団を最も薄い中央戦列ではなく、左翼に展開するティグリス・ハモンの軍に突撃させることであった、ということになる。
ティグリス・ハモン率いる軍は、その殆どがノザ家の兵力を吸収する形で出来ており、ホウ家流の猛訓練を受けた期間も一ヶ月程度であり、全戦列の中でもっとも弱体な部分であった。
ただし、それを決戦の前に見極めるのは難しく、同じ理屈でいえば、ルベ家は十字軍右翼を迂回するのではなく、ペニンスラ王国に騎兵を差し向け、ここを突破するべきであったということになるだろう。[独自研究]
>天然痘の利用
第十六次十字軍における天然痘の蔓延は、ユーリ・ホウによる生物戦の結果であったという説がある。
ただし、ユーリ・ホウ及びシヤルタ王国が公式にその作戦を認めたことはなく、確たる証拠はない。
この言説の根拠は、シヤルタ王国軍が戦闘に先駆け、全将兵に当時シヤルタ王国のみで知られていた牛痘による種痘接種を行っていたという事実にある。
どちらにせよ、当時世界においては生物兵器の使用を禁じる国際条約などは存在せず、攻城戦においてはどの国も感染の蔓延を狙って投石機で疫病患者の死体などを投げ込む戦術を行っており、疫病拡大を狙った原始的な生物戦は一般的なものであったと言える。
>注釈
1.^他に、オルソー家とシヤルタ王家が戦ったシビャクの戦い(1425年)[シャン語版]、ムーラン家とシヤルタ王家が戦ったシビャクの戦い(1818年)、カーリャ政権とホウ家が戦ったシビャクの戦い(2020年)などがある。
2.^十字軍の総兵力は資料によって異なる。シビャクの戦い以前に天然痘での病死や餓死で死亡した者が多いためである。
3.^歩兵の総数には諸説ある。
シビャク北方荒野の戦い,p.296 80,000
第十六次十字軍総覧,p.952 90,000
4.^騎兵の総数については、戦闘前に調査したというアンジェリカ・サクラメンタの記述が最も正確である。
5.^馬車が押し倒された場合、排気口は右下壁際に来るため、排気を続行できる。
6.^小説家ピニャ・コラータによる後年の創作という可能性が濃厚である。
7.^死傷者の総数には諸説ある。戦場を脱出した後森に消えた行方不明者がかなりおり、中には白狼半島の山岳地の中に入り、一生を原始的狩猟生活で終えた者もいた。生活痕跡が発見されている。シビャク北方荒野の戦い,p.300
>出典
1.^シヤルタ王国戦史叢書1,p.92
2.^シビャク半島戦争,p.289
3.^シヤルタ王国戦史叢書1,p.239
4.^シヤルタ王国戦史叢書1,p.662
5.^クウェルツ・ウェリンゲン,p.113
6.^クウェルツ・ウェリンゲン,p.433
7.^シヤルタ王国戦史叢書1,p.773
>参考文献
シヤルタ王国戦史叢書1 シヤルタ王国戦史編さん室編 ホウ社出版部刊
戦争史2 ノウェル・ウィチタ著
シビャク北方荒野の戦い ドレッド・ストーン著
第十六次十字軍総覧 ペッツエ社戦史編さん室編
クウェルツ・ウェリンゲン ドレッド・ストーン著