第209話 アルティマでの一日*
アンジェリカ・サクラメンタは、その日、アルティマの城内で十字軍の連絡書を読んでいた。
「総勢十五万?」
アンジェは、思わず吹き出しそうになってしまった。
「幾らなんでも、盛りすぎだろう」
軍の人数を偽って発表するのは、いつの時代でも行われることだ。
少ないよりは多いほうがいいに決まっているので、常に多く偽られる。
敵勢は五万である。我軍も五万である。と発表するよりは、我軍は九万いるので有利だ。と吹聴するほうが、兵の意識は変わってくる。
別に、数を盛ったところで損をするわけでも、金がかかるわけでもないので、お手軽な士気向上手段というわけだった。
ただ、さすがに百名しかいないところで「我が軍の総数は一万名である」と吹聴しても、誰も信じない。
かえって顰蹙を買うので、最大限盛っても二倍、通常は二~三割程度にとどめておくのが良心というものだった。
十五万となると、十字軍が七万とすれば、二倍を超えてしまう。
「それはどうですかな。最後ということで、各国やる気になっているのかもしれませぬ」
ギュスターヴが言った。
「そうかもな。ただ、十五万はあるまい」
十五万といえば、各国としてもかなりの負担になってしまう。
アルフレッドと教皇領は大乗り気なわけで、小さい十字軍にはならないだろうが、それにしても多すぎる。
「十五万はありますまい。ですが、十万は超えるかもしれませぬ」
「そうか? だが、奴隷の需要は落ちてきている。旨味は少ないぞ」
「そうでしょうか。これから十年経っても、二十年経っても、もう十字軍はないのです。それを考えれば、これから確実に値上がりする物件といえます」
まあ、確かに。
「それに、長耳の国がなくなるのですから、これからは繁殖の需要もございます」
「……胸が悪くなるな」
長耳人は、普通の人間とは繁殖できない。
長耳を繁殖させようという試みは、何度か行われたことがあるが、その度に失敗している。
仕組みは良くは分からないが、娼館で働かせている長耳に男性の長耳をあてがい、交配させるという方法では、妊娠することがないらしい。
妊娠させるためには、普通の人間とは一切性交しない期間を作り、長期間、長耳とだけ性交させ続けなければならない。
つまりは、数年に渡る長期間、普通の労働はさせられるにしろ、性産業には従事させられない期間が続き、その結果産まれるのは女とは限らない、ということになる。
それは商売としては非常に非効率的で、娼館や奴隷商にとっては、とても気の長い投資となる。
そこまでしなくても、十字軍のたびに奴隷は新たに流通するので、これまではそのような試みをする者はいなかった。
だが、これからは話が違ってくるのかもしれない。
長耳奴隷の流通が停止すれば、当然価値は上がってゆくだろう。
交配相手を選択すれば、容姿に優れた者をある程度意図的に作り出すこともできる。
五十年、六十年の間隔で考えれば、その”気の長い投資”を制した者が、莫大な財貨を稼ぐことになる可能性もある。
「アンジェ様は、この戦争に乗り気でないのですか?」
「ううん……そういうわけではないのだが」
「ご気分を害されるかもしれませぬが、ここで機に乗じて財貨を稼ぐことこそ、覇道への第一歩かと。これほどの勝ち戦は、この先にはありませぬ」
「まぁ、そうだな……」
常識で考えれば、その通りではあった。
「アンジェ様のご心配は理解できます。たしかに、戦とは何が起こるか分からぬもの。しかし――」
「分かっている」
アンジェは、厭わしげにぱたぱたと手を振った。
「十万も居れば、戦力差は二倍にもなる。その上、相手は弱兵と見てよい。堅固な要塞もないから、思いもよらぬ遅延に煩わされる可能性もない。心配のしすぎだと言いたいのだろ」
「心配のしすぎということはございません。油断はせず、準備はもちろん十全に行うべきです。ただ、有利であるのに弱気になる必要はないかと」
まったくの正論だった。
「分かっている。しかし、向こうがどんな情勢にあるのか全く掴めぬのだ。確実らしいのは、軍量で勝るという一点だけで、その他は全て不明瞭ときた。相手の王が今誰なのかすら分からぬのだぞ」
アンジェには、それが猛烈な不安要素であるように感じられる。
ユーフォス連邦や教皇領は何か掴んでいるのかもしれないが、ここ一ヶ月ほどユーフォス連邦に赴いていないので、情報が遅れていた。
「過去の十字軍でも、そういうことは沢山ありました。しかし、軍量で潰してまいりました。軍で敵に倍するというのは、よほどの要素です。大抵の策を蹴り飛ばしてしまいます」
ギュスターヴはグウの音も出ない正論を言った。
「……むう。まあ、確かにな……」
「……また出過ぎた口を利いてしまいましたな。アンジェ様は、アンジェ様の御心にお従いくだされ」
「分かっている」
とはいえ、どうしたものか。
「行かぬという選択肢はありえぬ」
それは弱気にすぎる。
「ならば、兵糧を確保してゆこう。特に保存食を。この間のようなことになっても、耐えられるようにな」
エピタフ率いる挺身騎士団との逃避行では、餓死者が出かけるほどの飢餓に見舞われた。
あそこでヘラジカの群れに出会わなかったら、その時鉄砲がなかったら、弾が残っていなかったら、帰ることは出来なかったかもしれない。
三頭のヘラジカの血と肉が、兵とアンジェを救ってくれたのだった。
後にも先にも、あの時ほど肉を美味いと感じたことはない。
「それは良い考えかと」
「道も、今まで以上に良く調べておこう。退路の確保は重要だ」
「それも良い考えかと」
ギュスターヴは同じような台詞を繰り返し、アンジェのデスクの前に立っているだけだった。
目から鱗が落ちるような作戦を与えてくれるわけではない。
それは、アンジェが考えるべきことだった。
ただ、アンジェとて、泉に水が湧くように策謀が湧き出してくるわけではない。
金もない。地道な努力のようなものは思いつくが、状況を劇的に改善しうる方法は思いつかなかった。
「ふぅ……もうよい。行け」
「ハッ!」
ギュスターヴは、敬礼をして出ていった。
*****
ギュスターヴが出ていってからしばらくし、コンコンとドアがノックされた。
「入れ」
アンジェが言うと、ドアが開かれ、城で秘書業務をしている女性が顔を出した。
「アンジェ様、教皇領督戦隊を名乗る者が面会を希望しておりますが」
「……なに? 通せ」
「かしこまりました」
パタンとドアが閉じられる。
またしばらくし、ドアをノックされた。
「入れ」
「お連れしました」
まずは兵がドアを開けて中に入り、続いて司祭平服を着た男が入ってきた。
アルティマの教会にもいるが、全身に真っ黒な服を着ている。
前にボタンのない筒のような円套を着ており、詰められた襟の上から首飾りをしている。
その首飾りが特徴的で、ひし形をした紺色の布地に、銀糸によって縁飾りと十字架が刺繍されている。
かなり大きな物なので、遠くからでも一目で分かる。
督戦隊のアミュレットだ。
「ご機嫌麗しゅう、アンジェリカ殿下」
督戦隊の男が、立ったまま頭を下げた。
督戦隊とは、その名の通り戦を督する役目を帯びた隊のことで、教皇領に昔からある。
歴史を紐解けば、昔は合戦において陣の背後に立ち、逃亡者を槌で殴り殺すことで陣の決壊を防ぐ役目を帯びた隊であったらしいが、現在は名ばかりが残った別の存在となっている。
隊というのも名だけで、武器を持って戦う武僧ではない。
現在の彼らは、各国に出張して、十字軍の進行を管理するのが仕事だ。
各国で王と接見し、今回の出兵は何万人ですね、と軍の人数を確認する。
そして、移動にこれくらいかかるので、何日までに出発してください、といった内容を助言し、教皇領に鳩を飛ばし連絡を取る。
順路なども指定し、予め兵糧を置き、大軍の経路が噛み合わないようにする。
そういった業務があることで、規定の期日に全軍が集合することができるわけだ。
また、王と相談して決めた人数が実際に出兵したのか確かめることも、彼らの重要な任務の一つだ。
例えば、とある国が五万人出すと約束したところ、一万人しか出さず、残りを本土に温存していたら、その隣国は本土を侵犯される脅威を抱えることになってしまう。
当然、十字軍どころの話ではなくなる。
彼らがきちんと人数をかぞえ、大規模な詐称が行われていないか確認することで、王たちは安心して十字軍に挑むことができる。
グチグチと口を出してくるので厄介者扱いはされるが、居てもらわないと困る存在でもあるわけだ。
そして、通常はこんなところに来ることのない存在でもある。
「いかがなされたか?」
アンジェは常に暗殺の危険に晒されているため、外部の者と会う時は部屋に二人きりにはならないし、その者を先に入らせることもない。
兵は、そのままアンジェの机の脇に立った。
「本日は、アンジェリカ殿下にお話したいことがあり、参りました」
「お聞きしましょう」
「出発の予定日は、アルフレッド陛下から聞いておられますでしょうか。アンジェリカ殿下が軍を出すのであれば、三週間後には出さねば間に合いません」
「なにっ――!?」
思わず、立ち上がりかけた。
寝耳に水であった。
「やはり……。サクラメンタの兄妹仲には困ったものですな」
アンジェは、すぐに事情を察した。
大方、ギリギリの期日に伝え、準備不足のうちに出発させるつもりだったのだろう。
三日前に問い合わせても、未だ出発日は未定との返答が来ていたのだから、これは意図的なこととしか思われない。
姑息なことだ。
「ペニンスラ王国などは、とっくに軍勢を出発させております。国境への到着予定日は、六月十日……」
「……ううむ」
三週間後に出発の行程では、かなりギリギリだ。
「エピタフ・パラッツォ猊下は、貴殿の能力を格別に評価しておいでです」
やはり、エピタフの差し金か。
褒められても、全く嬉しくなかった。
「その信仰心には、疑うべき部分が大いにあると仰っておいででしたが……それは他の王とて同じこと。兄妹の不仲ゆえに貴殿の軍力が削がれることを、猊下は良しとしておりません」
「それゆえ、こうして伝えに来られた、と」
「その通り。ご存知の通り、本来、私ども督戦隊は諸侯には会うことは致しません」
督戦隊は、基本的には王に接するのみで、アンジェのような末端の諸侯のところには来ないのが通例だ。
諸侯とは、王と主従契約を結んだ者たちであり、上位にはあくまで王が君臨する。
その頭越しに、教皇領の手の者が諸侯と接触を図り、こうして情報を与えたり、指示をしたりされると、大抵の王はたまらなく不快に感じる。
アンジェの場合は、既に暗殺者を送られるほど嫌われており、いまさら不快に思われようが関係がないので構いはしないが、普通の諸侯であったら追い返すのも失礼だし会うのも問題があるしで、困惑してしまうかもしれない。
「そこを曲げ、こうして貴殿に情報を提供したのは、猊下の期待の表れと思っていただきたい」
「ふむ……それには感謝を述べておこう。といっても、代償を求められても困るがな」
貸しを作ったなどとは思われたくない。
あの男の場合、なにを要求されるか想像もつかない。
「代償など求めませぬ。猊下は、ただ戦力の増強を期待しております」
「なぜそこまで? 十五万……ふふ、それだけの戦力であれば十分ではないですか」
思い出しても、中々に馬鹿馬鹿しい。
こうしてアンジェと会っていることが露見すれば、この男はアルフレッドから怒りを向けられるだろう。
それを押してまで戦力の増強を図るというのは、少し解せない話であった。
「ユーリ・ホウが生きているからです」
督戦隊の男は、またも思いがけぬ事を言った。
「なっ……それは、シヤルタ国内に潜入していた間者からの情報ですか?」
教皇領は、シヤルタ王国の亡命者の一人を間者に仕立て上げることに成功したが、例の策謀の結果、潰されたと聞く。
人種間の壁の問題があり、国境も固められて国交がないので、シヤルタ王国内に間者を潜入させるのは非常に難易度が高い。
「いいえ、アルビオ共和国からの情報です。船員が口を滑らせたというか……複数の船員が口を揃えているので、生きているのは確実です。王都も、既にユーリ・ホウの支配下にあるようです」
最新の情報であるらしい。
アンジェは、ここ一ヶ月ほど、出発予定日の連絡をやきもきしながら待っていたので、情報収集をできないでいた。
「成る程。やはり、只者ではなかったわけですね」
「猊下は、この情報を聞いて顔色を変えたそうです。万全に万全を期し、確実を求めよと……。そのために、私がここに参りました」
「しかし、過剰な期待をされても困ります。我が軍勢は千名に満たぬほどしかおりません。これでは、大勢を変えるほどの働きは、なにも……」
「そのために、些少ながら金を持ってまいりました。……軍資金の足しにして頂きたい」
……一体、何のつもりだろうか。
「ちなみに、お幾らほど」
「クシャペニ金貨で、五千枚」
クシャペニ金貨は、現在ティレルメ神帝国で流通している主要な金貨だ。
他の国の金貨と比べると小ぶりで、その上六年前にアルフレッドが改鋳をし、金含有量を九割から六割に下げた。
そのため、一枚の価値はそれほどでもない。
それでも、五千枚といえば、アンジェの封土の年間予算の二倍に当たる金額であった。
予算の全てを軍備に使えるわけではないので、相当な大金といえる。
「それは……受け取りかねます」
アンジェは、悩んだ末そう言った。
喉から手が出るほど欲しいが、借りを作る相手がエピタフとなると、嫌な予感しかしなかった。
「重ねて申し上げますが、恩に着せるつもりはないのです。猊下は、アンジェリカ殿下を見込んで、資金の提供をすれば戦力の増強になると睨んでいるだけのこと……したがって、受取証のたぐいも必要ありません」
受取証を作らないということは、つまりはアンジェが金を受け取った証拠がないということになる。
通常の融資や取引では、ありえない事であった。
それを先方から言い出すということは、受け取っておいて、しらばっくれて貰っても構わない、ということになる。
「つまりは……そうですな。それでは、城の前に勝手に置いていく事としましょう。アンジェリカ殿下は、それを拾ったことになさればよい」
やはり、そういうことであるらしい。
「そういうことならば……ただし、本当に恩義には感じませんよ」
「教皇領にとっては、さほどの大金ではございません。この程度で恩着せがましいことを言えば、それこそ教皇領が名折れというもの」
教皇領は、領土自体が十分に豊かだが、その上各地の教会を使い、イイスス教圏全体から百分の七税を徴収している。
実際は、徴税する権利を各地の領主に貸与し、代金として金銭を受け取る仕組みになっているが、同じことだ。
アンジェは自分の足でワインを売り込んで、地道に歳入を増やしているというのに、羨ましい話であった。
「では、勝手に置いて行ってくださるのであれば、役に立てるとしましょう」
そこまで言うのなら、貰わない理由がなかった。
実際、恩に着るつもりはないし、受取証や受領証がないのであれば、受け取ったという証拠も残らない。
「ただし、一つだけ条件が」
条件。
「条件があるのなら――」
「いえ、言うまでもない事項を確認させていただくだけでございます」
なんだろう。
「金貨は、畑を増やすだとか、この城を直すだとかではなく、軍を増強するために使っていただきたい」
聞いてみれば、なんだそれはという内容だった。
とはいえ、まあ、それは心配するのも当然であろう。
城は古く、手直ししたい部分が多くあるのも確かだ。
言われていなかったら、半分くらいは使ってしまっていたかも知れない。
「それは当然。書面にはできかねるが、約束いたしましょう。貴方がたも、そのために提供なさるわけですからね」
「ご理解が早く助かります。それでは、用件はこれで終わりなのですが……」
「ユーリ・ホウがどれだけの立場にいるのかお聞きしたいが、先程お聞きした以上の情報は掴んでおいでなのですか」
アンジェは、期待せずに尋ねた。
「いえ、所詮は船乗りの飲み話ですから、それ以上詳しい話は……」
「分かりました。では、私からも話はございません。情報提供、ありがとうございました」
アンジェは、心底から借りを作るのが嫌だったので、金銭の授受は存在自体なかったことにすることを強調した。
督戦隊の男は、それを察したのだろう。ニヤリと口元で笑みを作り、
「それでは、失礼致します」
と言い、部屋から出ていった。







