第175話 ソイムの花道*
ソイム・ハオはシビャク邸を脱したのち、たった一人で殿軍を務めていた。
後ろに気を配りながら、守るべき主力が見えるか見えざるかという位置で歩を進める。
もし間に敵軍が現れても、挟み撃ちにできるだろう。
王都の南の際には、障害物が敷かれていたようだ。
ソイムが加勢する間もなく鎧袖一触に蹴散らされたので、ソイムは遥か後方に待機したままだった。
あっという間に障害物がどかされ、馬車は進んでゆく。
馬車が止まっていた時間は、十分にも満たなかったのではないだろうか。
ソイムは鳥を進める。
退かされた丸太の奥には、何十人もの屍体が捨て置かれていた。
石畳を真っ赤に染める血。
倒れ臥した後踏みにじられ、馬車の車輪に轢かれた、ひしゃげた屍体。
懐かしい、戦場の絨毯であった。
焚かれている篝火には生木がくべられているらしく、バチバチと爆ぜる音が間断なく響いている。
火の粉とくすぶる煙。地面から立ち上る血の匂い。
懐かしき戦場の香り。
今しがた死んだ彼らの魂が、体から離れて、空間に充溢している気さえする。
枯れた古戦場ではない、たった今の戦場の空気――。
ソイムは、ようやく自分の居場所に帰ってきた気がした。
王都を脱すれば、ここからは一本道。もはや見守る必要もないだろう。
目の前には、月明かりだけが照らす、暗い夜道が伸びている。
幾度となく通ったこの道が、今は華やかな大劇場の花道のように見えた。
***
ソイムはゆっくりとした常歩で街道を進む。
トリにとっては最も遅い歩法で、人間の早足ていどの速度となる。
王都から一時間ほど経ったころ、背後からトリの群れが駆ける音がやってきた。
石畳の貼られた直線の街道の向こうに、松明の火がいくつも見える。
血が沸きたつような気分になり、心に冷水をかけてそれを鎮めた。
こうした興奮が、いかに技の冴えを損じるか。
ソイムは経験上、誰よりもそれを分かっていた。
ソイムはそこでトリを止め、道中拾っておいた石を確認する。
「ッハ!」
小さく掛け声を出しつつ、カケドリの嘴を追手に向ける。
襲歩となり、速度が乗ってきた頃には、互いに近づき合う両者の距離は、ほぼ近くなっていた。
ソイムはそこで、こぶし大の石を思い切り投げつけた。
両脇が森となった街道は、月明かりすらわずかにしか届かず、暗闇に近かった。
松明の明るい光に目が慣れた者にとっては、唐突に闇から石が飛び出してきたようにしか見えなかっただろう。
先鋒を務める騎士の頭に石が命中し、その場で後ろに落鳥する。
手綱を強く握っていたのか、嘴に繋がる手綱を持ったまま真後ろに落鳥されたカケドリは、その場を踏ん張って急停止してしまった。
後続が巻き込まれ、五、六羽がもみくちゃになって転倒する。
原因不明の落馬が起き、「止まれーー!!」という号令が出た。
ソイムはその号令が欲しかった。
驀進するトリの群れの勢いだけは、槍の技量ではどうにもならないからだ。
ソイムは無言のまま集団に突っ込み、槍をヒュンと回し、手近な者の首を掻っ切った。
二人、三人と急所を狙い、首や動脈を断ち切ってゆく。
「なんだおまっ!」
ソイムの存在に気づき、声をあげようとした者の目に槍を突き立てる。
「なんだっ! なにが起きているっ!」
これからは乱戦になる――。
そう察したソイムは、鞍から腰を浮かせた。
鐙を吊るベルトを短くしてあるので、跨るときは足を畳まなければならず、乗りにくくなるが、代わりに腰を上げれば高く立つことができる。
股ではなく膝で鞍を締めながら、一層高いところから騎兵どもを睨んだ。
左手で手綱を握り、微妙な力加減でトリを操りながら、曲乗りのように一歩一歩を操りつつ、槍を振るう。
購入してから三年のうちに、互いの癖を知り尽くした愛鳥だからこそできる芸当だった。
十人ほどを立て続けに殺戮すると、相手方の混乱も収まってきたようだ。
こちらに槍を向けて構える者が多くなった。
ソイムは一端息を整えるため、助走距離にならない程度の位置まで数歩引いた。
「何者だ! 貴様!」
集団の後方から、トリをかき分けて出てきた指揮官らしき者に、改めて誰何される。
女性の声であった。
「我はユーリ・ホウが一の家臣にして、かつてはルーク・ホウに槍を捧げし者――名はソイム。魔女どもの手勢とお見受けする」
「その通り、我らは近衛第二軍、ユークリッハ騎兵団である。我が名はディンシェ・カースフィット。貴殿はなにゆえ通行を妨げられるか。この道は女王陛下直轄の天領なるぞ」
ディンシェは七大魔女家の一つである、カースフィット家の三女であった。
歳は四十三。騎士院を卒業している。
「女王がお亡くなりになった今、我らホウ家が槍を奉ずるは、キャロル陛下ただ一人。貴様らは実母に毒を盛る鬼畜を奉じておきながら、恐れ多くも天領の権利を主張するか」
「シモネイ女王はご存命である。我らは女王の名において貴殿を逮捕する。大人しく縄につくがよい」
皮肉ではなく本気で言っているのだとしたら、途轍もない馬鹿だ。とソイムは思った。
「魔女よ。貴様らがホウ家が頭領を毒殺した以上、今日この時から、もはやその舌口に我らが槍を止める力はないと知れ」
もはや問答は無用。
ソイムは思い、トリの横腹を足で叩き、一歩進ませた。
すると、ディンシェを庇うように一騎が割り込んできた。
「我が名はソルナント家のググリ!! 燈爵を賜る家柄が次男である!! 尋常に勝負してもらおう!!」
口上を述べると、ググリと名乗った男は槍を構えながらトリを駆けさせた。
直前で槍は矛先を変え、ソイムの乗るカケドリに向かう。
ソイムはそれを読んでいたかのように、若干腰を落とすと、長ボウキで地面を掃くようにして槍を払いのけ、返す刀ですれ違いざま首を断ち切った。
首が胴体に置いていかれ、滑り落ちて地面に転がった。
首から血を噴水のように吐き出している主人を背に乗せながら、カケドリが走り去ってゆく。
威しとなると踏んで首を刎ねたが、老いてからは首を一寸えぐる戦いを旨としてきたソイムにとっては、久しぶりの行為だった。
数十年ぶりに感じる、脊椎を断ち切る懐かしい感覚が手に残る。
「さすが、魔女どもの槍は錆びついておるわ!! ホウ家が老臣の技の冴え、その目にとくと焼き付けるがよい!!!」
ソイムは再び、槍をかかげて突っ込んでいった。
***
「くそっ! 誰か、誰かあの男をなんとかしろ! 弓を持て! 弓はないのか!!」
ディンシェ・カースフィットは兵たちに囲まれながら、金切り声を上げていた。
当然、騎兵の誰一人として弓は持っていない。
カケドリに乗りながら弓を射る風習がないので、持っているわけがなかった。
彼らは、誰しもが一匹の鳥と、自分の肉体、そして槍を頼りとしてソイムと対峙する他なかった。
ソイムはカケドリの上に立ちながら、ヒラヒラと細身の槍を振り回している。
変哲もない穂先が宙に踊るたび、切っ先が誰かの急所に吸い込まれ、血しぶきがあがった。
既にソイムの足もとには屍体の山が築かれ、街道はある一点を境に、ソイムが織った戦場の絨毯に彩られている。
「どうしたっ!! 者共、押せ!! 押されているぞ!!」
ディンシェはそう叫ぶが、奇妙な面頬で顔を隠し、鞍の上に立ちながら、絶技により死の山を築くソイムは、兵たちにとって既に人にすら見えていなかった。
触れてはいけない一匹の霊獣が立ちはだかっているようにも見え、それに押されれば、せめて触れぬように退がることしかできない。
ユークリッハ騎兵団の総勢は五百騎である。
近衛第二軍、定員数一万千名の中では最も大きい騎兵団で、近衛軍全体においては、第一軍のドーン騎兵団の次の規模を誇っている。
将家には天領に最大三百名の軍属しか登らせてはならぬという掟があり、それがある限りは、王都から逃げた相手ならば誰であっても追討できるはずであった。
現実はたった一人の男を処理できず、こうして押されている。
だが、押されているといっても、ソイムが討ち取った数はいまだ百騎に満たない。
正確には五十二騎であり、他に即死は免れたが主要な動脈を切り裂かれた者が後方に逃れ、十一騎生きていた。
名匠に鍛えさせた槍も、鎖帷子に触れるたび研いだ刃は鈍り、少しづつ斬れ味が衰えている。
だが、それでも技の冴えだけは鈍ることを知らず、ソイムを止めようと仕掛けた者は必ず槍の錆となった。
「もういい! 総員、奴を無視して横を駆け抜けよ!! 本来の追討に移れ!! 従わぬ者は軍令違反の廉で処断するものと思え!!!」
ディンシェがそう叫んでも、騎兵団の動きは鈍い。
「貴様ら! ただの老爺だぞ! 腕が十本もあるわけでも、槍が何本もあるわけでもない! 槍は一本だけだ!! さあ、行け!!」
その指令が発せられると、ソイムは今日はじめて雄叫びを発した。
「オ゛オ゛オ゛オ゛あ゛あ゛あ゛ア゛ア゛!!!」
老人の口から発せられたものとは思えぬ大声が森に響き渡り、兵たちの総身が竦む。
ソイムは叫びとともに敵陣に突っ込んだ。
この時、ソイムは戦略的な判断をしたわけではなかった。
数十分にも渡る戦いの中でソイムはかなり疲弊しており、ディンシェの言ったことは耳に入ってもいなかった。
それでも、全身の隅々にまで張り巡らされた集中は途切れておらず、その目は冷静に敵を観察し続けていた。
ディンシェの一言をきっかけに、兵たちに最後に残っていた戦おうという意思が消え失せたのを感じ、戦場で鍛えられた本能が絶好の好機に乗じようとしたのだった。
ディンシェの迂闊な命令によって、”戦わぬ許可”を与えられた兵は、命令に従うかどうかはともかく、戦意をまったく失ってしまっていた。
「ヒッ――――!!」
逃げ腰となった騎兵が背中を見せるのを、ソイムは追わなかった。
雄叫びをあげ、槍を振り回して威嚇をしながら、一直線にディンシェのところに突進する。
誰も邪魔をせず、道を開いていった。
隙だらけであるのに、誰も槍を刺してはこなかった。
ディンシェは前線から五メートルほどの場所にいたが、その間にいる、ソイムの突撃を肉をもって止めるべき騎兵たちは、誰しもが率先して道を開けてしまった。
ソイムの目に、ディンシェが映る。
面頬をつけていないディンシェは、迫りくるソイムを見ながら凍りついていた。
肩を震わせ、身を縮こめながら自分に死を与える死神を見るその顔は、ソイムがかつて戦場で見てきた、どの表情とも違ったものだった。
恐怖に慄いた、女の顔だった。
ディンシェを刃圏に捉えたソイムは、容赦なく槍を振るう。
首の横に刃を滑り込ませると、小気味のよい感触とともに、細い首が刎ねられた。
「大将、討ち取ったり!」
そう高らかに宣言し、槍を構える。
ソイムは、そこで張り詰めていた集中が切れたのを感じた。
弦の切れた楽器がもはや音を奏でることがないのと同じで、集中の抜けた肉体は、隅々まで通っていた神気が抜け、ただの鍛えられた老爺の体となっていた。
これが心技体衰えた男の限界。
そのことは、自分が一番良くわかっていた。
だが、心は達成感と誇らしさで満ちている。
満足だった。
「さあ、武名を高めんとする者はこい! 主君を討った仇はここに在り! ホウ家がソイムの首、取れるものなら取ってみよ!」