第016話 本家での日常
「そんなことでは院に入った後、笑われますぞ」
道場の板張りの床の上でぐったりしていた俺に、毛も白んだ爺さんが言ってくる。
この爺さんともかれこれ、三年のつきあいになる。
爺さんは、名をソイム・ハオといい、いわゆるホウ家の退役復帰組の騎士の一人で、若いころは遠征するたびブイブイ言わせてた騎士であったらしい。
だが、手塩にかけた一人息子はずいぶんと昔に死んでしまい、そのときは孫がいい年齢になっていたので、孫に家督を譲ったが、そいつはゴウクと一緒に天に逝ってしまった。
その後、家長として復帰しつつ、最近生まれた末の曾孫を猫かわいがりしながら、俺を棒でぶっ叩いたり関節を極めたりする生活を送っている。
損をしているのは俺だけだ。
ソイムは年齢としては九十歳を超えている老人だ。
だが、そんな爺さんでも、皺のよった老いぼれた肌の奥には、衰えたとはいえ老いてなお洗練された筋肉が秘められており、それを老熟した技術で操るものだから、恐ろしく強い。
俺は立ち上がり、再び木の槍を手にした。
これは白木の棒の先っちょが赤く塗られているもので、子供が訓練で使うものらしい。
赤い先端は刃先を意味している。
ソイムのほうは、細い木の棒に藁を巻いて、上から動物の皮をかぶせた棒を握っている。
叩かれても痛くないように配慮しているわけだが、完全に中空になってる竹刀みたいなもんでも叩かれりゃ痛いんだから、芯の入っている棒に何を貼り付けようが、やっぱり叩かれたら痛い。
俺は立ち上がった。
「どうぞ、かかってきなされ」
ソイムは両手で棒を構えた。
俺は飛びかかるように突っ込んでいって、突いては引き、薙いでは戻し、懸命の連打を食らわせたが、全部避けられるか、いなされるかされてしまった。
息切れしはじめたと思った矢先、軽く力を加えられて一撃がいなされると、間髪容れずに出足払いのような足技がきて、踏み込んでいた足をすぱんと抜かれ、無様にすっ転んだ。
床を叩き、受け身をとって事なきを得る。
くっそー。
もちろん体のスペックが大人と子どもで違うのもあるが、やはり技術がかけ離れている感じがする。
俺も三年、頑張ってきたが、全然及んでいない。
「悪くはないですな。だが、引き際が悪い。息が上がったら引かねば今のようになりますぞ」
引いたら引いたで今度は攻めてくるくせに……。
「引いたら攻められて、やっぱり負けるじゃないですか」
「フフ……それはそれですよ」
ソイムは笑みを浮かべていた。
そして諭すように言った。
「若君と私とでは、大分力量に差があるのですから、負けるのは仕方がない。ですが、考えてもみなさい。例えばここが戦場であったなら、引いて粘っていれば、仲間の横槍が入ってわたしを斃してくれるかもしれぬではないですか。だが、無謀に攻めて今のようにあっけなく倒されてしまえば、その目もない」
道理だった。
確かにその通りだ。
この老人はなぜか俺のことを若君と言ってくる。
こっぱずかしいこと極まりない。
ポッと出の俺になにか思うところはないのだろうかと、いつも心配になる。
「確かに、そうかも知れません」
俺はぐっと体に力を入れて、立ち上がった。
息はもう整っていた。
「かかってきなされ」
***
シャン人の騎士は、なぜだか槍に強い執着があるため、基本は槍(槍衾に使うような長槍ではなく、身の丈ほどの短槍)をメインに修得するのだが、それだけを習得するわけではない。
なんといっても槍はかさばるので、常日頃、家の中でも持って歩いていたら奇人変人でしかないわけで、一般的に短刀を帯びる。
江戸時代の武士が大小を帯びるのがしきたりであったように、短刀は外出時はいつでも持っているものらしい。
槍にも種類があり「俺は突きより斬るほうが向いてる気がする」って人間は、薙刀風になったものを愛用しているようだ。
つまりは、槍術(短槍術)、剣術(短刀術)、格闘術の三つがシャン人の戦いの基礎項目となる。
日本に居たころにやったゲームなどでは、槍は剣に強く、剣は素手に強く、素手は槍に強い。などといった三つ巴が成立していたゲームもあったが、現実はそうはいかなかった。
「そい! そいっ!」
わざと掛け声をかけながら、ソイムが槍を繰り出してくるのを、俺はかわしていた。
手には木で作られた短刀を握っている。
足を突かれれば寸前で足を引き、顔を突かれれば上体を反らし、なんだかんだで避けていく。
槍の間合いギリギリにいるのだから、一歩引けば避けられるわけで、避けるのは簡単なのだ。
追い足もこちらに合わせてゆるめてくれているようで、追いつかれることもない。
俺は木の短剣を構えながら、片手を柄に添えるように構えていた。
手元に突き入ってきた槍を胸元ギリギリで避けると、空いた片手で柄を掴んだ。
柄を掴まれるという動作は、槍を使う側にとっては、存外嫌なものだ。
振り払うにしても、振り払う動作を強要されてしまうので、手数でいえば、一手が空いて、攻め入る隙を与えてしまう。
俺も攻めに転じて、ふわりと間合いの中に入ると、勢いのままに短刀を繰り出し、槍の持ち手を狙った。
が、俺が狙った時には、ソイムは既に持ち手から力を抜いていたようで、俺の短刀を持った手が逆に拳で狙われていた。
拳が持ち手に突き刺さり、思わず手を離してしまう。
体が硬直した瞬間に、腹のところに軽いケリが入って、俺は仰向けにすっ転んでしまった。
転ぶと同時に槍がつきこまれ、腹のところにチョンと切っ先が当たり、やっぱり俺は負けた。
その後、整理運動とばかりにソイムと一緒に屋敷の外周を一周走り、汗みずくになったところで、稽古は終わった。
「それでは、次の稽古は明日ですな。体をよく休めてくだされ」
「ありがとうございました」
飯を食ったら今日はサツキから直々に勉強を教わる予定が入っていた。
***
「……こらぁ」
ポカリと頭を叩かれた。
「うわっ」
おもむろに意識が覚醒する。
やべぇ半分寝てた。
「寝てたでしょー」
「あ……ハイ」
「そんなに退屈かしらぁ?」
心配そうに言ってくる。
そりゃ退屈だよ。
「いえ、頑張ります」
「ここは行灯かきかき冬の雪って覚えるの」
……???
「へ?」
「主語が年配の女性だった場合の動詞の活用の変化がね、目的語が、年配の男性と若輩、モノ、土地、王族、年配の女性と若輩、の場合で変わるでしょー?」
「は……はぁ」
そないなこと言われましても。
俺はまた途方にくれた気分になった。
サツキがこだわる古代シャン語というのは万事が万事この調子だ。
欠陥言語なのだ。
目的語で動詞が変化するってどういうことだよ。
目的語がQUEENとDESKで動詞のLOOKがLOOKENからLOOKODみたいに変化したら切りがねえだろうが。
しかもそれが七通りもあるとか。
どんだけ不便な言語だ。
誰が考えたのか知らないが、ふざけんなよ。
さっさと消滅してくれて良かったんだよ。
自然淘汰だよ。
皆バカバカしいから洗練されて今の形になったんだろ。
「そこで語尾が行灯かきかき冬の雪ってなるのね。女性が年配の場合と若輩の場合は同じユキでいいから、一つ覚えるのが減るわね」
………。
えーっと。
七つ覚えるところが一つ減ったところでどうだっていうんですかね。
六つも七つも同じMANYだよ。
FEWにはならねーよ。
多いんだよ。
ありがたみが全く感じられねーよ。
「あの、これってなんの意味が」
俺は通算何度目かの質問をした。
「古典を読むためにはこれくらいできなきゃねぇ」
同じ答えが返ってきた。
古典にしたって国語の古文とはレベルがちがうんだが。
別言語ではないんだけどさ。
なんというか。
よく知らないけど、イタリア語とラテン語くらい違うんじゃないの。
「これできたら魔法とか使えるようになったりするんですか?」
「なに変なことを言ってるの」
「いや、言ってみただけです」
魔法が使えるなら、ちょっとくらい必死にやるんだけどな。
はぁ。
「歴史と同じ丸暗記なのに、なんでユーリ君は古典が嫌いなのかしらねぇ……」
サツキは困ったように言った。
まるで同じじゃないからです。
考古学者目指してるんじゃないんだから、なぜ古代言語を習得しなけりゃならねーんだ。
これが、隣国で日常的に使われてる言語とかなら、まだ学ぶ意欲も出るが、日常言語として使っている人間は、もはやこの地上に一人として存在しないのだ。
「とにかく教養人を名乗るなら古代シャン語くらいできないと駄目ですからね。さ、書いて覚えましょう?」
俺は勉強が嫌で逃げ出したくなる子どもの気分を久々に、そしてさんざんに味わった。
***
純粋なる苦行が終わると、俺は目を虚ろにしながらシャムの部屋へ行った。
拷問を受けたわけでもないのに、何故か足がふらつく。
シャムに会って癒やされたい。
俺はガチャリとドアを開けた。
「よう」
「……」
シャムは机に向かったまま、ペンを握って動かない。
「よう」
「……っ! ユーリですか」
今気づいたようだ。
ドア開けたのも気付かないとか、どんだけ集中してんだよ。
「どうしたんだ」
「いえ」
「なんだったら後にするか」
別に用事があるわけではない。
「このケプラーの法則って凄いですね」
「なんだ、また難しいことを考えてたのか」
「この地動説モデルなら全部説明できます。水星の予測も完璧ですし、火星の謎の動きもなにもかも。正直言って半信半疑でしたが」
まだ半信半疑だったのか。
火星の謎の動きがどうこうというのは、天体観測を真面目にしたことのない俺には謎のことだったが、何やら大いなる謎が解明されたようだ。
よかったよかった。
「それなら良かった」
「今までのモデルでは、太陽の周りを火星その他の惑星が回っていることになっていたんです」
は?
なんだそれ。
「それはつまり地動説じゃないのか」
「いえ、地球の周りを太陽が回っていて、その太陽の周りを惑星が回っているんです。言い換えると、月より遠くに、第二の月として太陽が回っていて、その太陽の周りを月のように惑星が回っている。というような感じです」
なんだそりゃ。
そりゃまた不思議な世界だな。
太陽の質量を知っている俺からしてみると、逆にちょっとイメージできない。
「そこに色々な係数を当てはめると、とても良く天体の動きが説明できるんです」
んなアホな。
「そうなの?」
「ほら、火星は年を通して見ると、こういう動きをしますよね」
シャムはさらさらと木の板に線を書くと、それを俺に見せた。
Zを反対にしたような形だった。
へぇ、そうなのか。
「そうだな」
ここは知ったかぶっておこう。
「火星が地球の周りを円軌道で回っているのであれば、こうは見えないわけです」
まあそうだな。
地球が真ん中なら、すいっと夜天を横切るだけだろう。普通に考えれば。
「でも、火星が太陽の周りを回っていると考えれば、これは説明がつきますよね」
「ああ、そういうことか」
遊園地のコーヒーカップみたいなものだ。
メリーゴーランドなら、真ん中から見て、馬に乗っている客が回転方向と逆側に動くなんてことはありえない。
だが、コーヒーカップであれば、客が一時的に回転方向と逆に動いたように見える。
天動説もよく考えられているものだ。
「理屈と膏薬はどこへでも付くってやつだな」
「……なんですか突然? それってことわざかなにかですか?」
「そうだな」
「初めて聞きました。でも、そういうことですね。理屈に理屈を上塗りして、いろいろな係数を定めて、説明がつくようにしてあるんです」
なるほどなるほど。
でも、説明がつくようにしてあるということは、本当に無矛盾になるように色々と数値が設定してあるんだろうな。
ものすごい複雑な計算になりそうなもんだが。
「でも、このモデルなら無駄な理屈付けがなくても、きれいさっぱり片付きます。我ながら素晴らしいです。なんて美しいんでしょう。全てが一つに調和しています」
「そりゃ良かった」
なんとまあ嬉しげである。
俺も大昔、研究室にいたころはこんな顔してたのかな。
「あ、我ながらというのはおかしいですね。ユーリが考えたのに」
シャムは申し訳なさそうに言った。
「いや、そこは構わないんだが」
俺はただ知ってるだけで、俺が考えたわけでもない理論なので、どうでもよかった。
金になるならともかく、大昔に別の世界のケプラー氏が考えた理論で名誉や尊敬を得たいとも思わない。
「そういうわけにもいきませんが、ともかく色々と詰めてみます」
詰めるって。
「仕事じゃないんだから」
もっと別のことしようよ。
なんだ、えーっと、おままごととか。
プリ○ュアでも見てろと言えないところがアレだが、こんな時代でもなにかしらあるだろ。
「今はこれが楽しくて仕方ないんです」
無理をするふうでもなく言った。
うーん。
すげえ。
どういう脳みそをしているんだろう。
俺がこのくらいのころは、まだポ○モンが151匹だったころで、誰かがバグ増殖したミュ○を友達から貰って大喜びしていたものだったが。
それがこのイトコは二項定理や三角関数を理解し、ケプラーの法則で太陽系のモデルを理解し、それで大喜びしている。
頭のいいやつっていうのはこういうものなんだろうか。
「ちょっと外に出てみないか? 面白いことがあるかも」
少しくらい外に出たほうがいいのでは。
「えぇー……」
なんだかあからさまに嫌そうな反応をされた。
「まあいいじゃないか、気晴らしに」
「気なら晴れてますが……ユーリってたまに俗っぽいこと言いますよね……」
俗っぽい……。
気晴らしに外に出よう、というのは、しかしシャムにとっては言われ慣れていることなのかもしれん。
引きこもり気質にとっては、外にでることは気晴らしにもなんにもならないのかもしれないし。
「でも、ユーリがそういうならいいですよ」
***
屋敷の外に出ると、もう夕暮れ時だった。
屋敷の庭にはイチョウの木が植わっており、今の時期はもう、紅葉して実を落としている。
微かに銀杏の臭いがするが、悪臭を感じるほどでもない。
誰かに踏まれない場所にあるのと、使用人が腐る前に実を拾って回収しているためだ。
そうしているのを見たことがある。
池や庭石などは、日本にあったような手入れされた庭とさほど変わらなかった。
ただ、このあたりは常緑樹が少ないので、冬になると全てが枯れて、まったく緑は見えなくなる。
そこが少しさみしいところだった。
それに、いかんせん寒い。
毛皮の上着を着てでてきたが、それでも四肢に寒さがしみた。
「もうすっかり冬だな」
しみじみと俺が言うと、
「……お父さんと同じようなことを言うんですね」
うっ。
間接的にジジ臭いと言われたみたいで妙に堪える。
「なんでここは寒い地域なのか考えたことあるか?」
じゃあ好みの話をしてやろうかな。
幸いなことに、レパートリーはたくさんあるんだ。
「……? 北だからじゃないんですか」
「北だろうが南だろうが、年間の日照時間はトータルすれば変わらないはずだろ」
白夜のある地域は必ず極夜もあり、それでバランスが取れるようになっている。
一年通しての昼の長さは、赤道直下でも極地でもほとんど変わらない。
一日の半分かというと、大気の反射光で明るい状態の夕方や明け方があるから、夜のほうが短いはずだが。
「そういえばそうですね。なんでだろう……」
シャムは考え込み始めた。
この頭のいい娘は、すぐに他人に答えを聞かないという美徳がある。
必ず自分の答えを見出そうとする。
教えがいのある娘なのだった。
「気流とか、海流とかですか?」
確かにそれもあるだろうが。
「太陽の角度だよ」
「角度……? 角度が関係してるんですか?」
「暖炉で考えてみると分かりやすい」
俺は手のひらを突き出した。
「こうやって手のひらを垂直に火にかざしたら熱いけど、こう……斜めにしても大して熱くはならないだろ。面積あたりの熱の供給量が減るんだよ。このへんじゃ、常に太陽に対して地面が斜めになるだろ?」
「はぁぁぁあ……」
シャムは口をぽかーんと開けて感心していた。
「なるほど……」
「そうやってこの土地は寒くなってるわけだ」
「興味深いです」
「それを踏まえて、見てみろよ」
俺は調子にのって、イチョウの落ち葉を一枚拾った。
「なんですか?」
さっきので機嫌をなおしたのか、シャムはどこか楽しそうだ。
「この葉っぱさ」
「?」
「ほら、葉が落ちてるだろ?」
「そうですね」
「なんで葉が落ちる……というか、葉を落としたか分かるか?」
「うーん」
シャムはまた考え始めた。
「……わかりません。そういうものだからとしか」
わからなかったらしい。
「確かに、そういう種の木だから落としたというのは、その通りなんだけどな」
「はあ」
「この土地じゃ、冬の間はなにもかもが凍ってしまう。そんな場所で生きるための生存戦略なのさ」
「ああ、葉っぱが凍ってしまうから捨ててるんですか。なるほど」
すぐ分かってしまったようだ。
「だが、こんな大量の葉っぱを毎年作っては捨てるのは、植物にとっては重労働だ。人間で言ってみれば、腕を毎年切り落としては生やすようなもんだから、大きな負担になっているはずだ」
「……したくないといっても、仕方ないんじゃないですか? 凍ってしまうんだから」
そりゃそうだけど。
「そうか? 方法でいったら、葉を分厚くして、樹液を循環させて、芯まで凍らないようにするとか、表面を凍りにくい物質で保護するとかって手があるだろ。そうすりゃ捨てる必要はない」
「……考えてみればそうですね。でも、そうしていない」
「この土地くらい寒い場所じゃ、そうにもいかないから、そういう植物は生えていないってことだろうな。植物に言わせりゃ、ここの寒さに耐えるほどの葉っぱを維持するくらいなら、毎年作りなおしたほうがよっぽど安上がりってことなんだろう」
「じゃあ、もっと温かい地方なら違ってくるわけですか」
「そうなんだろうな。この国でも、一番南のほうには一年中緑をつける植物も生えているらしい。そのあたりに境目があって、ずっと南にいけばそれもなくなって、もう寒さに対して対策する必要はなくなる。そこでは薄い葉っぱを一年中つける植物がたくさん生い茂っているんだろう」
「はぁ~……なるほど」
「こういうのも面白いだろ?」
「はい!」
シャムははにかむように笑った。
「それじゃ、そろそろ戻るか」
「そうですね。寒くなってきました」
そろそろ食事もできているだろう。
遠くには、門を警備する兵が、夜勤と交代しているのが見えた。