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第168話 銀杏葉*

 白樺寮の部屋に手紙が来たので、リリー先輩と銀杏葉へ行くと、奥の個室にはミャロさんが座っていた。


「すいません、お呼び立てして」


 わざわざ立って頭を下げてくる。


「そんな大げさにせんとってーな」


 リリー先輩が答えた。


 リリー先輩と私は、少し歩いて椅子に腰掛けた。

 机の上には、何か黒いボトルのようなものが三本、置いてある。


 これはホウ社の製品で、吹きガラスを鋳鉄の型の中に吹き込むことで作られるボトルだ。

 私は吹きガラスというのをやったことがないのだけれど、型に吹き込むだけでも結構な技術が必要らしい。


 ただ、それによって定規格となったボトルは、とても便利になる。

 決まった本数がきっちり並んで入るよう作られた木箱に入れれば、ガラス同士の”ガチャガチャ”がほんの僅かになるので、多少揺れても割れることがなくなる。

 それに、口を封じるのに一定の大きさでパンチングしたコルクが利用できるのが、凄く便利らしい。


 もちろんコルクは輸入品なのだけど、これが案外安くて、液体の入った瓶を封じるのに便利なのだ。


 この製品にはリリー先輩や私は一切関わっておらず、開発から生産まで全部ホウ家領のほうでやった。


 でも、なんでこのボトルが置いてあるのだろう。

 普通、こういうボトルにはお酒が入っている。


 持ち込んだのだろうか?


「それで、どうしたん? 今日は」


 ミャロさんに呼び出されるのは結構珍しい。

 担当分野が違うからで、開発係の私たちは、情報管理をやっているミャロさんとは接点が少ない。

 前に天測航法について詳しく説明したのが、ユーリなしで会った最後だった。


「これ、新製品なんです。ちょっと試飲しませんか?」


 そう言いながら、ミャロさんはボトルを持って、コルク抜きのスクリューを差し込んでいった。

 コルクで唯一面倒なのがこれだ。

 専用の道具が必要になる。


 ミャロさんが持っていたコルク抜きは、瓶の縁に金具をかけてテコの原理で抜くことの出来るものだった。

 さほど力を入れるふうでもなく、簡単に栓が抜けた。


「うん? まあええけど……」


 リリー先輩は訝しげに言った。


 ミャロさんが、机に置いてあったグラスにお酒を注ぐ。

 黒いボトルからはわからなかったが、中身は淡いピンク色をした、濁った液体だった。


 しかしなんだろう?

 お酒を飲ませるために呼んだのかな?


「シャムさんもどうぞ」

「いえ、私は……」

「まあまあ、女性向けのお酒なんですよ、これ。とっても高く売る予定らしいので、飲まないと損です」

「じゃあ、ちょっとだけ……あまり注がないでください」


 私がそう言うと、ミャロさんはグラスに三分の一ほどお酒を注いだ。

 多い。


「……へぇ、これは美味しいねぇ」


 隣で、グラスに口をつけていたリリー先輩が言った。

 なにやら、味に感銘を受けているようだ。


 私は、ユーリを真似してお酒は飲まないようにしているのだけど、舐めるくらいなら大丈夫だろう。

 少しだけ注がれたお酒を傾け、少しだけ口に入れた。


 今まで味わったことのない豊かな甘さが舌を包んだ。

 アルコール臭さはあるが、それ以上に、果物の果汁を濃縮したような濃厚な香りがする。


 その果物の味も……なんだろう。酸味のようなものが全く感じられない、ただ芳醇な甘みだけがある。

 野苺なんかと違って酸っぱさがまったくない。


「すごく美味しいです……なんですか? これ」


 私は思わず口を抑えながら言った。

 あまりの美味しさに口がびっくりしている。


「桃という果物のお酒だそうです。とても美味しいですよね」

「はい。うわぁ……」


 アルコール発酵させているということは、糖分がアルコールに置き換わっているわけだから、本来の甘さはこれ以上なのだろう。

 アルコール臭が邪魔だけれど、これがないと輸送の間に腐ってしまう。


 果物だとしたら、果物自体を味わってみたい。

 楽園から落ちてきた果実のような味がするのだろう。


「すごく美味しかったです」


 思わずグラスに注がれた分を飲み干してしまった。

 少し頭がポーっとする。


「おかわりはいかがですか?」

「いえ、このくらいで」


 あまり飲むと脳に悪影響が……。

 でも飲みたい……。

 これがユーリが言ってたアルコール依存症ってやつだろうか……。


「すっごくおいしいなぁ。これなら高値で売れるやろねぇ……」

「はい、はい。実際仕入れ値も高いですしね。教皇領から持ってきたものですし」

「え、教皇領から」


 と私は言った。

 よくわからないが教皇領というと悪いイメージしかない。


「イイスス教の僧侶の方々の一部は、こういったものをよく作るらしいですよ。清貧に生きて、毎日決まった時間に起きては働いて、物凄く勤勉らしいです」


 ふーん。

 よくわからないけど色々な人がいるんだな。

 そういった人がこのお酒を作ったわけだから、なんかすごい。


 その作った人っていうのも、自分の作ったお酒が遥々海を渡って、こうして人種の違う自分に飲まれて感激されていると知ったら、どう思うのかな。

 やっぱり、美味しいと言ってもらえたら嬉しいのかな。


「あ、おかわり貰えるかなぁ~?」


 リリーさんのほうを見ると、既にグラスが空になっていた。

 ほっぺたが少し赤い。


 酔っているようだ。

 果物の甘みに誤魔化されているけど、アルコールがかなり濃いのだろう。


 たぶん、蒸留酒と混ぜるか漬けるかして作ったんだろうな。

 果汁を発酵させたのだとすると、ワインのようにアルコールと引き換えに甘さは失われるはずで、それだと糖分がそのまま残っていることに説明がつかない。


「もちろん、構いませんよ。どうぞどうぞ」


 ミャロさんがリリー先輩のグラスにお酒を注ぐ。

 うぅ……私も飲みたい。


 お酒の瓶は全部で三つ置いてある。

 全部味が違うのかなぁ……。


「ありがと~。いただきます」


 リリー先輩はグラスになみなみと注がれたお酒に、早速口をつけた。


「あの……とっても美味しいお酒なんですけど、今日はこれが用事だったんですか?」


 と私は聞いた。


 別にお酒の試飲が目的でもおかしくはないのだけど、他に要件があるのであれば、リリー先輩が酔いつぶれる前に話しておくべきだ。


「実は違うんです。他にお二人にお話することがあります」

「じゃあ、それを先に話したほうがいいのでは」

「ええ……実は、ユーリくんのことなんですが」


 ユーリのこと?


「このたび、ユーリくんが結婚することになりまして」


 ………えっ?


 冗談? 嘘でしょ?


 聞き間違いかな? と思って左を見てみると、リリー先輩が口をお酒で汚していた。

 聞こえていなかったけど、グラスに口をつけた状態で吹き出したようで、ひどいことになっている。


「リリー先輩、これ」


 とりあえずハンカチを差し出しておいた。


「え、誰と? シャム? ミャロはん? えっ?」


 受け取ってくれないので、机の上に置いておく。


「キャロル殿下です。ご懐妊されているとのことです」

「は? 懐妊……? えっ、赤ちゃん?」

「はい、そういうことです」


 リリー先輩は目を白黒させていた。


 赤ちゃんかぁ。

 赤ちゃんねぇ……。


 赤ちゃん?

 嘘でしょ?


 私に隠れてそういう事してたの……?

 それならそうと、言ってくれたら良かったのに……。


 ていうかユーリの子どもができるの?


 私以外から?


「………そっかぁ」


 ポツリと言ったまま、リリー先輩はまるで感情が死んだように脱力した。

 椅子に座っているのに、力が抜けるのは目に分かるものなんだなと思った。


 全身がくたっとなっている。

 私もなっているのかも知れない。


「ユーリくんのこと、愛していらっしゃるんですね」

「………」


 返事をする気力もないようだ。


 愛してるに決まってる。

 リリー先輩の愛がどれだけ重いと思っているのか。

 伝えきれないほどだ。


 ああ、そうか。

 だからユーリはリリー先輩と二人きりになるのを避けてたのか。


 なんでこんなに露骨に断ったりするのだろうと疑問に思っていたけど、キャロルさんと既に恋人だったからだ。

 そりゃー、いくらアプローチしても意味ないわけですよ。


 わー……。


「ミャロさんはそれでいいんですか?」


 ミャロさんはこれだけユーリのそばにいて好意を抱いていないのだろうか。


「ボクとユーリくんは信念で繋がっています……言わば同志です。なのでキャロル殿下と結婚したからといって離れることはありません。辛いと言えば辛いですが」


 やっぱりミャロさんもユーリのことが好きなんだ。


 私もユーリとは学問で繋がっている。

 それ以上を求めたらいけないのだろうか?


 いけないことはないだろう。

 でも、ユーリにその気がないのに勝手に恋慕をして、勝手に傷ついて、避けたり誘惑したりして、迷惑をかける。


 それは滑稽なことだし、心も辛い。要るか要らないかでいったら、要らないものだ。


 私も、過剰に期待して絶望したりしないように、想いを自制してきた。

 リリー先輩を応援しながら、ユーリが先輩と恋人関係になったらどうしよう、と考えないわけではなかった。


「私もそうです。ただ、リリー先輩は……」


 私は学者だし、ユーリがいなくても学問を続けるだろう。

 でも、リリー先輩は、ユーリが振り向かないとわかっていても仕事を続けるのだろうか?


 貰える給金(というか役員報酬)はすごくいいから、続けることはメリットになるだろう。

 だけど、ユーリと会うのが辛くなったら?


 どうだろう。

 別に、ユーリから仕事をもらわなくても、リリー先輩ほどの技術者なら生きていけるだろうし。


「そうですね……でも、これからのことは誰にも分かりませんよ。お二人が喧嘩して仲が冷めてしまうことも、あるかもしれません」


 ミャロさんは悪魔のささやきを発した。


「そんな、期待させるようなこと……」


 酷いことをいう人だ。

 ミャロさんのことを初めてそう思った。


「お二人がよく喧嘩をなさっているのは確かです。それに、結婚したらユーリくんはもちろん王家の一員になるわけですが、お二人の国の理想像というのは、かなり隔たりがあります。ユーリくんは何かにつけ革新的な考えを持っているので、古びた貴族制は叩き壊そうとするでしょう。その過程で衝突するかも。どうなるかは誰にも分かりません」


 私には政治のことは良くわからないけれど、何かそれなりのことを言っているのだろう。

 リリー先輩のほうを見ると、目に力が戻ってきていた。


「そんなことになったら、ユーリは悲しみます」


 今から結婚するというのに、何を言っているのだろう、この人は。

 祝福……をするのは難しいかもしれないけれど、不幸を願うというのは違う気がする。


 ユーリだって祝って欲しいだろう。


「シャムさん、私はユーリくんの味方ですよ。リリーさんはユーリくんに必要な人だから、こうしているんです」

「それがリリー先輩を傷つけることになってもですか」

「ボクは公平に、事実を言っています。可能性があると思っているのも嘘ではありません」


 そう述べたミャロさんは、なんとも自然体で、嘘をついているようには見えなかった。


 ユーリの味方なんだ。

 ユーリのために、リリー先輩にはこれまで通りの仕事を望んでいる。


 だけど、リリー先輩の幸福は問題にしていない。

 もちろん、不幸になってほしいとか、幸福になってほしくないとか、そういうことを積極的に思っているわけではないだろう。

 ただ、リリー先輩の幸福よりもユーリの利益を優先しているだけだ。


 そりゃ、ミャロさんはリリー先輩とさほど親しくはないし、当たり前なのかもしれない。


「それでは、ボクはそろそろ失礼します。お酒は置いていきますので、よろしければ呑んでください。今日はこの店は貸し切りにしてありますので」

「ミャロはん」


 リリー先輩はここで初めて口を開いた。


「気を遣ってくれてありがとうな。お陰で気が紛れるよ」

「いえ、ボクがユーリくんのためにできることなんて、これくらいですから」

「せやろなぁ……」


 ミャロさんはペコリと頭を下げると、部屋から出て行った。

 リリー先輩はお酒の瓶を傾けて、自分でグラスにお酒を注ぎはじめた。


 お酒というのは、こういうときに必要なのだろう。

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