第142話 もう一つの戦い 中編*
撤退を始めてから、五日が経った。
アンジェは、鉛のように重い足で、それでも背筋を伸ばしながら歩いていた。
足に出来た水疱はあらかた潰れ、当初は濡れた感触が気持ち悪かったが、今はその感覚も強い痛みで、まぎれてしまっている。
それでも、一歩一歩あるけば、希望はある。
エピタフ率いる挺身騎士団は、後方についている。
人数は、最初こそ千名いたものが、今では百と少ししか残っていなかった。
度重なる捨て石作戦で、ほとんどが使い捨てられてしまったのだ。
その人々は、全員が敵の騎兵に屠られたのだろう。
だが、幸か不幸か……数日に渡った追撃の手は、ついに止んでいた。
補給線が限界に来たのに加え、大鷲の行動範囲を超えたため、偵察によって戦力を測ることができなくなったのが原因だろう。とアンジェは読んでいた。
残っているのが、たった百五十名程度の軍勢と知られていれば、無理を押して追撃を続行したかもしれない。
だが、そうされたほうが、イイスス教圏にとっては、幸福な結果を招いたのかもしれなかった。
*****
アンジェは、重い足取りで、地面を踏みしめて歩く。
腹が空いていた。
体中から精気が抜け落ち、パサパサの干し肉にでもなったような気がする。
肉体が過酷な状況に置いた主人を責めるように、足からは痛みが這い上がってきていた。
ぼーっとした頭は、ただ定期的にやってくる痛みとして、それを淡々と処理する。
みっともないところは、見せられない。
その思いだけが、背筋を伸ばさせていた。
「アンジェ様」
兵の一人が声をかけてきた。
このところ、兵たちは呼び方を間違わない。
おふざけをしている場合ではないと思っているのだろう。
「なんだ?」
「前方にて民間人を捕らえたとの報が入っております」
「そうか。私が会おう」
「では、馬車にお乗りください」
むっ、とアンジェは一瞬顔をしかめた。
馬車には乗りたくなかった。
「アンジェ様……失礼ながら、徒歩では侮られます」
それは口実で、本当は身を気遣って乗せたいのだろう。
だが、それを断るのは別の意味で難しかった。
前方に行くには、今より早く歩まねばならない。
というより、走らねばならないだろう。
アンジェの足の状態では、それは無理があった。
「……わかった」
「本当でございますか! では、早速馬車を連れてまいります」
その騎士は、アンジェより年上で、年齢は二十三歳くらいだったはずだ。
元気いっぱいとはいかないようだが、さして苦にする様子もなく、走って馬車を呼びにいった。
足の皮がむけて、ただ歩いているだけでやっとのアンジェとは、全く鍛え方が違うのだ。
調練を指図したのはアンジェ自身なのだが、調練に参加していたわけではない。
帰ったら、少しは体を鍛えなければな、と思う。
すぐに馬車が連れられてきたので、アンジェは見栄を張って、まだ動いている馬車に飛び乗った。
「速やかに進め」
指示をすると、「ハッ!」と返答があり、隊列より少し早い速度で動き始めた。
すぐにやることがなくなる。
馬車は、ガタゴトと走っている。
痛みに苛まれずして、勝手に進んでいくのは、感動的なまでに楽であった。
今まで当たり前に利用していたものなのだが、なにやら画期的な発明を目の当たりにしているような新鮮さがある。
馬は、昨日訪れた村に残っていた、越冬用の飼料を少し食えたお陰で、まだ力強い。
鎧も纏っていない細身の女一人、荷物に増えたところで、大した負担は感じていないだろう。
ともすると、この楽さに慣れてしまいそうだった。
慣れてもいいのかもしれない。
兵たちは赦してくれるだろう。
そんな考えが頭をかすめると、触れてはいけない傷に触れた時のように、慰められてはならない何かが慰められた気がした。
アンジェは、灯籠の火を吹き消すように、意識的にその考えを消した。
「アンジェ様、あれではないでしょうか」
手綱を引いていた騎士が言う。
向こうからは、一応の偵察のため先行させていた部下の一人が、手に縄をうたれた二人の長耳を連れて歩いてきていた。
「そのようだな」
十分近づき、馬車が止まると、アンジェは馬車から降りた。
長耳を見分する。
一人は少し年増の女で、もう一人は、少女といってよい、年端もゆかぬ女の子であった。
二人は、憔悴した顔で、訝しげにこちらを見ている。
「貴様ら、この道で何をしている」
アンジェがシャン語で聞くと、年増のほうの女は軽く驚いた顔をした。
「私どもは、国もとから避難しているところですっ――」
ようやく言葉の通じる者と出会った興奮からか、勢い込んで言った。
まあ、そうであろうな。
アンジェは思った。
「どうか、どうかお見逃しを……」
「その子は?」
「娘でございます」
親子連れか。
「どうか、どうか娘の命だけはお助けください。お願いします……お願いでございます……」
年増の女は、哀れを乞うように膝をつき、縛られた両腕を土につけ、頭を垂れた。
十歳ほどに見える娘は、戸惑っている様子でその場に立っていたが、
「お願いしますー」
と、こちらも頭を下げた。
「お前ら、この女を犯したいか?」
アンジェは、クラ語に切り替えて言った。
そう聞いたのは、犯したいのであれば与えるつもりであったからだ。
それで我が軍の士気が高揚するのであれば、構わなかった。
年増の女は、やはりシャン人の通例に従ってそれなりに顔が整っているが、それでも四十路には見える。
その上、出自は農民らしく、腕や足には余分な贅肉や筋肉がついて、恰幅が良い。
十八歳のアンジェにとって、隊員たちがこの女に抑えがたい劣情を抱くかどうかは、判断できかねた。
「……うーん」
二人の騎士は、顔を見合わせる。
何を考えているのかわからないが、質問に困っている様子であった。
「俺は別に、必要ではないです」
「こっちも、特には」
「遠慮をする必要はないのだぞ。私にはよく分からぬ問題だから、聞いているのだ」
「隊の男たちの総意は分かりかねますが、ちょっとこいつはトウが立ちすぎですな」
「子どものほうは幼すぎます……まあ、うーん……」
アンジェの騎士は幼女を見た。
「駄目ですね」
駄目らしかった。
そもそもが、アンジェからしてみれば、このような幼女は考察する余地もなく性対象外であろうと思っていたので、騎士が悩んだのは意外であった。
アンジェの中で、その騎士は株を一つ下げた。
「そうか」
アンジェは首肯したあと、
「では、縄をとけ」
と命じた。
「行ってよいが、食料は置いていってもらう。我らも食に貧しているのだ。慰みものにならぬだけ良しとしてもらおう」
少し恨みがましい目をしながら頭を下げた年増の女に対して、アンジェは酷虐をせずに済んだことを安堵していた。
言葉を覚え、会話することができるからだろうか。
やはり、人の形をした肉のようには思えない。
***
「お姉さん、お耳がまるいのね」
と、状況を知ってか知らずか、少女が言った。
同じ言葉が喋れることで、同種と勘違いしているのかもしれないな。とアンジェは思った。
「ああ」
「あたしの見たおんなのこの中でいちばんかわいいわ」
「そうか」
アンジェは、美しさを褒められるのは慣れている。
だが、シャン人から可愛いと言われたのは初めてであった。
本当であれば、少女にお返しの世辞でも言うところだったが、今まさに略奪をした戦争中の種に対して思いやりをするのは、何かが違う気がしたので、アンジェはやめておいた。
「行け。もう少し行けば、我らを追っている軍に保護してもらえるかも知れぬ」
「は、はい……それでは」
年増の女は、恐る恐る荷袋から金目のものを取ると、荷袋を置いたまま少女をかばうようにして、アンジェが来た道に行った。
「ユーニィ、ついていって、二度捕らわれぬよう後続に連絡しておけ」
「……ハッ」
斥候をしていた騎士が首肯し、送り狼のように親子を追った。
と言っても、アンジェたちが止まっているうちに、本隊は先行分を詰めてしまっており、道の向こうに姿が見えていた。
「ふぅ」
アンジェは乗ってきた馬車の足掛けに尻を乗せると、短いため息をついた。
淀んだ思考の中で、自分が偽善を為したのではないかという考えが浮かび、少しだけ考えてやめた。