第113話 罠作り
俺は、細い麻の紐を、ギュッと樹の幹に結びつけた。
「これでどうかな」
手を離すと、遊んでいた紐がスルスルと滑り、ピンと張る。
ここは、村の入り口から、昨日来た道を五メートルほど遡った地点だ。
紐は、道を横断して反対側まで伸びている。
そして、生木にねじこんだフックに引っかかり、上に曲がり、さらに太い樹の枝に引っ掛けられ、下に向かっている。
そして、終点には大きめの石が括りつけられていた。
最後の仕上げに、張力で千切れない程度にナイフで紐を削る。
誰かがこの紐を勢い良く蹴飛ばせば、ギリギリで石を支えている細い紐は千切れ、石は落下するだろう。
石の下には、洗い物用の大きな桶がある。
桶の中には、各家から集めてきたヤカンや、小さめの鍋がたくさん入っていた。
この高さから岩を落とせば、けたたましい音が出て、その音は村長の家まで届く、というのは検証済みだ。
つまりは、一種の警報装置であった。
「よさそうだ!」
キャロルの大きな声が聞こえる。
向こうも、きちんと石が吊れているらしい。
再び杖を持ち、少し移動して、更に道を遡る。
道路の石畳と迷彩色になるような木綿を選んだだけあって、風景に溶け込み、遠目には分からない。
馬上からではなおさらだろう。
「いいんじゃないか?」
と、同じくやってきたキャロルが言う。
「じゃあ、これで完成だ」
まあ、野生動物にやられちまったら張り直しになるんだけどな。
ウサギがかかるほど低くはないが、シカみたいのが通り過ぎたら引っかかる。
それはしょうがない。
「ふう、とりあえずは一段落ということか……」
作業服姿のキャロルは、汗をかいたのか、袖で額を拭った。
日が昇ってくると、この時期にしては珍しいほどの陽気で、気温が上がってきていた。
それにしても、農民が農作業に着ていくようなヨレヨレの服を、キャロルが着ているというのは、なんとも不思議な感じだ。
「これだけでいいのか?」
「ああ。もうロープも張ったし……とりあえず、これでいいだろう」
今度は手の込んだ罠を幾つも作るつもりはない。
キャロルの松葉杖も、さっき作った。
あとは、ロープを降りたところにクッションとして藁束でも敷いておくかとは思っているが、べつになかったらなかったで何も問題はないし、後回しで構わないだろう。
「じゃあ、風呂でもいれるか」
「……っ! そうだなっ!」
と言ったキャロルの声には、なんとも喜色が浮いて出たような響きがあった。
喜びが抑えきれないらしい。
「……ンッ、そうしよう」
軽くはしゃいでしまったのが恥ずかしかったのか、なぜか小さく咳払いしてから、キャロルはもう一度同じようなセリフを口にした。
***
「はぁ、はぁ……こりゃ参ったな」
なんでこの井戸はこんなに深いのだろう。
よほど水気の遠い土地なのだろうか。
紐を離すと、空っぽの釣瓶桶は縄に上に引っ張られ、ガチャッと音を立てて金具にぶつかった。
井戸についている釣瓶桶は、同じ重さの桶を適当な長さの縄で結び、それをてっぺんについている滑車に引っ掛けた形になっている。
縄の真ん中らへんで手を離せば重さが釣り合うが、今のような状態だと縄の分重さが偏るので、手を離せばこのように上がっていってしまう。
言うまでもなく、汲み上げにたいへんな労力が必要な設備だ。
これが阿呆らしいから手動の水汲みポンプを作ったのだ、と記憶が蘇る。
料理に使う水程度なら大した手間でもないが、風呂桶一杯分となると、とんだ重労働だ。
「大丈夫か?」
バケツを取りに来たキャロルが言う。
先ほど水を入れたバケツと交換に、空っぽになったバケツを置いた。
「大丈夫ではあるけどな、あとどんくらいだ?」
「今……多分半分くらいだと思う」
「半分か……」
うわー、って感じだ。
うわー。
でも風呂には入りたいしなぁ。
「……半分でもいいんじゃないか?」
「いや……休み休みいけば大丈夫」
どうせなら肩まで浸かりたい。
「替わろうか?」
「俺は歩くほうが辛い。こっちでいい」
「そうか。でも、無理はするなよ。キツくなったら私が両方やるから」
「いや……」
流石に、それはありえんだろう。
「休み休みやるとしよう。夜までに焚ければいいんだからな」
***
火吹き筒を使って、ふーーーっと息を吹きかけると、枯れ葉を焦がしていた小さな熾り火が勢いを増し、炎が生まれ、枯れた小枝に燃え移った。
火の勢いが強くなったのを見計らって、割られた薪を投入する。
しばらく見守ると、薪に火が燃え移り、鋳鉄で出来た竈の中で、火の勢いが強まっていった。
これでよし、と。
杖をたよりによっこら立ち上がり、万が一火が燃え移ったら大変なので、余った薪を杖の先で遠くへ転がし、火元から離しておいた。
この薪の量というのは調整が難しく、多くすると湯が煮えくり返ってしまう。
九十度を超えてしまったお湯というのは、冷水をお手軽に足すことのできない場所では、かなり手に負えない。
窓を開けっ放しで冷やすにしても大分時間がかかる。
なので、熱いお湯を冷ますより、薪を少なめにし、ヌルかったら薪を足して熱くするほうが簡単なのだ。
湯沸かしが一段落したので、俺は家を回って炊事場のほうへ向かった。
キャロルが、そちらで食事を作っているはずだ。
時計を見ると、もう午後五時近い。
少し早いが、夕食時といえば夕食時であった。
玄関にたどり着くと、キャロルはまだ料理をしているようだった。
「よう、進んでるか?」
声をかけると、
「うん、進んでるけど……あ~……かなり腹が減ってるのか?」
と、若干困った顔をしながら言った。
「いや……まだ大丈夫だけど」
竈のほうを見ると、なにやら鍋がグツグツと煮えていた。
灰汁と泡で何を煮ているのかわからないが、ほのかに残った匂いからすると、酒類で肉を煮ているらしい。
「まだ、もうちょっとかかりそうなんだ」
「そうか。手伝うことあるか?」
「いや、大丈夫だ。あとは軽く煮こむだけだから、休んでいてくれ」
「それじゃ、甘えさせてもらうか」
俺も、さんざん釣瓶を引っ張ったせいで疲れた。
とはいえ、どうせなら二階の持ち場付近で休んでいたほうがいいだろう。
どうせ、敵のほうも今からは来ないだろうけど。
偵察行動は、もちろん良く周囲を見回すことが肝心なので、夜にやっても仕方がない。
日が落ちるまで一時間を切った、今のような夕暮れ時にやってくるのは、かなり間抜けだ。
しかし、まだ完全に日が落ちたわけではないので、百パーセントこないとも言い切れなかった。
俺は靴を脱いで玄関を上がり、二階への階段を登った。
よっこらよっこら登り終えると、自分の部屋として使っていた書斎へ向かった。
ミャロの寝室と、キャロルの寝室には用があって入ったが、そういえば戻ってから書斎には足を踏み入れていない。
ドアを開けて中に入ると、やはりここも、出て行った時のままだった。
角笛が置いてあった棚を見ると、土産物らしい小さな置物を重石に、紙が置いてある。
手にとって見てみると、そこにはギュダンヴィエルの紋章が書いてあった。
もし一階でわからなかった場合、ここに来れば流石に解るって仕組みなわけか。
ミャロらしく、手が込んでいる。
一先ず紙を置いて、部屋を見渡し、いつも座っていた椅子に座ってみた。
そのまま眠ってしまえるような、座り心地のよい椅子だ。
ひどく安らいだ気分になる。
ふいに、いつもしていたように、窓に目をやった。
なにか妙なものがあった。
真っ黒な何かが窓辺にぶら下がっている。
あっ。
熊胆だ。
すっかり存在を忘れていた。
干しっぱなしにして出てきたんだった。
乾いた空気に晒された熊の胆は、出て行った時とはだいぶ様変わりしており、すっかり水気が抜けていた。
全面がしわくちゃになって、みずみずしい革水筒のようだった頃の面影はない。
見違えるほど萎んで、黒に近い色になっている。
吊り下げていた窓の金具から下ろし、触ってみると、まだ完全に硬質ではなく、ぐにっとした柔らかさがあった。
流動性は失っていて、柔らかいながらも切っても崩れないカラスミのような感触だ。
これ以上硬くなるのかな?
しかし、この様子だと、もう外膜を破っても、中身は溢れでてはこないだろう。
たぶん、食べても問題ない……はず。
熊胆というのは、薬の効能としては、胃腸の調子を良くし、消化を助けるものだ。
なので、一般的には食前に湯に溶かして飲んだり、カケラを飲み込んだりする。
粗食の長旅をこなして戻った今、これほど飲むに相応しい時はなかなか無いだろう。
俺は階段を降りていった。
***
「キャロル」
「ん?」
灰汁を掬っていたキャロルが振り向き、俺がブラ下げていた熊胆に目を留めた。
「あっ……それは」
「熊胆だ」
「すっかり忘れていた」
キャロルも忘れていたらしい。
色々あったからな。
「俺もだ。食前に飲むと消化に良いと言われるものだからな。持ってきた」
胃腸の負担をやわらげるものだから、本当なら昨日の食事の前に飲んだらよかったのだろうが、遅ればせながら今飲んでも悪いことはないだろう。
「そうなのか。それはいい」
そのセリフを聞くと、ふと何か大切なことを忘れているような気がした。
何かすごく楽しみにしていたことがあったはずなのに、何だったっけ、思い出せない、といった、なんとも煮え切らない気分だ。
うー……ん。
「……ん? どうした?」
「いや……何か忘れている気がしたが、思い出せないからいい」
「そうか? じゃあ、早速食べてみようか」
「料理のほうはいいのか?」
「もうできた。あとは皿によそるだけだから」
「そうか。そんじゃ早速飲んでみるとするか。ちょっと包丁とまな板貸してくれ」
と、俺は包丁を預かり、まな板に黒い塊をのせて、一部を切りとって切れ端を二つ作った。
やはり、切り口からドロドロと中身が流れてくる様子はない。
残りの熊胆を乾いた布巾で包み、切れ端を小皿に乗せた。
忘れずに、飲み込むための水も用意する。
「こんなものなのか? それをそのままかじるのかと思っていた」
「いやいや、なんでだよ」
どういう発想だ。
なんてことを言いやがる。
そんなことをしたら、口の中がえらいことになってしまう。
苦味の塊のようなものなのだから、かじるどころか噛むような物ですらない。
なんの罰ゲームだ。
「その食べ方は、むしろ体に悪いと思うぞ」
「そうなのか? まあ、言うとおりにしよう」
「じゃあ、飲むか」
と、俺は手っ取り早くまな板の前で、長さ1センチほどの熊胆の切れ端を口に入れた。
すぐにコップの水を口にいれ、ごくんと飲み下す。
それでも、後を引きそうな苦味が舌を刺した。
相変わらず苦いな。
「――ヒッ」
と、隣から何とも形容しがたい音が聞こえた。
例えるなら、鳴き声麗しい小鳥の断末魔のような。
そちらを見ると、キャロルがちょっと見たことのない表情をしていた。
髪の毛が逆立つような表情、というか。
それを見た瞬間、俺はなんとも言えない満たされた感覚を覚え、一瞬にして思い出した。
そうだった。だまくらかしてたんだった。
確か、お菓子みたいに甘い味がするとかなんとか教えた気がする。
しまった。
すっかり忘れていた。
「~~~~~~っ!!!」
必死な顔で口を抑えはじめたキャロルを見て、俺は発作的におこった笑いの衝動を、かみ殺した。
「ぐっ……大丈夫、か? 無理だったら吐き出したほうが……いい、ぞ」
「んんん~~~~っ」
キャロルは、涙目になり、口を抑えて首を振っている。
見る人が見たらひどく興奮しそうな絵面だ。
俺は即飲み下したからいいが、味わって舌で転がしてしまったんだろうな。
奥歯で噛んでたりしたら最悪だ。
「ほ、ほら」
と、俺はさっき使った、まだ半分水が入っているコップを、キャロルに手渡した。
キャロルは無我夢中でコップを手に取り、水を口にふくむと、ベっと吐き出した。
もう一度残りの水を大量に口に入れると、ぐじゅぐじゅと口の中をゆすいで、やはりべっと吐き出した。
「なんだこれは!!!」
口元を拭いながら吐き捨てるように叫んだ。
はあはあと肩で息をしながら、憎しみの形相で、先ほど布巾に包んだ熊胆を見つめた。
どうやら事態を整理できていないらしく、今のところ憎しみは俺でなく、苦い味のする食べ物にぶつけられているようだ。
「飲んでしまった……毒だったのか?」
と、心配げな様子で、なにかを相談するように言った。
「…………………いや、飲んでも大丈夫なんだぞ」
ふーっ。
落ち着け落ち着け。
言うほど面白くねえよ。笑うほどのことじゃねえって。
「しかしこれは……腐っていたんじゃないのか? 今からでも吐いたほうがいいんじゃ……」
「あー………くっ……すーっ、はーっ………教え忘れてたが、元々苦いんだ」
「……は?」
呆けたような顔で首をかしげる。
「前に甘いと言ったが、ありゃ嘘だった」
俺がそう言うと、キャロルの顔はとたんに険しくなった。
「なんだって? もう一度頼む」
「苦いものを甘いと嘘をついてた。すまんな」
「心臓が止まるかと思ったのだが?」
「今の今まで忘れてたんだ。今思い出した」
「どういうことだ? 騙すなんて」
「騙してたわけじゃ……薬なのは嘘じゃないし……ちょっと騙してたのを忘れてただけでさ」
「騙してるじゃないか」
やべぇかなり怒ってる。
騙したのは事実なので言い逃れのしようがないし……。
「すまん」
と素直に謝った。
「謝れ」
えっと。
さっきのはカウントに入らないのか……。
ま、まあ減るもんじゃないし二度三度やっても悪くはないよな。
「すみませんでした」
重ねて謝った。
都合三度謝ると、すっとキャロルの表情から怒気が消えた。
よかった。百度とかだったらちょっとキツいところだった。
「まったく、なんでこういう時にふざけるんだお前は……」
怒りは引き潮のようにひいたようだが、今度はなんだか呆れているご様子だ。
「いや……騙した時はまだ気楽な感じだったし……」
「言い訳するな」
睨まれた。
「はい……」
「ん……いや、反省しているならいい。それより、食事にしよう」
「そうだな」
俺がいうと、
「あっ」
と、唐突にキャロルが何かに気づいたような声を上げた。
「ん?」
鍋でも吹きこぼしたのか?
「あ、あ~~~~……っと」
「なんだ?」
「そ、そうだった。お前は悪いことをしたんだから、そ、その……つ……つぐないをしてもらうからな」
「償い?」
なんだか妙な話になってきたぞ。
償いってなんだ。
「お、お風呂で……、せ、せせせせなかを流してもらうからな」







