第108話 死の刃
「なんだ?」
舌戦は避ける方向ではなかったのか。
「お前のことが少し知りたくなった」
「……?」
なんの話をするつもりだ。
「なにかしら手を隠しているにしろ……それでも戦いは五分といったところだろう。勝利を確信しているわけではないはずだ」
五分。
まあ、そんなところだろうな。
どちらかといえば、こちらに不利だろう。
別に奥の手があるわけでもないし。
「そうだな」
「貴様の態度からは恐れが感じられない。捨て鉢になっているならわかるが、そうではないだろう」
どうも、俺が怖がっていないのが不思議らしい。
怖がるというか、無意味に竦んだり奮ったりせず、リラックスできているのが奇異に思えるのだろう。
そういうタイプなんだ、としか言いようが無い。
死や、死んだあとのキャロルの行く末がどうこう、などという心配事は、今考えても意味がない。
身が竦むどころか、むしろ全力を尽くせるこの状況を、楽しんですらいる。
今こそが、これまで励んできた修行、鍛錬の成果を発揮するときなのだ。
死ぬとか生きるとか、戦いで手足を失って不具になるとかは、その結果にすぎない。
「俺の頭がおかしいんじゃないか」
「狂人ということか?」
「そうだな。それで納得しておいてくれ。まあ……」
お前が仕事を諦めて帰ってくれるなら別だがな。
と言おうとして、口から出なかった。
考えてみれば、こいつは殺すしかないのだ。
やっぱ帰る、と言ってくれれば、昨日の状況であれば泣いて土下座して感謝するところだったが、今では追いかけてでも殺す必要がある。
キャロルの存在を知ってしまったからだ。
もし逃がし、キャロルの存在を報告されてしまえば、次にくるのは十人かそこらではなく、その百倍、下手をすれば千倍の人数だろう。
敵の優勢圏や補給網がどれほど伸びているかは不明なので、それほどの人数をここまで奥まった場所に展開できるのか。という部分はあるが、今回の戦争でのこちらの不甲斐なさを思えば、そこまで優勢を取られていても不思議はない。
実際、こいつらは俺たち二人を追うのに千人まで投入してきている。
金髪の王族というオプションがつけば、次にやってくるのは一万人、というのは、現実にありえる話だ。
「まあ……そろそろ話はいいだろう。戦争で美談を作る必要もない」
「それもそうだな」
カンカーが握りを直す。
俺は自分から再開を申し出はしたものの、こちらから手出しはできなかった。
松葉杖はだいぶ強く作ってあるが、有効な打撃を加えられるのは頭、もっといえば顎くらいだろう。
先端が重いとはいえ、ただの棒だ。
鎧われている肩や足をいくら打ち据えたところで、ダメージは知れている。
文字通り、痛くも痒くもないだろう。
となると、顎を打ちに行くとしても、かなり深く踏み込まねばならない。
カンカーは剣をまっすぐに、平青眼気味に構えている。
平青眼とは、鍔元を握っている腕を隠すように若干剣を傾ける構え方だ。
そうすることで、体の中で最も前に出ている握り手への攻撃を、防ぎやすくしている。
ぶっちゃけ、その手のところも鎧で覆われているので、剣を傾けるのはあまり意味がない。
カンカーが習得した流儀の教えで、体に染み込んでしまっているものなのかもしれない。
ここから無理をしてアゴを打ちに行ったとする。
カンカーは肩か頭を少し動かして、冷静に打撃を受けるだけだろう。
そのあと一歩を踏み出し、まあ必要なら腕も伸ばして、俺の腹にぶっすりと剣を突き刺す。
なんの困難もない。
俺の体は勢いで前に伸びているから、避けようもない。
それで終わりだ。
やはり、カンカーの動きを待って、こちらは合わせていくしかない。
「行くぞ」
俺に対してというより、自分に対して言った言葉なのだろう。
一言前置きをすると、カンカーは動き始めた。
体全体が伸びてくるような突きが、俺の鳩尾を狙う。
間合いを見定めて半歩退き、突きを外しながら、半ば反射的に打撃を合わせた。
が、突きの勢いは途中で止まり、俺もピタっとスイングを止める。
剣は翻り、俺の腕を狙って切り上がってきた。
左腕を上にあげ、すんでのところで斬撃を避けるが、カンカーの動きは止まらなかった。
切り上げの勢いをそのままに、体を半回転させ剣を後ろに回した。
「フンッ!」
カンカーは、大きく踏み込みながら、くるりと回って地滑りするような軌道から剣を繰り出してきた。
とっさに大きく後ろに飛ぶ。
踏み込みながらの体を伸ばした斬撃は、予想外に伸びてきた。
目の前を、下から上へと、ピッと空気を斬り裂くような斬撃が走っていった。
あっぶねえ。
思いつきでは出せない大技だ。
流派の技なのか知らないが、さんざん練習してきた動きの一つなのだろう。
冷や汗が出る。
「足が悪いのは本当のようだな。庇っている」
改めて剣を構え直し、乱れた気息を改めると、カンカーはわかりきったことを言い始めた。
今日はやけに喋りやがる。
「お前も、鎧が壊れているらしいな」
乗ってやるか。
「やはり気づくか」
「実を言うと、曲げておいたのは俺だしな」
俺は、カンカーが置いていった鎧を破壊しようとした。
胴まわりを変形させるのは無理だったが、腕の部分だけは、指の先のところを持って、木に何度か叩きつけてみた。
一見して分かるような歪みは見えなかったが、あれが良かったらしい。
カンカーはそのまま装着したようだが、肘部あたりが変形していたのか、明らかに曲げ伸ばしに問題を生じているようだった。
ギィギィと音が聞こえるほどではないが、腕を曲げ伸ばしするときだけ動作に鈍りがある。
こうして、真剣に対峙していると、それが良く分かった。
それがなかったら、先ほどの一撃で斬られていたかもしれない。
あるいは、剣にキレや伸びが足りていないと思ったがゆえの大技だったのだろうか。
「捨てなかったのは、あとで買い直す金が惜しかったからか?」
と、俺は挑発じみたことを言った。
実際には、鎧を付けていたほうが良いか、脱いだほうが良いかというのは、相手の武器にもよる。
が、俺だったら、俺を相手にするとして、これほど鎧が悪くなっているのであれば、捨てていっただろう。
「家伝の鎧だ。貧乏なのでな」
「そうか」
まあ貧乏なのは鎧の出来を見りゃ分かる。
粗末な甲冑だ。
博物館に保管されて後世まで伝えられる類の甲冑ではなく、歴史のどこかで不要になった時、捨てられ、溶かされ、ナイフやフォークになってしまうような鎧だ。
当然、貧民と比べれば金持ちなのだろうが、ようやく甲冑を一領維持していける程度の家なのだろう。
だからこそ、剣の修練に励んだのかもしれない。
想像がはかどるな。
「お互い、相手が万全でないのは分かったな。まあ、こういうのも趣があって悪くない」
と俺は言った。
戦力や状況を勘案すると、やはり俺が圧倒的不利なわけだが。
腕前や傷のハンデが同じくらいと仮定しても、片方は裸同然、杖一本。
敵に有効なのは顎くらい、まあ頭を思いっきり殴れば多少効くかな。ってどうなんだよ。
前の時は俺が勝ったといっていいような内容だったから、なんとなく楽観視していたが、やっぱり爆弾でもなけりゃ絶望的だ。
「そうだな、始めるとするか。そちらからは動かないようだ」
動けるかよ。
と思った瞬間、ピュン、と刃が伸びてきた。
スッ、と摺り足でわずかに後ずさり、寸前で避け、閃光となった鋼が目の前を通り過ぎる。
最初の斬撃は十分に見切れる。
カンカーは更に大きく一歩を踏み出し、戻りの一閃は剣の向きが違った。
一転、長剣は足を薙ぎ払うかのような軌道を見せる。
動きがにぶい足を狙ってきた。
俺は即座に前に出ていた右足を引き、剣をかわした。
だが、カンカーはもう一歩踏み込み、更に剣を繰り出してくる。
左足を引き、それをかわすと、つま先で地面を踏み、足裏の皮が伸びた時、走るような痛みを感じた。
縫い糸がぴっと張り詰め、皮がパリっと裂けるような感覚。
思わず、顔をしかめる。
あっ、駄目だ。
という思いが脳裏をよぎる。
このまま後退しても、続かない。
怪我のせいで、退がる速度より、カンカーの追いすがる速度のほうが早い。
そうなれば、幾ら退がっても、カンカーの剣は近いうちに俺の体に届くだろう。
そして、カンカーは更に足を狙った剣を繰り出してきた。
俺は手を出していた。
後ろに下がるのではなく、前に一歩踏み出す。
剣が届くより先に杖を突き出し、脇当ての横木でカンカーの胸を突いた。
恐らくは鎧を含めて100kg近い重量は、岩を押したように重かった。
丈夫な槍の柄でできた杖がしなるほどの勢いで突き、勢いを殺すと、体重の軽い自分のほうが飛ばされてしまった。
なんとか、距離を取ることには成功する。
カンカーは、ただ構え直した。
俺にとっては結構な冒険だったわけだが、カンカーにとっては元気が削がれたわけでもなく、当然ダメージもない。
構え直しただけだ。
対して俺のほうは、足裏に鈍痛がある。
糸が引き攣れ、僅かに出血している気配すらある。
削られているのは、俺の方だ。
最初から解っていたことだが、足裏がこの有様では、短刀で接近するのは無理だ。
無茶をしたせいで、ズクンズクンと疼くような痛みがあり、足首あたりから下が、赤黒い血袋になったように不自由だ。
昨日のように、素早い身のこなしで剣を掻い潜るのは、夢のまた夢だろう。
「ふーっ」
駄目だな。
詰んでる。
普通のやり方じゃ駄目だ。
「……身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、か」
思わず日本語が口をついて出ていた。
「……? 今なんと言った?」
訝しげに、カンカーが尋ねた。
「次で終わりにする、と言ったのさ」
必要なのは覚悟だ。
俺は杖を両手で担ぐと、軽く下がりながら、間合いを確かめるように何回か振った。
最後に、片手で柄の根本を持って肩から腕を伸ばして振る。
ぶおん、と杖が風を斬る。
もう何回か同じことをやったら、カンカーは動き、杖はスパっと二つに斬れるだろう。
今のは、見逃されていただけだ。
だが、片手で振りに行けば、思ったよりのリーチは稼げることは分かった。
「次で、お前の頭を打って終わりにする」
「……そうか」
さっきの俺の発言と行動で、カンカーはどう思ったろうか。
俺が後の先を狙っていると思うか。
それとも、先の先を狙っていると思うか。
どちらにせよ、俺は武術の奥義を極めた達人ではないので、動きの兆しとやらを知覚して先を制するとかなんとか、そんな高等技術など使えない。
カンカーの動きの起りを見て、動く前に顎を貫く。なんてことは無理だ。
一つ分かるのは、俺が動くとすれば、カンカーはまず杖を切って落としたいと思うだろう。ということだ。
足が悪い人間が短刀など持っていたところで、カンカー相手にはどうにもならない。
まずは俺の松葉杖を短くする。
そうすれば、さっきのように刃圏の際のところから胸を突かれて追いやられる、なんてことはない。
この長い杖は余りに頼りないが、この杖がなければ、足のない俺に太刀打ちする術はないのだ。
さっきの展開は、杖がなかったら終わっていた。
まずは杖を短くし、そして追いに追い、ついには斬る。
それが、カンカーにとっては最も安全な戦法だ。
何の難しさもない。
すでに詰み筋が見えているのに、妙な冒険などする必要はない。
「ふう……」
俺は杖を両手で持ち、天を衝くような大上段に構えた。
カンカーの目が一瞬、訝しげな目に変わる。
それはそうだろう。
大上段という構えは、もちろん振り下ろす動作に派生する。
大上段からの頭への一撃は、あらゆる構えの中でも最も素早く、強力な打撃となりうるが、カンカーの頭蓋の上部は兜に守られている。
大上段からの脳天への直撃という、最もしたたかな一撃を受けたところで、大きな衝撃を感じて視界に火花が散る程度で済むはずだ。
肩も同様に守られているので、鎖骨を折られる程度のことも起こらないだろう。
弧を描くようにして斜め上から顎を打つ、というのもできなくもないが、力の向きを変えれば威力が落ちるので、一撃で昏倒、というのは難しい。
一撃で昏倒させるなら、さっきのように肩に担ぎ、野球のバッティングのように顎を打ちぬくのが正解だ。
俺がなにをするにしろ、一撃で昏倒させなければ、交差したあと命が残るのは、カンカーのほうだ。
「行くぞ」
フッ、と短く息を吐いて、俺は一歩踏み込んだ。
同時に、カンカーの頭蓋をヘルメットごと叩き潰す勢いで、杖を振り下ろす。
踏み込んだ足が地についた瞬間、俺はビタッと体を止めた。
全身の肉が石になったかのような、短い硬直。
カンカーは、俺の渾身のフェイントに反応していた。
思い切り剣を振り上げ、杖を切ろうとしている。
が、そこに杖はない。
刹那の判断が頭を過ぎる。
恐れが過ぎ去る。
恐ろしかったのは、カンカーが打撃を無視して体ごと突きに来ることだった。
頭を打たれるのも、顎を打たれるのも無視して、俺の命を一直線に取りに来ることだった。
が、それはなく、カンカーはあくまでも杖を切断することに執心した。
カンカーの長剣は、俺の目の前を下から上へと過ぎ去り、ピッと空中で止まった。
そして、一転して剣を翻し、もう一歩を踏み込み、俺を捉えようと伸びながら振り下ろした。
そう動くのは解っていた。
カンカーの剣術は、静かな剣ではない。
剣から剣を、次から次に繰り出し、ついには敵を切り伏せるという、猪のような剣だ。
そういった剣には、常に攻めっ気がある。
今まで何度か攻められ、目で観察し、俺は覚えている。
道場稽古のように摺り足で追いすがるのではなく、足を交互に踏み込んでゆくことも。
俺は、両足で地を蹴り、ぽんと後ろに飛んだ。
飛びながら、どこにも力を入れず、ひょいと焚き火に小枝を放るようにして、杖を手放した。
突き放すような手つきで放たれた杖は、ふわっと空中でほんの短い放物線をえがく。
カンカーの峻烈な踏み込みが、柄の部分を鋭く蹴りこむ。
踏み込みと同時に繰り出された剣が、後ろに飛んでいなければ未だ体があったであろう空間を斬り裂く。
もう杖はない。
このまま先程と同じように、斬撃に次ぐ斬撃を繰り出され続ければ、俺は終わる。
が、杖がカンカーの足下にある。
これが、ただの長いだけの棒であったなら、カンカーに蹴り飛ばされて終わりだっただろう。
だが、松葉杖として加工された杖は、重心が真ん中にない。
余分なものが付いているぶん、そっちのほうに質量が偏っている。
コンッと猛烈な勢いで蹴り飛ばされた柄は、ぐるんと大きく弧をえがく。
対して脇当ての方は、鋭く短い弧を描き、カンカーの両足の隙間に、スルリと入り込んだ。
カンカーの目が勝利を確信する。
明らかに間合いの範囲内にいる、手ぶらの俺を切り裂こうと、必殺の剣を繰り出した。
それと同時に踏み込んだ右足が、半回転した杖の柄を、再び蹴る。
前に蹴った時と違うのは、柄の反対側の横木は、ぴったりと左足のかかとにくっついていることだった。
足がもつれた。
両足を繋がれたカンカーは、一瞬でバランスを崩した。
それは、たたらを踏む程度では修正できず、膝をつくほどの勢いだ。
まさに垂涎。
涎を垂らしたくなるような隙に、体が反応していた。
怪我をしていない右足で軽く踏み込むと、前進の勢いを殺さぬまま、左膝を立てる。
たったそれだけの動作。
極限の集中のなかで、ゆっくりと景色が流れる。
絶望的なまでに遠かったカンカーの顔面が、手頃な位置に、無防備に迫ってくる。
健常な右足はしなやかに地面を蹴り、一気に伸びた体の勢いが、大腿筋によって加速された膝に、更に乗る。
膝は、カンカーの顔面に吸い込まれるようにして入った。
肉をひしゃぎ、肉を鎧った骨を一気にうち砕く感覚。
交錯が終わった時、カンカーはその場に崩れ落ちた。
***
「はぁ……はぁ」
終わると、緊張の糸が切れたかのように、虚脱感が押し寄せてきた。
息が切れるほどの運動はしていないのに、何故か息が切れ、むやみに口で呼吸をする。
「勝った」
その事実が信じがたかった。
「勝ったぞ」
口にすると、なんとも言えない空々しさが背筋に残った。
勝ったというのは誤りだった。
まだ、カンカーは死んでいない。
カンカーを見る。
仰向けになって昏倒しており、ピクリとも動かず、長剣も手放していた。
が、まだ死んではいない。
はずだ。
脳震とうかなにかで昏倒しているだけで、まだ息はあるのだろう。
俺は、とっさに長剣を蹴り飛ばし、手の届かない遠くへやった。
カンカーはまったく抵抗をしない。
今のうちに殺しておかなければならない。
ここでカンカーを生かしておくことが、後に俺とキャロルを殺すかもしれない。
俺はカンカーの兜を脱がした。
やはり抵抗はない。
心の縁に、殺害への抵抗が、さざなみのように打ち寄せた。
俺はもう何人もの人間を手にかけている。
だが、一時でも言葉をかわした人間を、斬り結んだ終着としてではなく、こうして改めて殺害しようとするのは、初めての経験だ。
だが、例えば縛っておいて俺が安全圏内まで脱出するまで無害化しておく、という選択肢は、俺にはない。
何者かがカンカーを解放すれば、今のような生死をかけた死闘が、今度はもっと悪い条件で始まるかもしれないし、どの道キャロルの存在を敵方に知られることになる。
もしこの世に森羅万象を司る神様がいて、口頭での約束を絶対的に履行させてくれるのであれば、キャロルの存在を秘匿することを条件に解放するというのも、アリかもしれない。
が、現実にはそんな神様はいないのだ。
人と人とが信頼関係を結び、命の取り合いをしなくて済むようにする、というのは、簡単なようでいて、残酷なまでに難しい。
いや、そういう問題でもないか。
俺が、こういった殺人に対して、さほどのハードルを感じることもなく一線を超えられる人間である。
ただそれだけの話だ。
俺は、裸になっているカンカーの首に腕を回し、ぎゅっと頸動脈を締めた。
***
五分ほどの行為が終わり、呼吸と心臓の停止を確認すると、俺はカンカーを仰向けに寝かせた。
今はじめてカンカーの顔面を見ると、短刀での傷に打撃が加わり、目を覆いたくなるような惨状だった。
顔に布をかける。
あとは……せめて葬式でもしておいてやろう。
えーっと、一応イーサ先生に習ったはずだが、なんだったかな。
最初に胸の上に十字を置くんだったよな。
戦場では、ツバの付いた剣で構わないはずだ。
俺は、カンカーの長剣を胸の上に置いた。
『全能なる主よ、今まさに現し世で命尽き果てしこの者、陰府への旅の一歩を踏み出ししこの者へ、冥道へ導く聖なる標を与えたまえ。この者、聖なる御役目を果たし、今この地に果てり。故に、迷うことなく聖なる地への道程を歩むべき者である。この者へ聖標を。アリルイヤ』
聖職者でもなく、というか洗礼も受けていない俺がこんなことをやっても、意味はないのだが、気休めにはなるだろう。
聖標というのは、秘跡四行のうちの一つなので、連中にとっては重大な意味を持つ。
その四つは、洗礼、告解、結婚、聖標のことで、誓いの秘跡だの叙階の秘跡だのという、雑多な秘跡は含まれない。
原点が、イイスス自身の書いた聖典に存在する秘跡だ。
これをしないと、イイスス教的にはあの世への道を永遠に迷う……わけではないが、ニュアンス的には、きちんとした道標がないので迷う可能性が高くなる。
つまりは葬式であり、死後速やかに行う必要がある、とされている。
これをしていない死人は、社会的な立場があまり良くなくなるらしいのだ。
俺はナイフの切っ先を使って、カンカーの鎧に一文を書いた。
この者、聖標の導きにより陰府への道を滞り無く歩みし者也。
名を、カンカー・ウィレンスと言う。
これで、遺体が回収された後も、ああ誰かが秘跡を行ってくれたのだな。迷っていないのだな。とされ、遺族も安心できる。
遺体が回収されれば、の話だが。
しかし、誰がやったか書いてなければ説得力がないか。
ユグノー
と、末尾に小さく名を書いておいた。