第4話
エリックは、神殿からエジェンスの中のリュシールの部屋へと急ぎながら、これまでの長い道のりを思い返していた。
王子という立場を使えば簡単に手に入る、と思っていたのはリュシールの名前を知るまでのことだった。
彼女が誰で、婚約者が誰かとわかったとき、それは思うほど簡単なものではないと覚悟を決めた。もちろん、諦めるなんてことは欠片も思わなかった。
欲しい物を欲しいといって何が悪い?!
男3兄弟の末っ子。油断していると、好きなおやつも本も兄たちに奪われてしまう立場だったエリックは、欲しいものは大声で主張しろ、そして手に入れるためにあがけ。と教育されていた。
「ファストロ国のリュシール姫が欲しい」
兄弟や父王にそう宣言すると、さすがに渋い顔をされてしまった。
『両国の関係改善のための婚約である』
と、二人の婚約を整えるときに非公式に連絡がきていた。
よほど帝国の機嫌を損なうことを恐れているようで、わざわざ「同盟を組んで、帝国に歯向かおうと思っているわけではない」と言い訳を伝えてきたらしい。
たかが農業国が2国。もし同盟を組んで襲ってきても大したことはない、と当時の帝国上層部は婚約を承認した。
そんな経緯があり、デガルト帝国の王子であるエリックは、すぐに表立って動くことはできなかった。
ならば裏で動くしかない、とエリックは自国に戻ってからすぐに足固めを始めた。手っ取り早く帝国内で発言力を手に入れるには、軍に入ることが望ましい。
勉強も鍛錬もサボリがちだったエリックには、簡単なことではなかった。『末の王子』という肩書は実力主義の軍の中では『甘ったれ』と同義語だった。
サボっていた分を取り戻すかのように勉強に鍛錬に勤しみ、利用できるものは利用して、ようやくそこそこの地位を手に入れた頃には、リュシールに会ってからすでに4年の月日が流れていた。
その間、一度たりともその姿を見ることができなかったが、きっと美しく成長しているだろうと思うと、エリックの中に焦りが生まれた。
12歳。もう初恋を経験しただろうか。
まさか婚約者のことが好きになっていないだろうな。
慣例でいけば、15、6歳で結婚。あと3年ほどの猶予がある。
まだ自分の地位が盤石とは言い難かったが、エリックはそれ以上我慢することができなかった。
「あの男に適当な令嬢を近づけろ」
何人かタイプの違う女性を近づけると、そのうち一人に簡単に食いついた。
誰かに頼らねば生きていけないような、可愛いだけの頭が足りない令嬢だった。
趣味の悪さに、エリックの中のアレックスの評価がますます下がった。
あんな媚びた瞳よりも、強い意志を持つ青い瞳がいい。
「私と一緒に逃げて」という令嬢の言葉に、アレックスはうだうだとはっきり拒絶することも承諾することもしなかった。リュシールはきっぱりと断ったというのに。
今すぐにでもリュシールを手に入れたかった。
もう一分一秒たりとも、あんな男の隣にいさせたくない。
そうは思っても、まだ根回しが足りなかった。合法的に、誰にはばかることなく、自分だけのものにしたい。
チャンスが巡ってきたのはそれから3年後の結婚式当日のことだった。
リュシールと出会って7年。
エリックは第1師団の師団長を任せられるようになり、軍の参謀とまで呼ばれるようになっていた。これで多少の無理はできる、という黒い本心を、ここ数年で標準装備になった笑みの下に隠し、この日を迎えた。
リュシールの予想外の動きによって、アレックスたち二人を逃がすことになってしまったが、一番重要なことは、何一つ変わっていない。
リュシールの部屋の前で、エリックは立ち止まって沸き立つ心を静めた。この扉の向こうにリュシールがいる。
やっと手に入れられる。まずは何と挨拶しようか、と高鳴る胸に震えそうになる手で扉を押し開いた。
「アサード国なんてどうかしら?」
耳に飛び込んできた、間違えようのないリュシールの声に、全身に水をかけられたかのように興奮が冷める。
結婚が破談になった後の、リュシールの逃げ道をふさぐために、ファストロ国の身分の釣り合う男どもを結婚させて片づけた。ほとんど婚約者がいたので、それほど難しいことではない。
0歳児はさすがにどうしようもなかったが、それと婚約するとは言わないだろうと、エリックは万全だと判断した。
しかし、まだ足りなかったらしい。
アサード国といえば、海産物と塩の生産で有名な国だ。そして、降嫁した王姉の息子がリュシールと年齢も釣り合う16歳。
あんな遠方まで嫁ごうというのか。
「それは困ります」
考えていた挨拶も何もかもすっ飛ばして、エリックは思わず止めに入っていた。
完全に扉を押し開いて中に入ると、応接用のソファの上に寝転がっていたリュシールが慌てて起きるところだった。その姿が7年前の姿に重なり、思わずエリックは口を滑らせていた。
「本当にどこでも寝転ぶんだな」
懐かしさに、わずかに笑いが混じる。
立ち上がったリュシールが、戸惑いながらじっとエリックを観察するかのように見ていた。
これほど近くで出会うことはあの日以来。
本当に綺麗になった。
予想以上に美しく成長しているリュシールに、エリックは冷めたはずの興奮がまた沸き起こってくるのを感じた。
覚えているだろうか、とエリックはわずかに緊張しながらリュシールの反応を待った。
見つめあう二人の沈黙は、リュシールの後ろに控えていた侍女の軽い咳払いの音で破られた。
「失礼いたしました。まさか女性の部屋に無断で入ってくる方がいるとは思わず、くつろいでおりました」
やはり覚えていなかった。
リュシールの皮肉よりも、そのことにエリックは軽い失望感を味わった。
たった2日。しかも最後は怒らせて別れてしまったのだから、覚えていないのは仕方がないことだろう、とエリックは無理やり自分を納得させる。
自分勝手な失望が表にでないように、エリックはいつもの笑みを浮かべて挨拶をした。
「いいえ、こちらこそ失礼を。入口に誰もいなかったので、勝手に入ってしまいまして」
「それは…申し訳ありません」
「お気になさらずに。申し遅れましたが、私はデガルト帝国軍第1師団 師団長エリックと申します」
名乗ると、わずかにリュシールが目を見張った。
どうやら名前くらいは知ってくれていたようだ。
しかし、エリックの噂はあまりいい物はなく、リュシールが聞いていたのもその手の類らしい。微妙に顔をひきつらせて、挨拶を返してきた。
「ご丁寧にありがとうございます。私はファストロ国王弟の娘 リュシールと申します。エリック様、少々立てこんでおりまして、また場所と日を改めていただければと…」
やんわりと追い出そうとするリュシールの意図を、にっこりと笑って「いえ、用事はすぐ済みますので、この場で結構です」と押し切った。
リュシールがシュフルのブーケを握りしめたのが見えた。
シュフルはエリックにとっても思い出深い花だ。けれど、エジェンスを象徴する花でもある。それを未だに手放さず持っているのは少々面白くなかった。
「先ほどの神殿での出来事。心からお見舞い申し上げます」
「―――それは」
と言ったきり、何故か口を閉じてしまった。
なんと言おうとしたのか気になるが、自分のペースに巻き込んでしまいたいので、エリックは強引に話を進めた。
「ですが、あの対応。本当に素晴らしかったです」
じっと見つめて、すぐ手の届くところまで近寄っていくと、リュシールの身体がわずかに逃げていた。
また逃げられてしまうのだろうか?
7年前のリュシールの後ろ姿が浮かび、エリックは焦った。
逃げられる前に、ずっと伝えたくて我慢していた言葉を早く言わなくては、とエリックはおもむろにリュシールの目の前で跪いた。
「えっ」
動揺しているリュシールの手を取り、持っていたシュフルのブーケを引きはがした。花嫁衣装の白い手袋に包まれたそれは、きっと昔のように白く滑らかだろう。直接触れたい、と邪な思いを抱きながら、エリックはそれに唇を寄せる。
「惚れました。結婚してください」