第九章
禿げ鼠は怒っていた。それには充分な理由がある。
一つには敵を完全に逃がしてしまった事。火矢を放った東の敵も、あの忌々しい騎馬隊もである。野営地に残る敵兵の遺骸は八千との報告があった。どうせ水増ししてあるだろうから、実際は五千から六千辺りだろう。残り五千以上の敵騎兵をまんまと逃がした計算になる。しかも後を追わせた全騎兵の内、半数が戻らなかった。責任者を処刑して一罰百戒を示そうにもその者がいないではないか。
もう一つは我が軍の損害である。今、その報告を待っているのだが、指示を出してからかなりの時間を要している。時間が掛かる、という事は被害が大きい事を表しているのだ。
午後になって、ようやく十二名の将官達が司令部の天幕に参じた。その中で最も年長の男が恭しくお辞儀をする。
「申し上げます。司令官閣下」
「ふん、聞いてやる」
「我が軍二十五万の将兵の内、今回の敵奇襲で消耗致しました数は十万・・・・」
「何だと!」
「十万でございます」
「十万だぁ? 敵は一万そこそこしかいなかったのに、それで十万の兵を失ったのか」
「味方の遺骸を検めましたところ、その数は約三万五千。失った騎馬五千と合わせて四万の兵が害されました」
「残りの六万は!」
「逃げ出した模様です」
「何? 逃げたのか? こんな荒野のどこへ逃げるというのだ」
「調査致しましたところ『この世の楽園』へ行ったとか」
「楽園? そんなものが近くにあるのか?」
「さあ、分かりかねます。何でも丘陵地帯の山麓にあって、この時期『醜男と醜女の祭り』が行われているらしいのです」
禿げ鼠は怒り心頭にきた。
「馬鹿者どもめ! 物見遊山でここまで攻め上ったのではないのだぞ」
「奇襲に遭い、我を失ったのでしょう」
「他人事の様に言うな。愚か者が」
「はあ」
「それで貴様らはどうするのだ」
「まずは失った物資を補充せねばなりません」
「兵糧も失ったのか!」
「はい、残る将兵の数は十五万と少なくなりましたが、食糧は四分の三が焼かれてしまいました。節約しても二十日で空になります」
「ここまでの地域は我々の勢力下だ。民草から接収すれば良かろう」
「そう仰いましても、この荒れ地は元来、人が少ない場所です。海辺の街はそれなりの規模でございましたが、住民達は物資と共に船を使って逃げ出したそうです」
「無人になってしまったのか?」
「いいえ、元アスマン人の商人達が残っています」
「其奴らから奪え」
「奪ったところで僅かな物しかないでしょう」
「では見せしめにに殺せ」
「誰に見せるのでしょうか? もうバルバーレの民はおりませぬが」
「ええい、どうしろというのだ」
「その商人が、兵糧を集めても良いと言っているそうです」
「おお、それを早く言わぬか。海辺の街の全ての土地をやるから、それで購えと伝えろ」
「ご存じでしょうか。アスマン商人は金貨か金そのものでしか取引を致しませぬ」
金貨を手放せというのか。司令官自身が戦費から苦心して抜き取った余剰金をである。この戦争に勝利せしめ、且つこの資金を持ち帰れば、現在空席である大司教になる事も夢ではなかったのにだ。しかし戦に勝てるのなら、まだ裏金を作る機会はあろう。
小姓に命じて、しぶしぶ金貨を各隊に与えた。総額二万ユールである。これで手持ちが空になってしまった。
眼前にずらりと並ぶ無能な将官達。この場で全員の頸を切り落としてやりたいが、ここは我慢してやる事にする。逃亡兵は全員を殺したと嘘の下達をなす事を命じ、解散させた。
まあ良い。まだ十五万もの将兵が残っているのだ。夜襲に耐え、逃げ出さなかった精鋭達とも言える。未来は明るい。禿げ鼠はそう結論付けた。
第一師団は忙しく働いていた。
王女の第二師団の保護、峡谷の監視、それに山崩れの調査をしなくてはならない。特に衛生兵が足りない。実際に戦場に赴いて、それで初めて分かる事の何と多い事か。ウティホは、こんな時に妻がいてくれればと思わずにはいられなかった。とは言っても、指示を出してしまえば指揮官のすべき事はない。報告を待ってただ呆然と行路の先を眺めていた。
ふと視線の先に隊商が入る。行路を外れ、山辺から下ってきている。この地、この時期にしては珍しい。しかも大規模なものだ。御者台でひょろりとした男が手を振っている。
「ジョクーか!」
ウティホは立ち上がった。そしてすぐに後ろを向いた。涙を拭う為である。
家族が天幕に集う。ウティホとノンモ、それにジョクーの三人である。
「二人とも、よく無事じゃったな」
「当たり前さね。あんたを残して死ねないからね」
「おお、そうだとも。それで、お勤めは無事に果たしたのか?」
「火薬の事かい。勿論手に入れたよ」
「でかしたぞ。それをどう使うか、王都の司令部に聞かねばならん」
「聞く必要はないさ」
「何故じゃ?」
「使ったから」
「全部をか!」
「馬鹿をお言いでないよ。ちゃんと残してあるさ」
「どれだけじゃ」
「ジョクーや、幾ら残っているんだい?」
元山賊は肩を窄め、両手で小さな丸を作った。
「何と、それっぽっちか。儂は王にどう報告すればよいのじゃ」
「知らないね。あたしは使うなと言ったんだよ」
ジョクーが夫婦の間に口を挟む。
「峡谷で山崩れがあったのをご存じですかい。あれをやったのは俺達ですよ」
「何と! 王妃と多くの騎兵を救ったのはお主らだったのか。これは大手柄じゃ」
「あたしが指示したんだよ。そうしろってね」
「お前は賢い妻だと思っていたが、ここまで利発な女丈夫とまでは思わなかったぞ」
手を握り合う二人。
ジョクーは思った。夫婦って素晴らしい。でも端から見れば馬鹿馬鹿しい。
事の次第を伝えられた王都司令部は歓喜した。キリムは収集した情報を整理している。
「良かったね、王女が無事で。それに大した戦果だよ」
「うむ」
威厳を保ちたい王であったが、どうしても目尻が下がってしまう。
「そのお陰もあって、ぎりぎり間に合わないと思っていた作戦が採れそうだよ」
「それは?」
「今現在、第一師団が布陣している峡谷出口で決戦を挑む事だよ。この場所以上にこちらが有利な戦場はないと思う。予定ではとっくに王都まで攻め上られていても不思議じゃない時期だけれど、まだ半月程は山崩れの向こう側に閉じ込めておけそうなんだ」
婆様が会話に加わる。
「それでは婆の隊を前進させようかね」
「うん、そうしてよ。良いですか、王様?」
王は頷き、婆様は伝令を走らせた。
「さてさて、この婆が敵と真っ向勝負をする事になるとはのう。この歳になっても未来は驚きに満ちておるわいな」
「でも、それで勝てるかなあ」
「峡谷の出口に布陣するのであれば、そうなってしまうぞえ」
「うん。それはそうだし、勝機だってあるのだけれど」
「残る敵の数は?」
「約十五万だそうだよ」
「これは景気良く減らしたもんじゃな。その上窮屈な場所で決戦を挑めるのじゃから、数の違いは無視してよいじゃろうて」
「うん。峡谷にある行路の幅はかなり狭くて、大挙して一斉に突進する飽和攻撃はできないと思う。同数の兵で横隊を組んでぶつかり合えば、兵の練度と装備の差で何とか対応できるかも知れない」
王には不安が残る。
「しかし、それでも我が方が不利に違いない。双方が徐々に兵を失い、結局は突破されてしまうのではないか?」
「やはり奇策が必要じゃな」
婆様が明るく応じた。
「何だか嬉しそうだね」
「折角、種を蒔いたのじゃ。その実を味わいたい」
「術の事?」
「そうともさ。お前様のな」
少年は、このまま行けば術を使わずとも済むと思っていた。あれは単なる博打なのだ。でも、状況次第ではそれに頼らざるを得ないだろう。
ユルグの先遣隊は眼前を塞ぐ土塊に驚いた。谷底の行路上に突如として壁が現れたのだ。急ぎ戻って司令官たる禿げ鼠に報告すると「ならば、それを退かせ」と面倒臭そうに言われてしまった。それができるなら誰も報告なんてしないのに。
ユルグにも知恵者はいる。退かせと指示されて、その作業を黙々とこなすばかりが部下の仕事ではない。要は兵を進めさせられれば良いのだ。土砂を均し、踏み固め、ようやく道らしきものを作った。二十日を要したが。
ユルグ軍はまた進軍が可能となった。ただ、敵に時間的猶予を与えたらしく、峡谷出口にはバルバーレ軍が集結しているだろう。ついに両軍が正面から角突き合わせる時がきたのだ。
一月の末。峡谷出口での最初の火蓋が切られた。ユルグ軍が陣から一部を割いて突撃隊を編成したのだ。歩兵の横隊を幾重にも重ね、整然と前進してくる。
バルバーレ側の最前線には婆様の第三師団が据えられている。敵の矢を大楯に隠れてやり過ごし、今度はこちらが矢を放とうとしている。
指揮官は最後方の小高い丘に位置し、補佐役の将官に戦況を確認させている。
「敵さんの弓矢は止んだかえ?」
「はっ、ようやく矢数が尽きた様です」
「敵の指揮官は相当な間抜けらしいな。間合いも分からぬとはの」
「初戦の相手には不足ですか?」
「いや、丁度良い。準備運動にはなるじゃろうて」
「敵は整然と前進してきます」
「駆け足でかい?」
「いえ、ゆっくりです」
「では、こちらもゆっくりと相手をしてやろうか」
敵の先頭が射程に入る。
「まだじゃ。まだまだ」
敵の先頭は木製の楯を掲げつつ、間合いを詰めてくる。
「弩隊、弓引け」
補佐官が指揮杖を掲げる。弓兵は弩の先端にある足掛かりを踏み付け、両手で弦を握る。そして力を込め、倒れんばかりに身体を反らし、全体重を乗せて引き上げた。弦は掛け金に固定され、ぎちぎちと音を立てる。
「狙え」
千の兵が一斉に弩をもたげる。そして各々が正面の敵を見据えた。
「放て!」
指揮杖が振り落ろされた。引き金が引かれ、千の矢が真っ直ぐに飛ぶ。鋼で拵えた、返しのない矢が敵の木楯を突き破り、兵士の身体にめり込んだ。
「次の弓隊、放て」
無数の木矢が放物線を描く。敵の頭上に降り注ぎ、革製の兜に当たる。頭部に傷を負った兵士が派手に血潮を吹き出した。その血が目に入り、悲鳴を上げている。
二の矢三の矢と連べ打ちに矢の雨を降らせ、かなりの敵を討ち取った。
補佐官が告げる。
「敵は駆け足に移りました」
「それは天晴れな闘志じゃな。ならば弓隊を下がらせろ。長鑓で応戦じゃ」
鑓隊同士の戦闘が始まった。ユルグ軍の装備は木の棒に鋼の穂を付けた槍である。胸当ては革製。一方、バルバーレは柄も鉄でできた鑓で応戦している。長さも違う。胸当ても銅製で頑丈だ。
戦う前から結果は見えていた。バルバーレの圧勝である。
本来、味方が一定以上の損失を得たならば一旦引き上げるのが上策なのだが、ユルグは最後の一兵まで戦った。その理由は最後に明らかとなる。
「最後方に金属の甲冑と三叉の鑓を備えた兵がいます。引き上げる様子ですが」
「それはユルグの近衛じゃよ。兵士が逃げ出さない様に後ろで脅していたんじゃろう」
「惨い事をするものです」
「まさしくな。それでも勝ちは勝ち。素直に喜ぶとしよう」
第三師団は勝ち鬨を上げ、全軍の士気を鼓舞した。
「後始末を忘れぬ様に」
お婆はそう言って丘を降りた。工兵を繰り出して、敵味方の遺骸を撤去し、戦場に散らばった矢を回収させる。特に鋼の矢は敵に渡せない貴重な武器なのだ。
国王は都を離れ、この地に移っている。最後方にある一際大きな天幕がそれだ。婆様が戻り、王が出迎える。
「完勝、見事であった」
「いや、敵にとって初戦は小手調べ。これからが本番じゃろう」
「そうなのか?」
「敵の兵数が少な過ぎる。本来ならば倍は必要な筈じゃ。わざわざ負ける戦をして、その代わりにこちらの手の内を探ったんじゃよ。次か、次の次辺りが大攻勢じゃろうて」
この老婆の何と冷静な事か。勝って浮かれない。負けて沈まない。これが指揮官に大切な資質なのだろう。自分にはそれがあるのだろうか、と王は考えていた。
ユルグ軍司令部。禿げ鼠は近衛からの報告に耳を傾けている。
「バルバーレは蛮族と聞いていたが、きっちりとした戦い方をするではないか」
「次の戦闘は如何なさいますか」
「敵が正攻法ならば、こちらは荒っぽいやり方をすれば良い」
「それでは例の・・・・」
「いや、あれには準備が必要だ」
「では次戦は明日になさいますか」
「そうしたいところだが、そうも言っておられぬ。次の隊を編成し、もう一度攻めさせるか。それで時間を稼いで、最終決戦の準備をする」
新たな隊の将官が呼ばれ、次の戦闘の指示がなされた。対応を事細かに言い付ける。
この時、司令官には前進を急ぐ理由があった。
兵糧が足りないのだ。備蓄は底を突き、新たに入手した食料はろくでもない物ばかりであった。芽が大きく育った馬鈴薯とか、面倒な毒抜きの必要な魚の干物とかである。そして米だ。その呪うべき食べ物。敬虔なユルグ教徒ならば口にする筈もない。すぐさま焼却させたが、空腹に耐えられず口にした者もいた。そんな者どもには厳しい罰を与えた。当分腹を減らさぬ様にと石塊をたんまりと食べさせたのだ。当然ながら苦しんで死んで行ったが、それでも生き残った者はそれを以って悪魔の化身と断じ、火刑に処した。
兵糧がなければ兵は動かない。軍務が本業ではない禿げ鼠とてそれは知っている。当座の凌ぎにと騎馬を屠殺して喰わせた。どうせ働きの悪い騎兵どもである。一介の歩兵となってその苦労を味わえば良いのだ、と捻くれた平等意識を発揮させて。
第三師団に代わり、第一師団が前線に配置される。
ウティホは考えていた。先の戦闘で敵は多くを学んだだろう。そして対応してくる筈だ。しかし、こちらとて士気は上がっている。
ノンモとジョクーは王都にいる。キリムとマウ・リサもだ。これ以上敵を進軍させてはならない。彼らがいる都を蹂躙させて堪るものか。我が兵士達はきっと働ける。これまで散々演習してきたではないか。頭の中でそう叫んでいた。
婆様が指揮を執っていた丘で仁王立ちするウティホ。眼前には二万余の将兵達が整然と並び、峡谷の奥を凝視している。そして、各隊の佐官だけが自分を見詰めている。
谷底の行路に黒い一団が現れた。敵の第二陣が進軍を始めたのだ。前回よりも明らかに数が多い。倍はあろうか。
ウティホは指揮杖を右に掲げ、「敵見ゆ」を知らせた。
ラッパが戦闘準備を命じている。将官ががなり立てる。先頭にいる弓隊は弓矢の準備をし、大楯の透き間から前方を伺っている。
敵は行進から駆け足に移った。
「弩、用意」
ウティホの命令に従い、弓隊は大楯から身を乗り出す。
「弓絞れい」
指揮杖を掲げた。敵は一斉に前進速度を早める。
「放て!」
指揮杖が振り下ろされる。千の鉄矢が放たれ、しゅう、と風を切る音を立てた。
敵の先頭は今回も木の大楯を掲げて前進している。但しそれを二重にしていた。鉄矢は一枚目の楯を突き破り、二枚目の楯に食い込んで止まる。単純だが効果的な対処法だ。
しかしウティホは動じない。この程度ならば予測の範囲なのだ。そして新たに命じる。
「投石器を出させろ」
弓隊は各自の弓を置き、皮と紐でできた投石器を用意する。弾丸には鉄球を用いる。皮の部分に鉄球を乗せ、両端から伸びる二本の紐を合わせて握る。
「撃て」
投げられた鉄の玉が放物線を描いて飛翔した。敵の頭上に落下し、兵士を負傷させるか、もしくは大楯を割った。地に落ちた玉はずんと音を立て、めり込んでいる。
「弩、斉射せよ」
指揮杖がぶんと振り下ろされた。ややまばらに矢が飛ぶ。今度は有効に敵を殺傷している。鉄球で楯を割られた兵士は胸を貫かれ、更にその後方の兵までも傷を負わせた。
敵の進行はやや速度を落としたが、それでも間合いは近づく。ウティホは弓隊を下がらせ、鑓隊を先頭部に置いた。
敵は今になって矢を放ってくる。至近であるし、その数が多い。身支度に助けられて傷付いた兵士は少ないが、それでも一定の損害が出てしまった。
怒号と地響きが迫る。敵は間近で短槍を投げた。千本の槍がバルバーレ兵の顔を狙う。微動だにしない事で存在を誇示していた近衛兵達である。敵にすれば狙い易い的であったろう。一気に千近いの味方が減殺されてしまった。
敵味方が槍を失う。こちらは殺されて、相手は投げ付けてである。そして剣同士の戦闘となった。
第一師団のラッパが全員戦闘を知らせる。最終段階である。ウティホは『まずい指揮をしてしまった』と口の中で独りごちた。
婆様が補佐官を連れて、よちよちと丘に登ってくる。
「戦況はどうじゃな」
「芳しくありませんわい」
婆様の補佐官が言い添える。
「それでも健闘なさってらっしゃいます。剣同士の戦いでは互角以上です」
「そうでなくては困りますじゃ。彼らは剣技が自慢で、鑓すら持ちたがらなかった兵ですからの」
こちらが押されつつあったが、ようやく前線が固定された。こうなれば後は体力勝負。剣を振り上げられなくなった方が負けである。
双方が実力以上に頑張っている。小一時間が経過し、互いの剣がぶつかり合う音が弱々しくなってきた。
「さて、そろそろこの婆の手助けが必要じゃないかえ?」
「お願いします」
ウティホはそれを素直に求めた。
前線の配置を変える。第四師団の一部が中央に割り込み、戦列をコの字型に膨らませる。当然、敵はその中に躍り込んだ。
「さあ、これで終いじゃ」
婆様は見えない目で勝利を見定めた。
ウティホは攻勢に転ずる事を命じた。ラッパが派手に鳴り響く。
コの字に膨らんだ戦列の出口が閉じられ、敵を包囲した輪が一気に萎む。前回は戦闘に参加しなかった敵近衛兵も封じ込まれ、逃げ出せないでいる。
そして輪が小さくなり、消えた。快勝である。
ウティホは空を見上げた。日が傾きつつある。今日はこれで終わりであって欲しいものだ。誰もが休息を欲しているのだから。そう心の中で呟いた。
夜。酷く寒い。バルバーレの兵士達は泥の様に眠っている。見張りに立っている兵士も重い瞼に難渋している様だ。無理もない。つい先程まで戦闘をしていたのだ。力を出し惜しみしながら殺し合いなんてできない。
ウティホは今夜も眠れそうにない。それでも毛布にくるまってじっとしている。明日はまた戦が待っているのだ。心臓を氷に漬ける様な、胃を両手で絞る様な戦闘が。
ホーホーと夜の猛禽が不気味な声を出している。山積みにされた敵味方の亡骸をついばんでいるのだろうか。
深夜。伝令兵がそっと天幕に入ってきた。
「代理指揮官殿、王がお呼びです」
ウティホはすっくと身体を起こした。
「どこに伺えば良いのじゃ?」
「見張り台に。婆様もご一緒です」
新らしい中着に袖を通し、外套を羽織る。そして日中に指揮を執っていた丘に登った。その頂上では数名が峡谷の奥を凝視している。王が労いの声を掛けた。
「ご苦労」
「いえ、職務ですからの。しかし何事でしょうか」
婆様が代わりに説明する。
「何やら臭うんじゃ」
山から海へと吹き下りる風が、峡谷の向こう側からこちらへと通り抜けている。
「普通の臭いじゃと思いますが」
「それが妙なのじゃよ。この季節の夜風は雪山の匂いしかせんものじゃ。なのに荒れ野の地風の様に埃りが混じっておる」
「そう言われれば。しかし昼間にあれだけの戦をしたのですから、埃り臭くなるもの道理ではありませぬか?」
「それだけじゃない。何やら酸っぱい様な、嗅いだ事のない臭いがしておるじゃろう」
ウティホは腕をまくって中着の袖を出し、鼻を宛がって臭いを嗅ぐ。こうやって違う臭いを嗅いでおけば、慣れてしまった身の周りの空気でも繊細に知覚できるのだ。そして嗅覚に全神経を集中させ、ゆっくりと風を吸い込んだ。
「おお、これは・・・・この臭いは嗅いだ事があります。四年前の戦争でユルグ兵がさせていた体臭に近い」
王はその言葉に総毛立った。
「まさか・・・・」
お婆は伝令に指示を出し、峡谷の奥へと索敵を出させる。
「敵もどうして動きが速い。互いの総力戦が始まって半日しか経っておらぬのに、もう最終決戦を挑むつもりの様じゃな」
王は気付いた。
「それでは四年前のアスマン戦争と同じく、この地に呪いを掛けたのか」
婆様が応える。
「呪い? そうではないさ。大量の薬を焚いたのだろう。連中は護摩とか呼んでいたが」
「その護摩とやらが土地を腐らせるのか」
「土地は腐るものじゃない。自分でも信じられない程長く生きてきたが、腐った土地なぞ見た事がない。腐るのはヒトじゃよ。人を生き腐れさせる薬が護摩なんじゃ」
「生きたまま腐るのか。おぞましい」
「そうなってしまえば人は生き人形になる。そして血肉を欲しがる獣の心が宿り、命令のまま、自らが動けなくなるまで殺し続ける狂獣になるんじゃ」
二人の話を聞きながら、ウティホは歯を喰い縛っていた。
悪夢が蘇る。しかし、同じ結末にはさせられない。今度は、譬え自らの命が燃え尽きようが、あの悪魔の行進を止めなくてはならない。自分にそう言い聞かせた。
索敵を命じられた騎兵が軍馬を飛ばす。
静寂の中でただ、自らの足音だけが聞こえている。その音はかつかつと峡谷に響き渡っているが、兵は頓着もせずに馬を駆けさせた。一路、敵軍の陣地に向かって。
突如、馬が嘶いた。襲歩から急停止し、両の前足を振り上げる。騎兵は馬の制御に腐心したが、なかなか落ち着いてくれない。
「どうどうどう」
手綱を引き絞り、頸を撫でてやる。そして前方を見た。天上から僅かな光を受け、黒い塊が見える。それは少しづつ前進している様だった。
目と耳を凝らす。低い唸り声がする。一人二人ではない。大勢のものだ。
馬を常足で前進させる。徐々にその姿が見えてきた。唸り声の主は下を向き、その頭をだらしなく左右に振り、足を引き摺って歩いている。
一歩、また一歩と。
先頭の一人がこちらに気付いた。闇にその両眼だけが光る。そして獣の如く吼え狂った。
闇の中に二つだけ光っていた目が、一度に数万の数になる。そして地響きを立てて迫り出した。騎兵は鞭を入れたが、馬が固まって動かない。腹を蹴り向きを変えさせ、再度鞭を入れた。
ようやく走り出してくれた。自分は何を見たのであろうか。この有様を何と報告すれば信じて貰えるのだろう。そう考えながら猛然と自陣を目指した。
司令官たる王は索敵の報告を受けている。騎兵の態度は毅然としていたが、その声は震えていた。
「婆様、どうやら其方の読みが当たったらしい」
「今度ばかりは外れであって欲しかったがのう」
総員起しが命ぜられた。ラッパ卒がけたたましい曲を奏でる。将兵達は深い眠りから叩き起こされ、足をもつれさせながら整列した。
ウティホが進言する。
「敵との距離はまだあるでしょう。水と食事を与えてやって欲しいのじゃが」
その願いは受け入れられた。非常食の干芋と黒砂糖の丸、それに水袋が配られる。兵達は半ば眠りながら口に入れ、咀嚼した。
最前列は婆様の第三師団、その後衛に第四師団が布陣された。ウティホの第一師団は最後方で荷駄を守っている。名誉な事ではないが、消耗が多い隊なのでそれも致し方ない。
婆様がやんわりと願い出た。
「王よ、この戦いはどうなるか全く予想が立たぬ。一旦、王都に戻られては如何じゃな」
「それはできぬ」
「何故じゃ?」
「理由はない。私がここに居ない方が戦い易いのかも知れぬが、それでもここを離れぬ。王としての責任感でも、我が軍を勝利に導く為でもない。ただ、居たいのだ」
その言葉に婆は笑った。先代の一粒種として我が儘に育てられ、身体ばかりが大きくて知恵の足りない王子の頃と何も変わっていない。その少年は何でも持っていたが、本当に欲しいものは何一つその手になかった。親友も喧嘩相手も、弟妹もいない。孤独に苛まれて爆発もしたが、それでもやって良い時と場所を心得ていた。心根は優しい子なのだ。
彼の孤独に気付いていたのは婆様ぐらいなものである。彼女は城内で唯一、序列の埒外にある。王や王子にぞんざいな口を利いても咎められない。王子の悪戯に対して体罰を与えられる無二の人物であったのだ。だからその寂しさも知っていた。
自分の事を悪し様に言い、ゲンコツを見舞う彼女の事を王子は気に入っていた。他の子供達と平等に扱ってくれていると感じていたのだ。やがて王子にとって何でも打ち明けられる相手となる。書庫に行って彼女と逢えば、少しは清々とした気持ちを取り戻せた。
家族のいない婆にとっては孫にも近い存在であった。ちょこちょこと訪れては泣き言を漏らし、最後には笑顔を見せて帰る。可愛いと思うにはそれで充分だ。
今でも王の事を可愛い孫だと思っている。大きくなって我が儘を言わなくなった王が、今、駄々を捏ねている。この婆に戦に勝てと言っているのだ。そしてその様をしかと見させてくれと。
久しく忘れていた何かが込み上げる。これが『気』なのだろうか。少しは若くなった気分だ。そして兵士達に下知を飛ばす。
「よいか、敵は狂っておる。一対一で戦わねばならぬとか、正々堂々とか、そんな考えは捨てるのじゃ。敵の背中を狙え、腱を切れ、目を潰せ、二人で一人を屠れ、油を撒いて火を放て。お前達の後ろには王がいるのじゃぞ。今戦わずしていつ戦うのじゃ」
四万の将兵が鯨波をつくる。その声は王都まで届かんばかりに響いた。
人々の怒号が聞こえる。鋼同士がぶつかる高い金属音。五十隊列程前の先頭部では戦いが始まったらしい。二個師団の中程にいる一兵卒には今がどうなっているか分からない。ただ隊長の声に耳を澄まし、命令を待つばかりだ。
やがて周りがざわざわと騒がしくなった。小声で話すのは止めて欲しいものだ。不安が募るばかりではないか。
剣戟の音が近くなった。どうやら敵が近い。一つ前の戦列にいた連中が左右に分かれ、視野が広くなる。眼前に敵が見えた。傷付いた左腕をだらりとさせ、腹に矢を深々と刺したまま立っている。目が赤い。歯を剥き出しにして、何やら吼えている。
手柄を挙げる好機だ。剣を両手で持って振り上げる。
次の瞬間、どうしてだろうか、仰向けに寝転がってしまった。星々が瞬いて見える。
立ち上がろうと首を起こした。すると、さっきの奴が乗っ掛っているではないか。こっちの顔を見ようともせず、懸命に私の腹に剣を突き刺している。
頭を横に倒すと、同じ隊の連中が遠巻きに輪を作っている。
新兵が震えながら、それでも剣を向けている。
そう、それで良いんだ。剣の構え方、教えた通りにできているじゃないか。
そんなに泣かなくても良いのだよ。もう叱ったりしないから。
死は、そんなに苦しいものでもないのだから。
通常戦とは全く違う戦いが行われている。敵の数は十万を超しているだろう。その全てが狭隘をものともせず一気に雪崩れ込んできたのだ。敵兵士は好き勝手に攻め入り、力尽きたところで倒れる。それを全員で行っている。しかも一人一人が異様に強い。目が潰されようが、腕を失おうが関係ない。それに猿の如く素早く動く。八十の横隊を擦り抜け、指揮官のいる丘まで突出してきた兵士もいる。
婆が意を決して切り出す。
「王よ、別れを言わねばならぬ」
「それはまだ早い」
「いや、この前線はもう保たないじゃろう。王都に戻りなされ」
「私はここを離れない」
「駄々は止めなされ。またゲンコを喰いたいのかえ」
「・・・・・・・・」
「そう、良い子じゃ。お前には守るべき娘がいる。それにまだ若いのじゃから、新しい后を貰うて子を成す事もできるじゃろう」
「私の后は一人だけだ」
「そうか、死んだ者に操を立てるのも良かろう。じゃが、それとて生きておらねばできぬ事。生きて、せめてこの婆と同じ歳になってから黄泉国へこい。分かったな、坊よ」
王は丘を降りた。心を岩の様に堅くしていたが、幼い頃の想いが去来して止まなかった。
婆様は自分を補佐し続けてくれた副官の任を解き、その者を新たに第三・四師団の指揮官とした。撤退戦の手筈を事細かに指示する。そして一人、丘に残った。
師団の将兵達は、混乱しながらも撤退を初めている。殿が良い働きをしているらしい。見えずともその程度は分かる。
獣達の唸り声が近づく。この小さな存在を見逃さないとは大した嗅覚だ。敬意を表しているのだろうか。周りを取り囲んでいるのに飛び掛かってこない。
はたと気付いた。此奴らの心は法術で括られている。暗示を掛けられる段階で、術者を尊重する様に言い含められているのではないか。平民達には法士と術士の違いが分からない。もしそうならば、譬え狂っていても術は充分通じそうだ。
この丘は暗いだろうし、声が届く範囲は限られている。自分の術には限界があるだろう。しかし、キリムならば舞台を整えられる。きっと、護摩で堅く縛られた暗示を解き放てる。
ここで果てても、無駄ではなかろう。
「聞け、有象無象の者どもよ。我が心臓を神々に捧げ、貴様らに苦痛と死を与えん!」
愛用の杖を放り投げ、懐から出した小柄を両手で掲げた。そして、躊躇いもなく自分の胸に突き立てる。術をより効果的にする為に叫び声を上げたかったが、適わなかった。
脳裏に笑顔が浮かぶ。懐かしい王子の笑顔。純粋で、無邪気な。目癈いた目にも眩しい程に映っている。そして、すぅと暗闇が訪れた。
丘を取り囲んでいた兵士達は我に返る。それは一瞬であり、すぐに胸を締め付ける様な痛みに襲われた。呼吸が止まり、ぱたりと倒れる。しかし、その数は僅かなものであった。ユルグ軍全体の数からすれば、ほんの誤差程に過ぎない。




