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境界地獄

作者: 某白米
掲載日:2026/03/06

 中学生の神野輝(かみのひかる)はいつも通りに自転車で登校していたところ、突然彼の世界がひっくり返り気づくと見知らぬ部屋にいた。そこは壁と床、天井がそれぞれ別々の木材のようなもので作られた広いとも狭いとも言えない部屋であった。彼はひととおり周囲を見渡すと、彼がここに来た時最初に見た門を開けようと足を踏み出す。

しかし突然、彼の前に一人の人が現れた。彼は黒く短い髪で真っ黒な服と手袋を身に着けた男性とも女性ともいえない奇妙な姿をしていた。

「おい、お前は誰だ」

輝はそう言う。それに対し門の前の人はこう言った。

「歓迎いたします神野輝様。私はこの地獄の管理者ヤンセウィでございます」

「地獄……ここは地獄なのか」

「はい、ここは地獄でございます」

「俺が何か地獄に落ちるようなことでもしたのか」

「私はこの世界の法則に関してはあまり存じていませんが、天国に行くか地獄に行くかは魂の重さに関係しているそうです。そして、天国に行くことのできる人はごく一部の人たちです。しかし輝様は現実を外れ落ちてしまったので、この法則には適用されませんが」

「外れ落ちたってどういうことだ」

「そのままの意味です。しかし輝様は、偶然ここにきてしまいました。輝様は本来ここにいるべきではないのです」

「本来いるべきではないって……元の世界に戻してくれないのか」

「それはもうできません。輝様は自転車に乗っていらっしゃったので、現実から外れ落ちたのちそのまま事故を起こし死亡しました」

「俺はそんなことで死んだのかよ。ここから出られるんだろうな」

輝は絶望した。本来自分がいるべきでないところに来て、更にはそこから帰ることができなくなってしまう目に遭ったのだから。しかし、ヤンセウィはそれを気にすることもなく輝の質問に答えた。

「一応、可能です。しかしそれには、輝様やその世界の方々が想像されるような長く苦しい罰が伴うものとなるかもしれません」

「ここで死んでもさすがに復活するよな」

「輝様が想像されているようなものではありませんが、輝様の魂は常に輪廻の一部にあります」

 輝はそれを聞いて少し安心した。しかし彼は気づいていないが、魂が常に輪廻の一部にあるということは、苦しみからは逃れられないということを示していた。そして、彼はこう言う。

「さっさとこの門を開けろ、俺は早く生き返りたいんだ」

「はい、かしこまりました。すぐに門を開けさせていただきます」

そう言いヤンセウィが門を開ける。

「準備ができましたらこの門にお入りください。輝様、どうか貴方の世界が見つかりますように……」

輝はその言葉を聞くと、そのまま門の先に足を踏み入れた。

門の先には図書館のような空間が広がっていた。そこは、不自然なほどに白い天井、無作為に本が置かれた本棚、そして足音を少しも響かせない薄灰色のカーペットが続いている。彼は少し進んだ後、ふと後ろを見る。入ってきた門が消えていた。それは無情にももう絶対に戻れないという現実を彼に突き付けている。そして彼は、本来人々がいるはずの空間で人が全くいない違和感を覚え、広大な空間に広がった静寂は彼に重くのしかかっていた。

彼はこの場所から脱出するためひたすらに歩いている時、ある疑問を持った。

「地獄ってこんなに静かで、何もないものなのか。地獄って言ったら岩と炎の原野に鬼がいて、罰を与えてくるものじゃないのか」

その疑問は彼の歩みと共に増大し、それは彼の歩みを止めるほどに大きくなっていた。

「ここには本当に炎の苦しみはないのか」「本当に出口は存在するのか」「そもそもここは本当にあの管理者が言っていた通り地獄なのか」「もしかして俺は偶然、炎も岩も針も鬼もないところに来てしまったのか」「何でここは無人の、現代的な、ありきたりの、灰色のカーペットの、無限に広がった図書館なのか」

しかし一瞬、彼の思考の雨が止んだ。その時、彼の頭の中にこの地獄の壁の色、蛍光灯のハム音、カーペットの感触、古ぼけた本の匂い、その全てが流れ込んできた。何故だろう。彼はそれに懐かしさを感じた。それは記憶の棚が倒れ、存在があやふやな記憶と混ざるようであった。彼の思考の雨がやみ、虚しさが水たまりとして現れた頃、彼は再び歩みを進めた。本棚が続く無限の図書館を。

 彼が新品のようなカーペットの上を歩いている時、本棚によって進行方向を変える。その本棚は不規則に規則的に配置されていて、まるでそれ自体が意思を持っているかのように、彼をどこかに誘導するように続いている。時々天井からは白い案内の看板のようなものが、崩壊した文字で意味のない情報を示している。そんな看板があるところの一つが彼の目に留まった。そこは溶けた漢字のようなものが書かれた看板があり、その後ろには教室くらいの広さの行き止まりの部屋がある。部屋の中には机と本棚が数個置かれていて、そこにはどれも似たような本が置かれていた。彼自身ではなぜこの場所が目に留まったのかが分からなかったが、その理由は恐らくこの無限に続く図書館の中で、行き止まりと言うある種の終わりを見たからだろう。彼はその終わりに対し安心でも不安でもない何とも言えない違和感を覚えた。しかし、彼にはその違和感を言い表すことのできる表現を持ち合わせてはいなかった。そして彼は一つの記憶を思い出す。彼がまだ小学校低学年の頃、彼の親が近所の図書館に彼を連れて行ったときに、視界の端にあった何かの特集コーナーだ。しかし、彼はそれが何のコーナーかは思い出すことができなかった。

 彼が再び歩き始めて少し経った頃、彼の視界が突然広くなった。今まで続いていた本棚の間にあった幅三メートルくらいの通路とは違い、幅七メートル以上はある広い通路に等間隔にこの場所では意味もない柱が続いていて、その周りには見渡す限り本棚が広がっている。その通路からは彼が最初に訪れたところのような壁のある空間は見えない。

 彼は通路を見渡した後、柱を避け通路の左側を歩いた。そして彼はこう思った。この広い通路も無限に続く枝の一部で、幹にはまだまだ遠いのだと。彼は通路を歩いていると、開けたところに来た。そこは椅子と机が広がっている場所だった。彼は椅子と机を避けながら今まで通りに歩く。しかし彼はあるものを見つける。それは一機のウォータークーラ―だった。彼はそれを見て少し苦しい記憶を思い出したが、すぐにそれに向かって走り出し水を飲んだ。彼はもう渇きを感じないはずだが、彼の心は水を求めていた。その水は彼が飲んだどんなものよりも彼の体、心を満たすことができ、一番澄んだものだった。彼はそれを飲むと少し落ち着いた。

 彼は少し休憩した後、再び歩みを進める。ここが地獄でなければ人が椅子に座り、本を机に置いているはずだが、椅子はきれいに整列され、机は汚れの一つもなくその上には何もない。しかし、その不自然なきれいさが彼に一抹の不安を与えていた。

 彼が机と椅子の空間から再び広い通路に入ると、彼は少し歩みを止めた。彼はこの道の向こうに扉が見えた気がした。彼はその扉を目指して歩みを速める。そして、無人の空間にカーペットを踏むトントンという彼の足音が重く広がる。

 彼は扉についたとき、すぐにそれを開けた。その扉は確かに無限に続く誰もいない蛍光灯のハム音がうるさく響く図書館からの出口ではあったが、それはまた新たな同じような階層につながるだけである。彼はこんな空間がまた続くのかと深く絶望したが、危険などないように見えるさっきまでいた、空間と同じようなところが続くことに安心してしまってもいた。その空間はあの無限図書館よりも天井が二倍以上高いように見え、壁の下の部分は黒曜石のように輝く黒色で壁の上の部分は鉛筆の芯のような黒色をしている。床も小さく波打ったようにごつごつした石のようなもので構成されていて、所々まるで放浪者を何かに導くように模様がついている。その模様は色褪せた赤色とプラスチックのような緑色の磨かれた石がただ並べられているだけだ。そこはまるでどこかのロビーに見えた。

 彼は無人の図書館の時と同じようにただ歩く。そのたびに床はコツコツと音を鳴らし、それは彼の息とともに空間全体に響く。そして彼は床の模様に従わないと思いながらも無意識に模様が続く方向に進んでいた。彼はこの空間が記憶の曖昧な部分を的確につき、見慣れないところのへの不安と、既視感による懐かしさを、自分に浸透させているように思えた。

 この黒いロビーに彼が入ってから彼の感覚で数十分ほどたった頃、彼は奇妙なものを見つけた。それは一つの机と二つの椅子、彼が名前も知らない観葉植物の木が植わっている素焼きの鉢だった。たったそれだけの、普通のロビーなら当たり前のように置いてあるものだったが、この地獄と言う異常な空間ではその普通が彼にとって逆に違和感となっていた。彼は門を通ってから歩き続けていたため疲れていたが、椅子には座らず再び歩き始めた。安全でないことはほとんどないはずだが、彼は地獄であることを考えて、座らないという判断を下したのだろう。

 ロビーを歩いている中で彼は、壁の中に扉を見つけた。その扉は濃い茶色の木材で作られているように見え、淵には金色の模様があり、縦向きの取っ手がついていた。そして彼は、迷わずその扉を開けた。その扉の先には幅四メートルもない何かの商業施設の廊下のような空間が広がっていた。そこの床はそういう施設でよくあるような青と黄色の規則的で複雑な模様の入った深紅のカーペットで覆われていて、壁は一面色褪せた青い壁紙が一面に広がっている。そして天井には少し広い間隔で少しくらい電球が一列に並べられている。彼はうんざりしていた。なんで俺だけがこんな目に合うんだ。ドアを開けても開けても最悪な部屋が続くだけで、無駄に希望だけ見せてきていつまでもそこにはたどり着けないようにされてるんだ。今頃、町の奴らは俺の事なんかもう忘れて何食わぬ顔で昨日と変わらない暮らしを続けているんだろう。彼はそんな無意味な考えとどうしようもない怒り、喪失感だけを胸に、何も聞いていないようにずっと模様の変わらないカーペットの上を歩いている。そして、どれだけ歩いても景色は変わらないが彼の目には、あるところは映画館の通路、あるところはゲームセンタ―の通路に見える。またあるところはモールのスタッフでさえも知らない忘れられた通路のようにも見えた。

 彼の中には人が居ない孤独への不安より、もう二度と帰れないという絶望の方がはるかに大きかった。しかし、彼にとっての故郷は彼の苦しみの象徴でもあったため、その絶望は戻りたい願望からくるものではなく、不安定なここよりかは安定していた故郷に戻り安全に過ごしたいというものだった。彼はそんな感情を抱いているが、それでもカーペットの模様は続き、壁は同じ色で、電球は等間隔に並び同じ明るさで光っている。

 誰も思い出すことのできない通路を歩く彼はある音を聞いた。それはまるで誰かが歩いているような音だった。カーペットを踏むようなその音は決して速いものではなかったが遅くなることはなく、それはゆっくりと歩みを遅らせた彼に近づいている。彼はだんだんと近づいてくる音にどことなく不安を感じている。その音は恐ろしい怪物の物とは限らない。そして、彼と同じように地獄に落ちた人かもしれない。しかし、彼は音の主を怪物だと思っている。おそらく彼はその音が足音のように聞こえ、ずっと変わらず同じ速さで彼に近づいているからだろう。

 あの音が最初よりもずっと大きくなり、彼の頭の中でうるさく響いてきたころ、彼の心を圧迫する風船のように膨らんだ不安は突然しぼんだ。彼はこの一本道の通路に一つの扉を見つけた。その扉は青や白など空を思わせる色が使われていたが、少し風化したペンキで塗られている。彼は無意識に現実世界を連想し、帰れるという希望を見出していた。

 彼は重い扉を開いた。するとそこには青空と丘のある緑の草原が続いていた。彼はようやく帰ることができたと安堵したがそれは一瞬にして崩れ去った。彼は最初そこを本物の現実だと思っていたが、それはただの錯覚であり彼の心が光を忘れていただけであった。

 そこには確かに青い空と緑の草原が続いていたが、それは現実のそれよりはるかに鮮やかだが八十年代の映像のような不鮮明な景色だった。そして、彼は理由もなくいくつもある丘の一つに登る。彼はそこで衝撃的なものを見た。隣の丘に人が座っているのが見えたのだ。彼は逆さにした茶碗のような急な丘を下り、隣の丘に向かう。彼が先ほど見た人のすぐ近くまで来るとその人は彼に気づいたのか、こう彼に話しかける。

「Ghbdsn. Pdskrb nb?」

それを聞いた彼は理解できなかったが咄嗟にこう返した。

「キャン ユー スピーク イングリッシュ」

「Yes, I can.」

大抵の場合失敗に終わるであろう彼の選択が成功し、彼と丘の上の男はともに英語で話すこととなり、彼は丘の上の男にこう聞く。

「名前はなんだ」

丘の上の男はこう返す。

「俺はニコライだ。俺は長い間この平原に住んでいる」

「お前はいつからここにいるんだ」

「さぁ、分からない。何年か経った感じがするが外ではまだ数日しかたってないかもしれない」

「何でそんなにも長くここにいるんだ」

「ミハイルっていう奴を待っているんだ。リヴィウの小麦農家の三男。どうだ、知らないか」

「俺は日本人だからわからない。でも何でそいつをずっと待ち続けているんだ」

「少し長くなるが聞いてくれるか」

「次いつ人に会えるかもわからないし、聞いてみるよ」

「分かった。俺がこんなところに来る二十年以上前、俺とミハイルはLmdsdの同じ村に生まれた。俺たちは互いに接することはほかの友達に比べれば少なかったが、それでも小さな村だったからほかの友達と遊ぶ時、たまに一緒に遊んだ。

そこから十数年は何もなかったんだが俺らが二十二歳になった頃、東の大国がこっちに攻めてきた。俺らはすぐに招集されて東部で戦うことになった。俺とミハイルは故郷ではあまりかかわりがなかったが、いろんな地方から兵士が集まるものだから、俺らは自然と以前より仲がよくなった。どこまでも続く土の溝の中で平原を挟み、何か月も敵と戦うものだから守り守られ飯を共に食う戦友は一番の心の支えだった。

俺は敵を何人も討ち部隊長からも褒められるほどだったが、ミハイルは俺の知る限りでは訓練をしていたころから止まった的にも弾を外し敵兵相手には引き金を引けるようになるまで二か月もかかった。それでも、俺は仲間や故郷の人たちを守るために常に一番前で戦い続けた。爆弾を投げ入れ、鉄の鳥を撃ち落とし、戦った。

それから同じように戦う日々が続き夏も終わる頃、俺らの部隊に一つの指令が来た。 [攻勢に出よ]と。その指令が来てすぐに俺らはその準備を始めた。弾薬を分け、武器の点検をし、最後になるかもしれない飯を食べた。俺は飯を食べているときにミハイルにこう言われた。[俺はこの戦場で何もできていないが、明日からの攻勢を無事に生き残ることができるか]俺はもちろんこう答えた。[ああ、できるさ。何があっても]俺はミハイルとそんな感じのつまらない話をした後、明日に備えて寝た。

翌日まだ日も昇っていない頃、俺らは指揮官に起こされ装備を手に取り、敵の拠点への攻撃を開始した。俺は今まで通り一番前で敵を討ち前進した。しかしその時、攻撃に耐えた一人の敵兵が俺らめがけて攻撃してきた。俺は咄嗟にミハイルとその近くの仲間たちかばった。俺が死ぬ直前ミハイルは俺にこう言った。[故郷には行けなくとも、いつかどこかでまた会おう]俺が彼に返事をした直後、俺は死んだ」

ニコライの話が終わると輝はこう聞いた。

「死んだあと、ここに来るまでは何があったのか」

それを聞いたニコライはこう語る。

「俺が死んだあと木の部屋で目が覚めた。すると真っ黒な人が現れ、俺にここの説明をした。[ここは地獄だ]その言葉を聞いて俺は深く絶望したが、すぐに受け入れることができた。俺は人を殺したんだから地獄に落ちるのは当たり前だという考えだけが俺の頭を蝕み、単調な空間はその傷をより深くした。しかしそんな時、俺はここに来た。故郷の風景によく似たここが彼を待つ場所だと感じた。そして、ここに何人もの旅人が来て去っていった。君もその一人だ。君はこれからどうするんだ。君、何も考えず歩いてきただろ。」

輝はハッとした。彼は意識していなかったが、ニコライの言う通り何も考えず、彼は当てもなく出口という幻想を抱きながら地獄を歩いているだけであった。続けて、ニコライはこう言う。

「それから君は今、[どうして自分だけがこんな目に]と思っているだろう」

またもや自分の状況を言い当てられた輝はこう言う。

「どうしてわかったんだ」

「簡単だ。顔と声でそれくらい分かる」

ニコライはそう答えた。彼は更にこう言う。

「君は自分だけだと思っているが、それは君が他人の困難を見たことがないからだ。自分の苦しみを否定することはよくないが、周りを知ろうとせず[どうして自分だけがこんな目に]と思うことはそれ以上によくないことだ」

輝は思わず反論したくなったが、彼はニコライの言葉に対する反論を考えることができなかった。

「そして、目的を持つことがこの地獄で自身を保つ方法だ。君の目的は何だ」

ニコライがこう言うと輝はこう答えた。

「もちろん現世に戻ることだ」

「そうか。まあ、そうだよな。今まで会ってきた奴らは大体そうだった」

ニコライはそう言った。少しの沈黙の後、輝はこう言う。

「だが、そんな綺麗事を言ったって、論理の上ではうまくいっていたとしても本当にできるかは別じゃないか」

「そうだ、俺が言ったのは他人視点の綺麗事だ。だがな、これだけは言える。人間は理論を実現できないが、人間だけが理論を実現できる。君も、この永遠の地獄でいつか君自身の答えを見つけることができるだろう」

「俺は大事なことを見失ってたよ。俺のためにもお前のためにも、何があっても希望と信念は捨てないようにするさ」

輝がそう言うと、ニコライは一瞬だけ迷う様子を見せこう言う。

「ここに来た旅人の何人かから聞いた話なんだが、どうやら無限に続く空港の飛行機に乗るとこの地獄から脱出することができるらしい。噂話だが、歩き方を決めるくらいには役立つだろう。」

「次のエリアに行くためにはどうすればいいんだ」

「俺は次のエリアがどんなものかは知らない。だが、ほかのところに行きたければ、あそこにあるドアに入ると良い」

そう言いながらニコライは百メートルくらい先に見えるドアを指さした。そのドアは丘の広がる草原にただ一つあるだけであったが、輝もニコライもその点には全く違和感を覚えず、不鮮明な草原に溶け込んでいるようでもあった。

「ありがとう、必ず脱出するよ」

「頑張れよ」

二人はそう言った。輝がドアの方に歩いて行き、ニコライは再び孤独になったが、自分の言葉が一人の少年を脱出に向かわせたことに喜びを感じていた。

 輝はためらわずに懐かしい色をしたドアを開け、その中に入った。そこにはショッピングモールやファストフード店にあるような子供向けの遊び場のような空間が広がっていた。輝にとっては自分の記憶の奥底にある光景との区別はつかないが、ただ一つ異常であると彼がはっきりと言える点があった。それは普段から使われているような空間で、彼以外誰もいないことだ。

 照明によって暗さがより強調された藍色の壁にはカラフルな花の模様が描かれていて、彼の誰もいない不安感をより一層強いものとしていた。木をモチーフとしているように見えるプラスチック製の滑り台、どこまでも深く続くようなボールプール、そして、立体的に入り組んだ赤、青、黄、緑、の小さな通路とチューブ。どれも彼が幼いころに遊んだことのあるもののように見えたが、彼が遊んだことのあるものとは何かが違う。

 滑り台の上の空間には磁石と砂鉄が入った円盤状のおもちゃや、丸、三角、四角などの形のカラフルな木材をレールに沿って動かすおもちゃなどが置いてあった。それらは誰かが使ったように見えるが、ここには誰もいない。人が忽然と消えたような光景は、新品のそれより彼の中の違和感と郷愁をより強くさせている。

 輝はそんな不気味な空間を歩いてゆく。彼の脈拍、呼吸、歩みは一定のリズムで刻まれ続けている。そして、出口を探す彼の目は瞳孔が開き、必死に脱出の手がかりを探している。しかし彼にできることは、ただ彷徨い自身の前に出口が現れることを祈るだけだ。彼の奥底ではそれを分かっているかもしれないが、それが彼の思考の表層に浮かび上がることはないだろう。

 彼が行き止まりの部屋に来た時、彼は初めてチューブの中に入った。懐かしいあの頃の記憶と共に、チューブに入るにしては少し大きい体で彼は屈みながら進んでいる。そして、時々現れるアクリル板の窓の外を彼がのぞくとそこには、彼はまだ何も考えずに生きてきたあの頃を思い出す。その窓の先にはただ、彼が今まで歩いてきた光景が広がっているだけだが、彼はそこにも彼の記憶にもいるはずがない誰かをその光景に当てはめていた。

 体をひねらせながらグネグネと曲がったチューブを進んでいる時、彼はぼんやりとした昔の記憶を思い出した。季節は秋ごろだろうか。とある大型商業施設で彼の両親が買い物をしている間、彼が子供の遊び場で遊んだ記憶だ。商業施設自体が大きかったこともあり、その遊び場にはそのころの彼と同じくらいの年齢の子供が二、三十人ほど遊んでいて、広さは彼にとっては当時通っていた幼稚園の教室よりもずっと大きく感じた。彼は一時間と少しそこで遊んだが、彼にとって一番印象に残った物はやはり遊び場全体に広がっていたチューブの遊具だった。何も考えずにただチューブの中を進み、滑り台を滑るだけでも、当時の彼にとってはとても楽しい新鮮な体験だった。

今の彼はあの頃とは違い、考えるべきこともたくさんあり、今すべきことも持っている。だが彼は、あの頃のような遊具を懐かしみ、大きくなった体で再びチューブを通っている。彼はこの郷愁の空間にいつまでも留まっていたい気持ちもあったが、その誘惑を振り切り自身の目的を達成するために歩みを進め続ける。

一時間ほどたっただろうか。生物のように複雑に入り組んだチューブをしばらく進むと、彼は今までこの階層で見てきた部屋の数倍か数十倍ほど広い、広場のような部屋に出た。今まで狭いチューブを進み続けていたせいか、このような広い空間に出て彼は無意識のうちに深呼吸をする。そこには高さが五十センチもないが、直径は二メートル弱くらいある子供向けの遊び場に置いてあるような、よくある円形の白い机がいくつも置かれていた。天板は白くプラスチックでてきているように見えるが、汚れによるものだろうか少しくすんでいる。脚は白くゴムのような質感だが中には硬い芯が入っているだろう。それらの机の上には、紙やクレヨン、鉛筆、積み木などがあたかもついさっきまで子供たちが遊んでいたかのように置かれている。

机が置かれていないところには未完成の積み木が積まれている。壁には大人の身長くらいのカラフルな棚が置いてあり、その中のいくつは半開きになっている。そして、そこには塗り絵の用紙や積み木、長さが不ぞろいなクレヨンがいくつも入っていた。

少し落ち着いた様子の彼だったが、まるで時が止まったかのようなこの空間の一貫とした不気味さにより、彼も気づかないほどの些細な恐怖が彼の心の奥底で警告を発している。

そして彼は再び歩き始めた。一歩一歩、まるでそこに存在するはずのない子供たちをよけるように歩いている。そこには彼以外の何物もいない。彼は分かっているはずだ。しかし、こんなにも乱雑な子供の遊び場なのだから誰かがいるはずだという考えは彼の感情では否定されても、今までの習慣や経験の積み重ねによって頭の中に留まっている。

机の間を通り抜けている間、彼はふとあるものが目に留まった。絵と文字が書かれたただの紙。小さな子供が描いたような絵だったが、書かれている文字は彼にとってとても奇妙なものだった。近頃のAI生成画像のような、日本語を知らない人が書いたような、また風邪をひいた夜の夢に出てくるような…溶け落ち再び固まった平仮名のような文字がそこには書かれていた。遠くから見るにはただの平仮名だが、近くで見ると読むことができない。その違和感が柔らかい布のように彼の頭の書庫を包んでいた。しかし彼は、その紙を数秒見た後すぐにまた進みだした。

そして、新しい空間へと歩いて行く。曲がっても曲がっても同じような光景が続くが、彼は出口に近づいていると信じ進み続けている。正解を選んでいると思い込むことは簡単で愚かなことであるが、先へ進むことができる者はそうした者だけだ。彼が本当に出口に近づいているかは誰にもわからない。それはこの地獄がどのような世界よりも無秩序であり、絶対的なものなど無いからだ。

いつ次の階層へ行くことができるかもわからないカラフルな部屋を進む彼は、大海原を眺める人のように落ち着いた様子で、歩幅を一定にして歩いている。そのようにして歩いているうちに彼の感覚で二時間ほど経ち、彼は今までの机のある空間と少し違う空間へと行き着いた。草原のような緑色と青空の空色が塗られた壁、新緑のようなカーペットがどこまでも続くような一本道。その両側の壁沿いには無数の壁のテーマに沿った靴箱が置かれている。これからパーティーが始まりそうな雰囲気のこの空間だが、彼にとっては次の階層へ行くことができるかもしれないという希望がある空間だった。

そして、彼は一本道を歩きながら古い記憶を思い出す。小学二年生の夏休み、家族で母の実家に行った時だ。彼女の実家は郊外のニュータウンにあり、三泊四日の二日目に彼は家族と共に近くのショッピング―モールに訪れた。彼は家族がそこでショッピングを楽しむ間、ちょっとした遊び場のようなところに預けられた。その遊び場は靴を脱いで遊ぶところだ。今では少し面倒だと彼は思うが、遊ぶための準備であるこの行動は当時の彼にとって、遊びたいという気持ちでいっぱいな心を更に刺激する行動であった。今の彼はそこでどんな遊びをしたのかやどんな人と遊んだのかはもうすっかり忘れてしまったが、当時の興奮を完全に忘れることはなかったようだ。今は遊びの前とは違いこの地獄から這い上がるため彷徨っているが、今彼の心に巻き上がった希望はあの時に感じでいた期待と同じものだろう。

しばらく一本道を歩き続けた彼は、曲道に出会った。一本道が右側に曲がっているだけのものだったが、彼は次の階層に行けるのだろうかと思いを巡らせていた。彼は無意識に拳を握りしめ、曲がり角を曲がる。彼の目の前には開けた景色が広がった。そこではショッピングモール特有の床や誰もが見たことがある吹き抜け、生きているかプラスチック製か分からない観葉植物が不規則な繰り返しを作っている。

彼は歩き始めた。とりあえず、吹き抜けのガラスの低い壁に沿って。床は白い石のようなタイル製で、灰色の細い線がタイル同士の境界を引いている。そして、所々赤や緑のタイルも混ざっている。天井はタイルのようには見えないが、何か白いものでできていた。彼の左側に並ぶ店には商品が並んでいるが店員がおらず、当然どこを見ても客らしき人は一人も見当たらない。緩やかに曲がった通路は百メートルほど先までしか見えず、そのことが彼の心に不安感を塗っている。

彼が歩く道の隣のガラスには、数十メートルくらいの間隔でポスターが貼ってあった。そのポスターは彼に歩いた距離を教えていたが、一度も見たことがない店や商品、文字が書かれていることはこの空間の不気味さのもとにもなっている。そのポスターの不気味さや機械の作動音、独特の生暖かい空気、常に多くの人が行きかう場所に誰もいない違和感は彼の中に潜む負の感情を動かしていた。

もう一時間は立ったのではないか。そう感じながら彼はただ一歩ずつ歩いている。そして、本当に出口などあるのか、これはただの夢じゃないのか、ここに来てからと言っても俺はもう死んでるから脱出したとして一体何の意味があるんだ。そんな考えが彼の心を揺さぶる。

しかし、彼の心の暗雲は一気に晴れることとなる。

「Hey」

彼はそう声を掛けられ周りを見渡すと、数十メートル先に手を振っている人が見えた。彼はすぐに手を振り返し、彼を呼んだ人のもとへ向かった。

彼がその人のもとへ着くと、彼はその人が男だとわかった。

「Where are you from?」

と彼は聞かれた。

「I am from Japan」

「ああ、日本か」

自身の答えにそう返され彼は驚いた。

「そうか…俺は吉田(よしだ)勇人(はやと)。君は」

「俺は神野輝」

「輝か、ところで空港の話は知ってるか」

「出口の事か」

「そうだ。君、戻りたいのか」

「ああ、戻りたいさ」

「そうか、それならうちの拠点の奴が脱出者と会ったことがあるから話を聞くか」

「そうするよ」

二人は勇人の所属するグループの拠点へと歩く。

 二人が数分歩くと、勇人がフードコートのような場所を指さしこう言う。

「ここだ」

二人がグループのメンバーの前に出ると、青い服を着た男がこう言う。

「勇人、こいつは誰だ」

「こいつは神野輝ってやつだ」

勇人がそう答えると続けて輝にこう聞く。

「君、中学生か」

「そうだけど」

輝が答えると青い服の男は少し黙り、

「辛いなら何があったかは話さなくていい」

と言った。輝が頷くと勇人はこう言う。

「こいつに空港の事を話してやれ。空港が出口なことは知ってるみたいだ。秀司(ひでじ)

「わかった。神野、まずこれだけは覚えてほしい。地獄は常に変化し続けている。だから、今から話すことが今のことと同じとは限らない。いいな」

「わかった」

「勇人からも聞いた通り、俺は脱出者に会ったことがある。そいつは若いころに事故に巻き込まれて死んだようだ。そいつが脱出した時は、このショッピングモール、美術館、オフィス、駅、そして空港と通った階層はどれも現代的な空間だったようだ。そして、空港で数日間歩いた時、日本行きの便を見つけたそうだ。空港に向かうためには彼のように現代的な空間の階層を目指すとよいだろう」

「ありがとう」

輝がそう言うと別のメンバーがこう言う。

「来客も来たことだし、何か食うか。みんなは何がいい」

それを聞いたメンバーの人たちが各々の食べたいものを挙げていき、輝はこう言う。

「俺は定食が食べたい。あるか」

それを聞いたメンバーは頷き、秀司と共に料理を取りに行った。そして、輝は勇人にこう言った。

「この年齢だから学校で俺に何かあったのかと考えているかもしれないが、俺はそういうのじゃなくて、魂がここに来たせいで事故を起こして死んだらしいんだ」

勇人は驚いた様子でこう言う。

「学校とかで何か起こったじゃないんだな。それはよかった。どうせなら現世でのことを教えてくれないか」

「まあ、あんまり話すこともないけど、俺は学校で勉強にはついていけてたが、部活はあまりうまくいってなかったんだ。そんな悩みくらい誰にでもあるんだろうけど、その時は辛かったかな」

「懐かしいな。俺にもそういう時があったからよくわかるよ。でも、そんなことはすぐに過ぎ去る。言ってしまえば、君の今の状況も悩みが過ぎ去った状況なんじゃないかな」

勇人はそう返した。その数秒後、料理を取りに行っていた二人が戻ってきた。

「みんなただいま」

秀司はそう言いテーブルに料理を置く。その後、皆が料理の置かれたテーブルに集まり、料理を食べ始めた。輝は体感一日ぶりの食事を口にした。定食の焼き魚が何の魚かは彼にはわからなかったが、その白い身を米と共に口に入れると、魂だけのはずの彼の体に魚のうまみが隅々まで広がる。みそ汁の塩気は疲れた彼の心にしみわたった。

「本当の体はないし腹も減らないんだがな、どんなものでもたまに食べると疲れがすべて消え去るくらいにうまいんだ」

秀司はそう言った。輝も秀司の言ったことを身に染みて感じていた。

「次の階層に行くためには、元の施設に出口があるところに行ったり、ドアを開いたりすることがいいみたいだ」

皆が料理を食べ終わると勇人はこう言った。

「ありがとう、どんなに長い道でも必ず脱出するよ」

輝はそう言うと、グループの人たちに手を振り再び彼の旅を始める。彼はショッピングモ―ルの出口について考えた。すると、その答えは以外にもすぐに出た。一階だ。当たり前のことだが、建物の出入り口は平地に建てられていれば一階にある。彼は一階に降りるためにエスカレーターを探す。彼にとってショッピングモールのエスカレーターは吹き抜けの近くにものだったので、彼は再び吹き抜けに沿って歩き始めた。低いガラスの壁の手すりに右手を添えながらエスカレーターを探す彼は、ふとここは一階からどれくらい離れているのかが気になり、ガラス越しに吹き抜けを覗く。角度の問題で彼は真下を見ることができなかったが、それでも見えている部分だけで下に二十階以上はあることが分かった。

 数十分ほどたっても、彼はガラス越しにエスカレーターを探しながら歩いている。普段は人々が出す音によってかき消されるその足音は、タイルを伝って何層も続くショッピングモールに響き渡る。緑色のタイルを踏んだ時、彼は自身のすぐ横にエスカレーターがあることに気がついた。遠くから見た時には彼はそれを見ていなかったはずだ。しかし、そんな違和感もただの記憶違いということにして済ますことが彼にとっての最善の選択肢だった。

 脱出に一歩でも近づいたという喜びと共に、彼はエスカレーターでこのショッピングモールの一階を目指す。少し気が抜けたのか彼は上りと下りを一回間違えてしまったが、下りのエスカレーターに乗った。エスカレーターからは何層も重なった店舗がエンドロールのように動いて見えている。彼はこの階層の終わりには近づいている。しかし、脱出まではまだ遠いという現実に彼はうんざりしていた。

 エスカレーターを乗り継ぎ最下層まで到着した彼は、先ほどまで吹き抜けがあった部分にも床があることに小さな安心を感じる。周りには今まで見てこなかったパン屋や食料品店などが通路の端に広がっている。そして、通路の中央には低木が植えられた花壇が置かれていて、数百メートルおきにある大きな広場では大理石のような石で作られた噴水が、水の流れる音で彼の足音をかき消していた。

 広く寂しい通路を歩いている彼は、ほかの店と変わらない一つのパン屋の前で少し立ち止まった。彼は通路に面したショーケースの前で少し屈み、下から二段目に置いてあるパンとその値札を見た。値札に書かれていることは今までのものと同じように、日本語のような何かで書かれている。値札を読むことはできなかったが、彼はそのパンがいちじくパンだと確信した。その名前と香りは彼にとって、とても印象深いものである。

今から九年ほど前、まだ年長だった彼は黄と紅の葉が散る帰り道、母と一軒のパン屋に行った。彼女はそこで明日の朝に食べるパンを買う。彼女がソーセージパンを家族四人分買うためそれらをトレーに乗せようとした時、輝は小さな手で彼女の上着を揺さぶり一つのパンを指さした。それこそがいちじくパンであった。

「分かった分かった。じゃあ明日はこれにしようか」

彼女はそう言い、ソーセージパンの代わりにほんのり甘い香りのするそのパンをトレーに乗せレジに持っていった。

 三分ほどショーケースの前でパンの香りと共に物思いにふけていた輝は、再び立ち上がり歩き出す。小さな足音を響かせ歩いている彼が、ふと幅四メートルほどのわき道の方を見ると、彼は道の先に何かを見つけた。それが何かを確認しようとわき道に入った彼は、

「何だ」

と少し驚いたがすぐに先ほどまでのように落ち着いた。彼がわき道の先に見たものはガラス製の扉であった。しかし、その扉の向こうは白い光により何も見ることはできない。そんな中でも彼は意を決し、扉を開けた。彼はここからは見えないだけで向こうには新たな階層が広がっていると思い一歩踏み出したが、彼の体は突然空中に投げ出され白い光に包まれていた空間は一瞬にして灰色の雲が空を覆いつくした。

彼が落下し始めて一秒もたたないうちに彼は暗い水に飲み込まれる。彼が水面から顔を出しあたりを見回すと、灰色の空が広がっているはずのところには、水面から六メートル弱のところに白いタイルが敷き詰められ、彼の横には天井のものと同じタイルでできた床があった。彼はすぐに水から出て、新品同然のタイルに腰を下ろす。

少し休んだ彼は特に理由はなかったが、なんとなく明るい方へと歩き始めた。彼の歩く道は曲がりくねったプールに沿った真っ白なタイルが続くプールサイドであり、彼が見ている範囲には照明のようなものはどこにも見当たらない。しかし、彼が進むごとに道の先の光はだんだん明るくなってゆく。遠くからの光を受け取ったプールの水は澄んだシアンに見え、一メートルほどの深さのプールの底にある白いタイルがどこからか来た波と揺れている。足元に気を付けながらも、静かな波の音と自身の足音に耳を傾け、右手を冷たいタイルに添えて歩く彼は分かれ道に出会った。その道は今の一本道から左右に伸びている。そして彼の目の前には今まで彼に光を届けていた窓があった。しかし、その窓を彼が見てもあまりまぶしくない。白い画面を移し続けているスクリーンのようだったが、彼はその先に永遠ともいえるほどの広い空間があるように感じられた。

少しの間だけ悩んだ後、理由と言えるものなどなかったが彼はこの分かれ道の左側に進んだ。彼はぬるいプールに入り、水の中を少し歩いた後対岸に上がる。濡れて光を反射しているタイルの上を歩く彼はある違和感に気がついた。水に入っている時には確かに水の感触があるのだが、水から上がると彼の体は今まで水の中に居なかったかのように乾いている。妙な湿気のせいだろう。彼はそう考えた。そして、水の音だけが小さく広がるこの空間でカッ……カッ……と鳴る彼の足音はこの道々のはるか先まで響き、その音は彼に浮遊感を与えると同時に彼の心を優しく締め付けている。だが、浮遊感と心の窮屈さはその絶妙なバランスは彼をあまり不快にはさせず、むしろここが地獄であり自分がすでに死んでいるという事実を彼の心の表層から追い出しその奥深くにとどめている。そして、彼が歩く道は後ろから柔らかい光で照らされているが彼の影が少し伸びていた。

左の道を進み始めて三十分ほどたった頃、彼は右側の壁にある窓の前で立ち止まる。その窓は先ほど彼が分かれ道で見た窓と同じようなものであったが一つだけ確実な違いがある。その窓の下には真っ白な植木鉢に植えられている一メートル半弱の植物があった。彼はその植物を知らないが、確実にどこかで見たことがある。かすかに消毒の匂いがする水と人工的な白さが広がるこの空間で、()の入った熱帯の植物が窓からの光を浴び佇んでいる。この植物は今ここに現れたのだろうか、それともはるか昔からずっとここに独りで生き続けているのだろうか。ゆっくりと息をする彼はそう思った。しかし、観葉植物は彼が思っていることが無駄だと言うように、ただそこにいるだけだ。

彼があの観葉植物の前を通ってからしばらくたった頃、彼の進む道はだんだんと薄暗くなっていった。不思議なことに彼は今まで気にしてもいなかったが、同じタイルを踏んでいても暗い方が不衛生なように感じる。そして、彼は無意識のうちにタイルに触れる足の面積を減らすように歩いていた。彼がそう歩いているうちに彼の周りは更に暗くなり、ついには水とプールサイドの境界さえあいまいになってしまうほどに暗くなる。もしかしたら穴に気づかず落ちてまた最初からかもしれない。彼はそう思いながらもゆっくりと足を進めている。冷たく湿った空気が彼の周りを冷やす。それが暗さと相まって彼の中に潜みしばらく姿を現さなかった地獄への恐怖を呼び起こしていた。暗い一本道に規則的でも不規則でもない水の音が響く空間で、彼の孤独と何が起こるか分からない不安の心は泡のように膨らんでいく。

しかし、彼の前に文字通り一筋の光が現れた。タイルと水の区別もつかないほど暗い道に彼が入って数時間、道の数キロメートルほど先が明るくなっている。彼の足取りは少しだけ早くなった。そして、彼はその光に着実に近づいている。彼の歩みに合わせてだんだんと彼の周りは明るくなってゆき、彼が光を見てから四十分ほどたった頃には水とプールサイドの境界がはっきりとわかるほどになっていた。明りに近づくにつれて彼の心の恐怖と不安はだんだんと薄れていく。

更に三十分ほどたった頃、彼は狭い一本道を抜け少し開けた部屋へとたどり着いた。教室より少し狭いくらいの大きさの部屋だが、左右にある窓からの光による明るさも相まって、この部屋が理科室や美術室のような大きな教室より広いように彼は感じる。彼がこの部屋を見渡すと右側の壁に次の通路が見えた。しかし彼は、この部屋には水が一滴もないことに気がつく。それはとても些細なことなのだが、プールが続くこの空間では一つの部屋に水がないということはあまりないことである。そして、彼はタイルが一面に貼られた水のない部屋から、次の細い通路へと進んでいった。

その通路は彼が思っていたより短く、たった十歩ほど歩いただけで彼は先ほどの部屋よりもずっと広い空間に出た。どこまでも続くプールの天井には照明が規則正しく広がり、彼が今まで歩いてきた道が水の上に続いている。照明の明りは先ほどまでの窓から入ってきた柔らかい光とは違い、冷たく突き刺すような光であった。彼はプールの水で滑りやすくなった道から落ちないように一歩一歩慎重に歩く。その姿はまるで崖の上にかかった木製の古い橋を渡る人のようであった。

「うわっ」

彼は思わず声を出した。周りのプールの水は小さな波さえないほど静かだったが、どこからかなっている重低音を彼は聞いたからだ。彼はそれ以降その音を聞くことはなかった。しかし、雷鳴より大きな静寂の中彼の足音だけが響くこの空間に鳴り響いたあの音は、彼の思考のプールの中で果てしないこの空間と結びつき、不穏な想像が雪玉のようにだんだんと大きくなってゆく。もしかして自分の近くに怪物が潜んでいるのではないか。彼はそう考えることもあったがその音が鳴ったのはあの一回きりだったので、彼の思考はもう意味はない。

 彼の思考の豪雪が収まった頃、彼の進んでいた道がついに終わった。彼は道の先端に取り残され後は泳ぐしかない。しかし、彼は道に三段しかない下りの階段が水の下に続き、彼の胸ほどの深さにある道を見つけた。彼は階段に沿って体を水の中に入れていく。彼は水の重みを感じながら浸水した道を歩く。その空間には彼の足音ではなく、彼の歩みによって生まれた波の音が響いている。狭い通路の時とは違い広大なプールの水に浸かる彼は、自分の胸ほどの高さまであるぬるく重い水に不快感を覚えていた。周りとつながっているからこそ何があるか分からない。彼はうまく言葉に表すことができなかったが、きっとそのような理由があったからだろう。

 彼が沈んだ道を歩き始めてしばらくたった頃、重い水をかき分けていく中で彼は徐々に疲れ、彼が歩く速さはだんだんと遅くなっていった。水の重みで動きにくいが、その水の浮力により彼は今までに感じたことのない夢の中にいるような奇妙な感覚を味わった。それは彼にとって決して心地よいものではなく、むしろ孤独感に近い。なぜなら、夢の中も今の彼も人に会うことはないからだ。そして、彼はこう考える。本来ここには水がなかったのではないか。彼の観測できる情報では、それは理にかなっていた。彼には中途半端に水に浸かっているこの道がプールサイドとして生まれてきたとは思えない。その非合理性と乱雑性は何もないここが地獄である要因の一つとなっているのだろう。

 そこから五分経過した。彼は少しの間だけ歩みを止め、一本道にただ一人立ち尽くす。彼の呼吸は少しずつゆっくりとなり、存在しない心臓からの鼓動はもう聞こえなくなる。数分経って彼が再び歩こうとした時、突然あたりが暗闇に包まれた。彼の鼓動は再び早くなりだす。ぬるいプールの水はだんだんと冷たくなり彼の足元の道はもうなく、暗闇の中彼は少し流されたようだ。そして、彼は水面がどこかもわからないまま浮き続けた。

 彼が思っていたよりも早く周りは明るくなり、彼は周りの景色を目にして驚愕した。彼は広大だが閉鎖的なプールではなくどこまでも続く大海原の上を浮いている。全てを飲み込んでしまいそうな深い水は濃い藍色をし、優しく揺れる波は小さな音を奏でている。空は色水のような淡い青色に染まり、綿花のように白い雲がところどころ空を覆い、太陽は雲の裏に隠れている。そして、太陽と反対の方向には少し遠いところにさびれた白い灯台が見え、海面に近い部分は黄と茶の錆に侵食されていた。

 彼はとりあえず灯台の方へ泳ぎ始めた。海の独特な匂いが漂う中彼が泳いでいる時彼の目や口に水が入るが、彼は不思議としみる痛みや塩の味を感じることはなかった。彼の記憶になかったからなのか地獄による模倣が不完全なものだったからなのかは彼にはわからない。しかし彼はそれをすぐに忘れ、ただ目的地とする灯台へと泳ぐ。プールで水をかき分け進んだ時の疲労により、彼の腕と脚の動きは鈍くなる。彼がこんなに必死に泳いだことは今までになかった。しかし、小学生の頃に水泳を少しだけ習っていたおかげで、彼は溺れることもなく少しずつだが進み続けられていた。

 彼が灯台に近づいた頃、彼の頭に何かがぶつかった。それは軟らかく彼は特に痛みを感じることもなかったが、彼は無意識に周囲を見渡し何がぶつかったのかを確認する。それは小さなボールだった。ゴム製の緑色で彼の握りこぶしより一回りほど大きいボールが波に揺れている。しかも一つだけではない。緑のほかにも赤や黄、ピンク、見えにくいが青色のボールも、まるで彼の心の中で思い出されることもなくただ彼の記憶の海を静かに漂ういつかの思い出のように、永遠の海の上を流れていた。彼も一度は見たことのあるボールだが、海とは全く関係のないものだ。

 更に数分後には黄色いアヒルのおもちゃと白いプラスチック製の椅子も彼のもとに流れてきた。白い椅子もアヒルのおもちゃも作られた時のままの色で傷一つなく、大海原を漂い続けたとは思えないほどきれいだ。そして、アヒルのおもちゃはここが地獄だということを知らないような無垢な瞳で大海原のはるか彼方を見つめている。彼はゴムのアヒルが見ている方向が気になりそちらを見たが、波に流されるボール以外には何もなかった。

 この海に来た時には遠くに見えていた灯台が大きく見えるほど、彼がその灯台に近づいた頃だ。彼は疲れのせいか不安のせいか、はたまた彼がこの地獄に来てから感じている孤独と郷愁、正と負の境界にある何とも言えない彼の心に絡みついた感情のせいかはわからないが、暖かい手で胸の奥をきゅうっと締め付けられているように感じている。

 そして、彼はやっとの思いで灯台までたどり着いた。彼は白く塗装された金属製の入り口の扉の前にあるコンクリートの床をつかみ、その上へ這い上がる。水に入ってから一時間もたってないが、彼は硬い地面を踏むことを久しぶりに感じた。しかし彼は、扉を開けようとしない。体がないとはいえ十数年間当たり前だった疲労と言う概念を消し去ることはできず、扉によりかかりコンクリートの硬い床へ座り込んだ。彼は何気なく顔を上げる。そこには彼の今までの事を何もかも受け入れてくれそうなくらいに広く、世界の全ての罪を許すほどに澄んだ青い空が広がっている。太陽が雲の裏で微笑んでいるため、彼はまぶしさを感じることもなく空を見ることができた。そして、彼は思う。このまま止まっていても何も変わらないと。今すぐにこの扉の奥へ行くべきだと。彼は立ち上がり古ぼけたコンクリートを踏みしめ重い扉を開けた。

 彼が扉の先へ進むと潮の匂いと波の音は消え、何十年も使われた木の香りと時が止まったような静寂が彼を包み込んだ。彼はここがどこかを一瞬で理解した。教室だ。その瞬間彼の頭には学校に関する記憶が溢れる。数々の楽しかった思い出や苦い思い出はどれも今では懐かしい思い出だ。そこは彼の通う学校と非常に似ていたが、どこかが違う。名前などの文字があるようなところには役目を終えたように崩壊した文字が書かれていて、放置された筆箱や鉛筆、通学鞄などは見知らぬデザインのものだが、理由はそれではない。椅子、机、窓などの細かいところが違うのかもしれない。彼はそれらを毎日見ていたはずなのだが元の姿かたちを思い出すことができなかった。

 夕暮れ時の陽に照らされた教室では細かなチョークの粉が橙の光を反射し輝く。机や椅子に木目は刻まれ、黒板には板書が消された跡がうっすらと残り淡い黄色の方眼を隠している。そして、足音や話し声、ページをめくる音が絶え間なく鳴っているこの教室には、彼以外が一瞬にして消えてしまったかのような静寂がこの空間を支配していた。

 茜色の光に照らされたすりガラスの窓の引き戸を、彼はガラガラと音を立てながら開く。その引き戸は彼の通っていた教室の経年劣化したドアのように少し重たかった。廊下は教室と比べ少し暗いが、彼が小中学校でも見たことのあるくすんだ白い壁と床は、教室の二つの窓を通り少し弱まった陽の朱色に染められている。まばゆい光沢のステンレス製の流し台は絶妙な明るさが本来の色と合わさって放課後の寂しい雰囲気をより強くし、廊下の窓の先の町と田は夕暮れ時の帰路を彼に想起させた。

 しばらく経ち、彼は長い廊下を歩いていると天井に赤いプレートに白文字でEXITと書かれた誘導灯があることに気づく。そして、彼は吸い寄せられるようにその誘導灯に従い廊下を歩き始めた。彼の足音が暗闇と真っ赤な光の廊下中に響き渡り、残響は黄昏時の空気を震わせる。誘導灯に従い進む彼は階段を上り始めた。その階段は足元が見えにくいくらい暗いが、踊り場の縦型の窓から差し込んだ光が床の石材と手すりの木材を照らし、誘導灯に怪しげな雰囲気を与える。階段を使ったり廊下を歩いたりする中で彼はいくつもの教室の前を通り過ぎ、はるか遠くのトラックの音を聞く。それは彼に部活帰りの夕方を思い出させた。

 彼は廊下を歩いていると流し台の近くの壁にA4サイズのラミネート加工を施されたポスターを見つける。そのポスターには数年前までよく見ていた感染症対策についてのことがクマとウサギのイラストを用いて描かれていた。これらのポスターは彼の学校ではもう忘れ去られ、今は色あせた状態で放置されている。このポスターのように俺もいつしか忘れられるのだろうか。彼はそう考えながら西日に染められた廊下を歩いていた。

 永遠の夕暮れの学校へ来てから一時間ほどたっただろうか、誘導灯の示す方向に歩いていた彼は行き止まりにたどり着き、赤い文字で大きくEXITと書かれた金属製の扉が彼の目の前にある。周りの教室の扉とは明らかに異なった雰囲気を持っていたが、彼は出口に近づいた喜びによって、そんなこと気にもせず扉を開きその先へと足を延ばした。

 扉から受け取る印象とは違い、その先は清潔で雲よりも白い病室があった。扉は空港にこそ繋がっていなかったが彼は着実に出口へと近づいていると確信している。彼にとっては少し大きな無機質なベッドとまばゆい光を放つ窓、部屋と同じ白の棚と椅子だけがその部屋には置いてあり、それらは一つの大きな照明に照らされている。入院したことがない彼はこういう病室にはお見舞いでしか来たことがなく、中に誰もいない真っ白な病室は清潔で安心感があるイメージを彼に与えるが、同時に一人取り残された孤独感や不安感も与えていた。

 彼は部屋を出ようとした時、ベッドの上に何かが入った小さなアルミの袋を見つけた。彼がそれを拾い上げ観察すると、その袋の一部が透明で中には棒状の栄養食品のようなものがあることに気づく。その食べ物が何か特別な力を持っていると、ただの直感だが彼はそう思いそれを持っていくことにした。彼は雪より白い扉のスプーンのような銀色の取っ手を引く。その先には病室と同じような少しまぶしい照明に照らされた白くて無機質な病院の廊下が続いている。

突然すべての照明が一瞬にして消え、あたりが暗闇に包まれた。そして、学校の階層で見たあの誘導灯が一秒もたたないうちに点灯し、清潔さを連想させる白い病院が血のように赤い光に照らせれ、それと同時に彼がこれまで聞いたどんな音よりも大きなサイレンの音が彼の頭を突き刺すように鳴り響く。彼に驚く暇などない。静寂の病院中を駆け巡るサイレンの音と生と死の境界である病院、死後の地獄や炎のように真っ赤な照明が合わさり、彼は本能的に危険が差し迫っているのだと感じた。

そして、廊下の左側からサイレンの音の奥にダッダッダッダッと何かの足音のようなものが彼のもとへ聞こえてくる。その音はまるで久しぶりに獲物を見つけた猛獣がこちらへ向かってくるような音であった。決してその姿は見えないが、彼はそれが大きな脅威であることを確信する。逃げなければ永遠の苦しみを味わうことになるかもしれない。彼の頭はその考えに埋め尽くされ、音とは反対の方向へと彼は無我夢中で走り出す。たとえその考えがただの杞憂だとしても、彼はここを走り脱出しなければならない。赤い光が照らしているが薄暗く足元すら見えにくい廊下を彼は走る。

中学校へ入学したころから彼はあまり運動をしていなかったため、十数分走ると早くも疲れ始めた。彼の足取りは少しずつだが確実に遅くなってゆき、彼の呼吸と鼓動はだんだんと早くなる。しかし、彼は諦めようとはしない。彼の背後に迫る何かは疲れることもないようで、足音は一定のリズムで彼に近づいている。

胸が少し苦しくなってくると、彼は今年の五月にあった新体力テストのシャトルランを思い出す。胸の苦しさとだんだんと足に疲労がたまってくる感覚は当時のものを彷彿とさせ、耳をつんざくサイレンの規則的なリズムは誰もが聞いたことのあるあの電子音と彼は重ねていた。

必死に走る彼はあることに気がついた。あの足音が聞こえない。もしかして逃げ切ることができたのではないか。彼はそう思い疲れながらもなんとか維持してきたペースを少し落とす。しかし、彼はすぐにその考えを改める。彼は少し安堵してしまったが、走り続けることを選択した。落ちていたペースを上げ、胸の痛みを必死に抑え、出口に向かって走る。

そして、彼は血のように赤黒い光に包まれているこの廊下の左側に緑色に光る扉を見つけた。その扉には見慣れた非常口のピクトグラムが大きく描かれていて、その様子はまるで彼を救う唯一の救世主のようだ。彼は緑色の光に安心感を覚え、この扉がこの空間から次の階層へ進むための数少ない出口の一つだと思ったが、同時にこの扉が彼をより悪い状況へと追いやる悪魔なのではないかとも考えた。結局、彼は扉の前で立ち止まり、祈るようにそのドアノブを握りしめて回す。しかし、彼の悪い予想通りにその扉は開くことがなくただガチャガチャと音を立てるだけだ。彼はこの出口は偽物だとわかりながらも、必死にドアノブを回し、扉を開けようとするがその扉は決して開こうとはしなかった。

彼は再び走り出したが、一度止まった彼の脚は鉛よりも重くなり今までのように走ることは難しくなっていた。そして、彼を追い詰めるようにサイレンの音の隙間からまたあの足音が聞こえ始める。それでも彼は必死に走る。今、この瞬間の苦痛を受け止め、少しでも脱出に近づくためだ。

彼はこのまま次の階層までたどり着くことができるように思われたが、この地獄は彼に更なる試練を与えた。薄暗くて見えづらいが、ベッドや車いすが彼の進路をふさいでいる。少し時間が経ち多少は軽くなったとはいえ、彼の脚はまだ石のように重いままだ。そんな状態ではベッドどころか小さな棚さえ超えることはできないだろう。

しかし、彼はあることを思い出す。真っ白な病室を出る前に、アルミの袋に包まれた食料を彼は拾っていた。そして、彼はそれを拾った時その棒状の栄養食品に何か特別な力を感じていた。彼は決して後ろを見なかったが得体の知れない何かが彼のすぐそばまで迫っていることは、響き渡るサイレンの中でもわかるほどに足音は近づいている。彼にはもう考える時間など残されていない。彼は意を決し、地獄に相応しい赤い光を反射し輝くそのアルミの包装を破り、中に入っていた黄土色のそれを食べた。すると、彼の脚はみるみるうちに軽くなり、まるで疲れてなどいないように簡単にベッドや車いす、点滴スタンド、手術台などでできた障害物を乗り越え、出口を目指す。この食べ物の力は彼の信じていた通りであった。彼が走るペースも最初の頃と同じくらいにまで戻っていた。彼のすぐ後ろにまで迫っていた足音がサイレンの音にかき消されても今回は、彼は決して油断することはなかった。

危機を脱したとはいえど、彼はまだ本能に危険を訴えかける赤い照明のもと、サイレンに頭を揺さぶられながら走り続けている。病室で拾ったあの食料の恩恵は受けながらも彼の呼吸は再び荒くなり、足取りも少しだけ不規則だ。

それでもあきらめずに走る彼は行き止まりにたどり着いた。彼はいつ聞いたことなのかも忘れてしまったがあることを思い出す。行き止まりは英語でデッドエンドと言うことだ。しかし、彼の道はデッドエンドというべきものではなかった。少し見えづらかったが、その行き止まりには扉がついていた。それは周りの壁と同じ色をした片開きの扉であり、本来の色は病室と同じ雲よりも白い白色のはずだ。

ここまで彼は一時間も走ってなく、その道のりは長くても七キロメートルほどだろう。それでもそれは彼が体験したどんな苦難よりも苦しいものであったはずだ。そして、彼は迷わずその扉を開けた。まばゆい光が彼の目に降り注ぐ。血のように赤い廊下の扉の先には、近未来的な空港のロビーが広がっていた。彼の右側には大きなガラスの壁があり、左側にはチェックインカウンターが無数に並ぶ。独特の光沢を放つ床の上を歩く彼は、長い旅を終えたようなほっとした気持ちを覚える。彼の頭上には飛行機の運行状況や出発時間が書かれているであろう電光掲示板がいくつも並んでいるが、意味不明な文字の羅列が続くばかりであった。不思議なことだが、彼には空港に行った記憶がないにも関わらず、この空港にどこか懐かしさを感じている。記憶がないだけで彼がまだベビーカーに乗っていた頃、彼は空港に行ったことがあると彼の両親から話に聞いていた。しかし、一番は彼がまだ子供の時に流行していた「約束された未来」を彼がこの空港に感じていたからだろう。白を基調としたデザインや無駄が省かれたシンプルさ、光を感じるガラス、光沢をもった床は、まさにこの空港内に見られる「約束された未来」の大きな特徴であった。

そして、彼はなんとなくチェックインカウンターの方へ進むと、そこで一人の男に声をかけられた。彼はその男が何と言っているのかを聞き取ることはできなかったがとりあえず、

「こんにちは」

と言った。ただの彼の癖だったが、その男は何かを思い出したようにこう言う。

「こんにちは。私は(ユン)だ。君は」

「神野輝」

「輝君、君はこの空港のことを知ってここに来たんだ」

「そうだ」

と言い輝は首を縦に振る。それと同時に彼は、この空港が本当に地獄からの出口であると確信する。

「どうして、そんなに日本語が上手なんだ」

「ここに長いこといると様々な世界の様々な国の人に会うんだ。そうして会う人と話そうとしているうちにいつの間にか喋れるようになっていただけだ」

と尹は、輝が通う学校に勤める外国語指導助手よりも流暢な日本語で彼の質問に答えた。そして、輝は尹にこう問う。

「長いこといるって、なんでさっさと元の世界に戻らないんだ」

尹は少し考えこう言う。

「脱出の方法は知っていたが、私は手荷物検査場を通ることができなかったんだ」

「それはよくあることなのか」

「いいや、私以外に無人の手荷物検査場を通ることができなかった人を見たことがない。私が通ろうとした時、突然ブザーが鳴り見えない壁が現れてその先に進めなくなったんだ。でも安心しな、君はきっと手荷物検査場を通ることができるはずだ」

尹の話を聞き、輝は少し安心した。自分がこの地獄から脱出できると知ることができたからだ。

「どうやったら地獄から脱出できるんだ」

彼がそう聞くと、尹はすぐにこう答える。

「まずはあそこにあるような案内板に従い手荷物検査場まで行くだ。文字は読めなくともピクトグラムで示されているから大丈夫」

尹はロビーの奥を指さした。尹はこう続ける。

「手荷物検査場より先は一度脱出した後にまた死んで地獄に来たものから聞いたことだ。手荷物検査場のゲートを通ると、搭乗待合室があるからそこで飛行機が来るのを待つんだ。待ってるとアナウンスが入ってすぐに飛行機が何便も来るから、好きなやつに乗ればいい。ああ、そこには窓があるからどんな飛行機が来たのかを見てから決めてもいいかもな」

「地球……特に日本行きのやつはあるのか」

「さあ、私には分からない」

「じゃあ、当たりのやつとかはあるのか」

「そうだな、地獄に二回来た人が一回目で乗った飛行機は側面に黄色の線が二本はいっていたらしい。少なくとも危ないところに行ったわけではなさそうだ」

尹がそう言うと輝は何かを言おうとしたが、それを止めるように尹は続けてこう言う。

「もしかしてだけどさ、君は大事な決断の時とかいつも周りに流されて決めていなかったか」

輝は耳が痛かった。彼はまさに尹が言った通りいつも誰かについていき、現に今も尹の答えに頼ろうとしていた。思い返しても、輝が自分で重要な決断を下したことはあまりないことに彼は気づき、ハッとした。そして、尹はこう言う。

「私は昔、君みたいに何か決めるときは誰かに頼っていた。だがな、私が高校生の時塾の友達にこう言われたんだ。[決断を人に任せることは、責任から逃れているだけだ]って。決して、誰にも頼らずに一人で全て考えろとも、人の考えを取り入れることは悪いことだとも言わない。私はただ、君にはこれからどうするのかを自分で決めてほしいんだ。どの飛行機に乗ってどの世界に行くのか、そして地獄から出た後はどうするのか。その選択を後悔しないように」

輝は今までで一番大きな選択をしなければならない。たった十数年しか生きていない彼にとってそれは重すぎることである。しかし、尹の言葉が彼に決断を下す勇気を与えた。そして、彼はこう言った。

「本当にありがとう……。俺、尹さんのおかげで大切なことに気づけたよ」

彼の声は地獄へ落ちた頃よりもずっと、ずっと立派なものとなっていた。

「さっきも言った通り、あそこに案内板があるからそれに従えばきっと脱出できるはずだ」

尹はそう言うと輝の手を握った。その手は死んだとは思えないほど温かい手であった。

 輝は案内板の方へと歩き、それを見る。バッグと人のピクトグラムが描かれていて、その隣には方向を示す矢印も書いていた。彼は尹の言う通りにピクトグラムの案内に従う。彼が窓の方を見ると、その向こうには数えきれないほどの飛行機があった。

 彼は意外にも十分ほど歩いただけで空っぽの手荷物検査場にたどり着いた。そこには机があり、その上にはプラスチック製のトレーがいくつか置かれていて、その先には金属探知機のようなものが設置されている。彼はブザーが鳴らないことを祈りながら、搭乗待合室へと歩き出す。彼がそこを通った時ブザーが鳴ることはなく、カーペットの上を歩く彼の足音が小さくなるだけであった。彼は安心すると同時に、ついにこの地獄から脱出することができると少し高揚する。そして、彼は搭乗待合室へと進み一つのソファーに座った。少し古びた紺色のソファーは、彼にとって心地よい硬さであり飛行機を待つことは苦ではない。彼の目の前にはガラス張りの壁があり、その先にはロビーで見た飛行機が飛び立つ準備を進めている。飛行機の音は壁越しでも静寂の部屋に響き渡っていた。

 彼がソファーに座って一分経った。広い部屋にアナウンスの誰でもない声が無人の空気を切り裂く。そして、彼が瞬きをした一瞬のうちに彼の目の前に搭乗口が現れた。彼はその緑の飛行機に乗ろうかと考えたがなんとなく乗らないことを選択した。そこに理由などない。今はただ直感が彼を導くまで待つだけだ。

 更に五回ほど飛行機が来たが、それらはどれも彼の直感に合うことはなかった。しかし、彼は一つのアナウンスを聞いて出発することを決意した。言葉の響きが柔らかい。それが唯一の理由だが、彼が選ぶにはそれだけで十分だった。彼はアナウンスと同時に現れた搭乗口へと急ぐ。ガラスから見えるその機体には、青と赤の模様が描かれていた。

 彼はその飛行機に乗ると、窓側の席に座った。窓の外では果てしなく続く滑走路では多くの飛行機が離着陸している。前の席の後ろ側には安全のための注意書きのようなものがあるが、彼にはそこにかかれている文字を読むことはできない。それでも、彼は絵を見てなんとなく内容を理解することができた。

 しばらくすると、彼は無人の機内に居ないはずの乗客の気配を感じる。一人や二人ではない。彼の感じた気配は百人を超えるだろう。そして、静かな機内にポンと音が鳴り、座席にあるシートベルトのマークが光る。彼はそれがどういうものなのかを知らなかったが、シートベルトを締めなければならないとすぐに理解し、すぐにそれに従った。先ほどのアナウンスと同じような柔らかい響きの放送が機内に響き渡ると同時に、エンジンが大きな音を立て動き始めた。そして、飛行機は滑走路を走り離陸してゆく。

飛行機で地獄からこの世に戻ることができるということはただの噂に過ぎず、彼はこれから自分がどこに行くかはわからない。しかし、確実に言えることが一つある。それは彼がどんなところへ行こうとも決して後悔しないということだ。


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