9☆ペコペコなんですけど
セシアナでの三日目が終わろうとしている。初試合で出場はなかったものの、明日こそ途中からでも抜擢してもらえるよう、部屋でも出来ることをしなければだ。
エレベーターを7階で降り、スマホ画面をドアに翳しロックを解除する。同時に柔らかいオレンジのライトが点灯した。
「ふぃー……」
ソファに身体を沈める。テレビ台横のドレッサーに、おかっぱの黒髪娘が映った。
シャワーはスタジアムで済ませているので、このままベッドにダイブしたい気分だ。その前に、明日の対戦チームのデータを見ておかないと。いや、明日だけでなく、サザンリーグの全チームを早く研究しないとだ。
とにもかくにも、るなは腹が減っている。夕飯をサロンで食べる選手も多いと聞くが、魚介類はゴメンナサイなるなはコンビニでカレーを見つけてきた。
ところが、カレーはカレーでも、ただのカレーではない。シーフードカレーではないものの、るなの知っているビーフカレーやチキンカレーなどは一切なく、あったのは……。
「バナナカレー……ほんとにおいしいの?」
茶色いルーの上に、ドドーンとバナナが1本まるごと乗っている。コンビニにも付き合ってくれたトウコは「意外とおいしいわよ?」と言っていたが、輪切りのバナナもゴロゴロ入っているのでどうにも甘そうという先入観しかない。
その他にも、様々なフルーツカレーが置いてあった。日本では見たことのないフルーツや、るなが知っているものだとバナナの他に、マンゴーやらパインやらメロンやらがカレーの具としてごろごろ入っていた。フルーツカレーは北島・南島共通のセシアナのソウルフードらしい。
ジャパンブームのわりには、日本食はコンビニには置いてないのかとトウコに尋ねた。店員に英語で聞いてくれたのだが、すぐに売り切れてしまうので、タイミング次第とのことだった。
「魚よりはマシか……」
レンジで温め、恐る恐る容器を開ける。まさにバナナとカレーの自己主張がすごい。どちらも譲らない香りだ……。酢豚のパイナップルも許せない派のるなにとっては、バナナを避けたとて……なメニューである。
「甘っ!」
背に腹は代えられないので、とりあえず一口食べてみた。ルー自体にココナッツが入っているらしく、バナナなしでもデザートのように甘い……!
「無理ぃ……」
心の中でゴメンナサイをし、るなはそっと蓋を閉じた。
学生時代もプロの3年間も、寮の食堂で食べ放題過ごしてきたるなにとって、炊事は苦手分野である。トウコに、スーパーマーケットの行き方を教わり、少しはチャレンジしないとな、とため息をつく。泣き言は言いたくないが、兄に和食のレトルト食品も送ってもらおうか……。
「また、おにぎり頼むか……」
キャビネット上の受話器に手をかけようとした瞬間、別の着信音が響いた。ソファの下に無造作に置いたボストンバッグからである。
お兄ちゃんなら、すぐにでも頼もう! るなはそそくさとスマホを耳にした。
『ハーイ! るなさん、もうご飯食べちゃいましたー?』
ペコペコでしょぼくれているるなとは真逆に、元気いっぱいの真鈴。
もしかして、お肉……? るなの喉がゴクリと鳴った。
「う、ううん、まだ……だけど……?」
『それなら良かった。あたしがCM出てるスポンサーに、冷凍ですけどハンバーグいただいたんです。一緒に食べませんか?』
「ハ、ハンバーグっ?」
『はい。今からドーム出るんで、帰って簡単に調理して……そうですね、40分後くらいにあたしの部屋来てもらえます?』
「分かった。い……」
行く! と宇頷きかけて、トウコの『食べ物につられないでよ?』という冷ややかな横目を思い出した。
喉元で唸り、これは身体作りだから……と言いきかせるるな。決して、食べ物につられているわけではない。決して……!
「じゃあ40分後に真鈴の部屋に行けばいいのね?」
『はーい、じゃあお待ちしてまーす。……あっ、るなさん?』
「ん?」
『明後日の登板でるなさんの変化球を1つでも投げたいので、お願いしますね?』
最後の言葉は、るなとの約束を強調するような低音だった。あちらは真剣だ。こちらもお肉に脳みそ支配されている場合ではない。
「バカにしないで。あなたがいくら天才でも、今までストレートとフォークばかりだったんでしょ? それだけでも勝てたから必要なかったのかもしれないけど、私の変化球を2日で修徳できると思ってるの?」
『……』
「昨日も言ったけど、私が教えられるのはコツだけ。あなたとは身体つきも手の大きさも違う。指の引っかけ方からして、参考になるかも分からない。どうしても明後日までに投げたいなら、その後は自分でどうにかしてね」
『……ふふっ』
バカにしないで、と言ったるなに対して『そっくりそのまま返します』とでも言いたげな笑みだった。サラブレッドの遺伝子を持つスーパースターに、強く出過ぎたか。るなはコホンと咳払いを挟む。
「とりあえず、あとでね」
『はい。楽しみにしてますんで』
通話が切れた。るなはソファにポフンと身を委ねる。小指を差し出してきた時の、真鈴のキリリと引き締まった目つきを思い出す。
「……それで、本物の天才さんが修徳しちゃったら、私の努力はなんだったのって感じ……」
それこそバカバカしい。プロで埋もれてしまったとはいえ、独学でここまでいくつもの空振りを奪ってきたのだ。もうマウンドには立てないるなにだって、プライドがないわけではない。
「なんか……ムカついてきた」
まだほとんど未開封のままの段ボール。日本から送った、るなの私物がたくさん入っている。その中の1つをゴソゴソとあさる。
「あった」
5年生の時に父がプレゼントしてくれた、両投げ用のグローブ。大学までずっと、これと共に輝いてきた。賞だっていくつも取った。るなの宝物であり、かけがえのない相棒だ。
プロに入ってからは、これと同じ形の新しいグローブを使っていたが、遠征の時もいつも持ち歩いていた。すり切れてもう使えないと分かっていても、やはり相棒を手放すことはるなにはできなかった。
ボールも1つ取り出す。軽く握ってみた。るなの変化球は7種類ある。投球練習とバッティング練習でマメが潰れるたび、それでも歯を食いしばり投げ込んで得た球種だ。るなの名前にかけて、『虹色の月を操る投手』なんて恥ずかしい二つ名を付けられたこともあった。
ソファにもたれ、上に軽く放る。左手にはめたグローブでキャッチする。また、右手で投げる。左手でキャッチする……。
「よっし!」
跳ね起き、ソファにクッションを立てた。振りかぶり、一球投げてみる。ボフッとクッションが鳴いた。ど真ん中に、丸くボールの跡が付いた。
球種と狙い位置を変え、どんどん投げ込んでいく。数えたのは30球までで、終えたのはスマホの着信音がきっかけだった。
『るなさーん? もう出来上がってますよー?』
「え、あぁ……ごめん。時間見てなかった。今から行く」
『はーい。愛情たっぷりハンバーグと共にお待ちしておりまーす』
聞こえないふりをし、通話を切った。グローブとボールを枕元に置き、るなは一伸びしてから部屋を出た。
「いらっしゃーい! 待ってましたよ。さっ、どうぞどうぞ」
ノックとほぼ同時に開く702号室。ゆったりめのTシャツにスパッツ姿の真鈴が出迎えた。促され、「お邪魔します……」と踏み込んだ瞬間、デミグラスの香りが、るなの空腹を刺激する。
「うわっ、本格的……! おいしそー!」
テーブルには、すでに2人分のハンバーグが用意されていた。回りにはきちんとライスやサラダ、スープまでもが並んでいる。るなはすぐにでもかぶりつきたい衝動をグッと堪え、姿勢を正してお行儀良く座った。
「すいません、お箸を用意するの忘れちゃって」
「大丈夫。日本人だからって、お箸しか使えないわけじゃないから」
「そうですか? でも、今度ちゃんとるなさんの分のお箸も買って来ますね。さっ、温かいうちに食べましょ食べましょ」
真鈴もテーブルに着く。2人でいただきますをし、るなは早速ハンバーグを切りにかかった。
「……るなさん、切ってあげましょうか?」
ハンバーグの真ん中かにナイフを入れ、半分をフォークでぶすりと刺したるな。そのままかぶりつく。真鈴は笑いを堪え、皿に残っているほうのハンバーグを奇麗に四等分に切り分けてやった。
「あ……ありがと。めちゃめちゃおいしい! これ、ほんとに冷凍なの?」
「お肉はそうですよ。でも、デミグラスソースはチャチャッと作りました。ここのハンバーグ、ほんとにおいしいんですよね。あたしが移籍したから、CM契約の更新に来てくれて。るなさんのお口にも合って良かったです」
「えっ、これをあの短時間で作ったの?」
「食事はアスリートの基本。食べたいものをバランスよく、かつスピーディーに済ませられれば、その分練習時間に費やせる。両親の教えです」
言って、真鈴は上品にハンバーグを口に運ぶ。その優雅な動きに、すでにハンバーグとライスを食べ散らかしているなの手が止まった。
「もしかして、真鈴ってお育ちいいの?」
「……どういう意味ですかぁ。あたしが野蛮人だとでも?」
「うん」
「傷つくなぁ。速答しないでくださいよぉ。うちの両親、結構厳しかったんですよ?」
よく考えてみれば、父は監督、母は元一流選手。真鈴の家は金持ちだ。女遊びはどうであれ、やはり育ちが食事姿に出ている。兄と競ってわんぱくに育ったるなとは大きく異なる。
「どうしたんですか?」
「いやぁ……やっぱ、住むとこが全然違うんだなと思って」
「そんなことないですよ? あたしはたまたま野球の才能があって、たまたまビジュアルが良くて、たまたま金持ちに生まれただけです」
「うわぁ、全部事実でムカつくぅ」
あははっ、と笑う真鈴。食事を再開したるなは、あっという間に全ての皿を空にした。まだ半分も進んでいない真鈴は、「おかわり持ってきますね」とるなの皿を回収した。
遠慮なくおかわりを待つ間、るなはキッチンでテキパキと手を動かす真鈴の横顔を眺めていた。
本当に整った顔立ちをしている。少し長めの襟足から覗く首筋まで白い。日本の野球女子にとって、日焼けとは永遠の戦いなので白さまでもが羨ましい。
「ねぇ、真鈴にはコンプレックスとかないの?」
8等分に切り分けられたハンバーグと、大盛りライスがるなの前に置かれた。席に着こうとした真鈴の動きが、一瞬だけ止まったように見えた。
「コンプレックス? あるわけないじゃないですか。あたしを誰だと思ってるんですか?」
「……まあ、そうでしょうね。マメなんて一つもなかったし、羨ましいことばっか。私なんか、コンプレックスの塊だってのに」
ぽつりと呟き、奇麗に切り分けられたハンバーグを次々と口に放り込んでいく。真鈴は、リスのように頬を膨らませたるなを微笑ましくじっと見つめていた。
「しいて言えば、貪欲なとこですかね」
るなは顔を上げる。真鈴は、いつの間にかワインを片手にしていた。ゆらゆらと揺れる湖面を見つめながら、ふふっと笑っている。
だがその笑みは、どこか寂しそうにも見えた……。
「なんでもすぐに手に入ってしまうから、満足できないんです。ずっと満たされない。贅沢な悩みと言われてしまうかもしれませんが、心が満たされないって、ずっとお腹が空いてる状態と同じなんですよ。るなさんなら、ずっとお腹空いてて耐えられますか?」
「うーん。そりゃ、誰だって我慢の限界があるでしょうよ」
「まあ、そうですよね。ただ、人からは贅沢と思われる悩みも、あたしにとっては切実な悩みなんだって話です。天才なんて持て囃されてるから自分でも言ってますが、あたしだって人の子。それなりの努力で手に入れてる。今はただ、手に入らないものに出会ってないだけだと思います」
真鈴が視線を上げた。目が合った。るなの膨らんだままの頬を見て、「るなさんってば、ほんとかわいい」と噴き出した。
器用ゆえに、不器用にしか生きられないのだろうか……。
挫折を知らないスーパースター。それを、挫折したばかりの自分が、捨てたばかりのものを伝授する。皮肉な運命に、るなは一周回って楽しくなってきた。
「大丈夫だよ」
「……何がですか?」
「私の変化球は、簡単にはマスター出来ないから。悔しくてもがいて挫折しそうになるよ、きっと。でも、そっちから言い出したことなんだから、泣いても手加減してあげない」
ごちそうさまでした、とペコリ頭を下げるるな。速さも量も、小柄な体形からは創造がつかない。だが、真鈴の絶句は、食事の速さでも量でもなく……。
「……中学生以来ですよ。こんな挑発受けたの。大丈夫です。あたしは必ず自分のものにしてみせますから」
しばしの睨み合いの後、2人同時にニヤリと笑った。お互いやる気に満ちた、戦士の目だ。
これから、るなと真鈴の静かな熱い戦いが始まる。
それぞれのプライドをかけた戦いが……。




