7☆ずるいんですけど
広いオーシャンドームの中廊下。反響するリノリウム地だが、誰一人言葉を発せずシンと静まり返っていた。
ただ一人、電撃移籍でテンションマックスの神月真鈴を除いては……。
「そんなに驚くことですか? さっき言ったでしょ? これからはずっと一緒だって」
るなの両手を取り、ぶんぶんと上下させる真鈴。未だ急展開な状況が呑み込めずにいたるなだが、契約書を見せられたトウコが白目をむきそうになっているところを見ると、信じがたいが事実なのだろう。
「いやぁ、もうちょっと難航すると思ってたんですけどね、年俸は今の3分の1でいいって言ったら秒で契約成立でしたよ。まあ、セシアナトップクラスのあたしを格安で獲得できるんですもん。断らない球団なんてないですからねぇ。アクアマリンのほうはパパが……監督がなんとか上を説得してくれて。『腕磨いて帰って来い』って出してくれました。今頃大騒ぎでしょうけどね。あははっ」
「なんてことなの……」
よろめいたトウコが額に手を当て、がっくりと項垂れた。慌ててサエが支える。
「本気……なの? うちのチームに、神月真鈴が……」
「もうノースリーグじゃやりたいことも目標もないんでね。取れる賞は全部取っちゃったし、あたしよか上の選手いないんですもん。あたし、まだ23ですよ? あと15年はプレイヤーでいるだろうし、サザンリーグでも爪痕残してやろうと思って挑戦しに来ました」
ルンルンな真鈴。付き人らしき背後の金髪女性2人も、嬉しそうにうんうんと頷いている。その奥に遠巻きで見物していたギャラリーもようやくかなしばりが解け、全員両手を上げて飛び跳ねだした。
「秩序が……秩序が……」
トウコは譫言のように繰り返し、とうとうその場にへなへなへたり込んだ。支えていたサエは、真鈴の加入に頬を紅潮させてはいるが、トウコの手前ギャラリーのように手放しでは喜びを表せないらしい。ただ口元はかなり緩んでいる。
「前回登板が金曜なんで、今週金曜までにユニフォームお願いしますね。しばらくはシャニータウンホテルに泊まります。あぁ、お金ならあるんで、宿泊料は自分で出しますからご心配なく。……はぁ、手続きやら荷造りやらしてたら朝飯もろくに食べる暇なくてペコペコなんですよねぇ。サロンはどこですか? アクアドーム近くのお気に入りのステーキハウスから特上のお肉を頼んできたので焼いてもらいたいんですけど」
「ステーキっ?」
同じくペコペコなるなの目が一瞬で輝きを取り戻した。「るなさんもお肉好きですか?と尋ねられ、反射的に頭がもぎ取れんばかりに上下する。
「よかったぁ。たくさんあるから一緒に食べましょ! よかったらみなさんも一緒に」
真鈴がギャラリーに向くと、一同わぁっと拍手喝采が起きた。どうやら台車の積み荷の一部はステーキらしい。選手の1人が英語で何やら言うと、付き人の金髪女性がそちらに台車を転がし出した。みなもハイテンションでぞろぞろついて行った。
残ったのは、へたり込んでいるトウコと、手はトウコを支えつつも心は明らかに真鈴に釘付けのサエ。そして、心はステーキに釘付けのるなと、そんなるなに釘付けの真鈴……。
「る、るな……?」
脳内をステーキで満たされてしまったるなは、唸るようなトウコの呼びかけにビクッと一瞬で我に返った。「は、はい!」と姿勢を正す。
「るな、あなたは決して飲まれてはダメよ? あなたみたいな無垢な子が一番心配……。神月の毒牙で何人の子が涙を流して帰国したことか。せっかく有能な選手をスカウトしてきたのに……。あぁっ、今度こそ私のマネージャー人生がぁ……!」
先程までの鬼の形相から一転、糸が切れたかのようにシクシクと泣き出してしまったトウコ。るなは真鈴の手を振り払い、慌ててトウコに駆寄る。
「だ、大丈夫です! 私なら大丈夫ですから、トウコさん! 泣かないでください。こんなチャラい人に引っかかったり唆されたりしないし、私は拾ってくれたドルフィンズを辞めたりしません! この身体で野球が出来る限り、ドルフィンズを辞めたりしませんから!」
「もういやぁ……。せっかく育てた選手が弄ばれて、傷ついて去って行くのはもういやなの……」
「過去にそんなことが……」
るなはギロリと真鈴を睨み上げる。高圧的な眼差しに怯んだ真鈴は、両手を広げながら弁解しだした。
「ご、誤解ですよ? あたしはただ、ディナーとか……えっと、誘いはしましたけど、そのあとは彼女たちの判断ですからねっ? 決して弄んだりは……」
涙声のトウコが遮る。
「知ってるのよ! あなたはすぐ飽きるから特定の人を作らないって。一晩で身体の関係になっても心は絶対許さないってね。だけど、誘われて心を奪われた子たちは違うの。告白しても絶対に振り向いてもらえないと傷ついているの。それでもあなたみたいなフェロモンの塊に魅かれちゃうのよ! 不幸になるから傷つきに行くなと止めても、私たちにはどうにも止められない……」
言って、トウコはうわーん! と号泣しだした。小さなるなとサエが両サイドから抱きしめる。「さいってー」と冷えた声でるなが呟くと、真鈴はさらにハンズアップした。
「待ってくださいよー。止められないのはあたしも同じなんだけどなぁ……。むしろ、一晩で満足してる子だって多いし」
「さいってー。さいってー」
「えー、ちょっとるなさーん? 聞いてましたぁ? あたし、泣かせてばっかじゃないって言ってるんですよー。勝手に告ってきて勝手に撃沈して、野球を捨ててまで帰国するほうがおかしいでしょー? あたしから言わせれば、君たちはセシアナに何しに来たんだい? って感じですよ。中途半端に野球やってる子なんか、あたしは全然魅力的に思えない」
「それは……」
真鈴のもっともらしい演説に一瞬納得しかけたるなだったが、すぐに「いやいやいやいや」と首を振る。べそべそと泣き続けるトウコの前に立ち、真鈴に向き直った。
「ドルフィンズに入るなら、トウコさんに約束して! ドルフィンズの選手に……ううん、もうセシアナの選手には手ぇ出しません、って」
「そうしたいのは山々なんですけどね、るなさん。ほとんどの子があっちから寄ってくるんですよ? 泣いたほうが被害者で、泣かれたほうが加害者っておかしくないですかー?」
「おかしいのはその考え方よ! あなたこそ、野球をしにドルフィンズに移籍してきたんでしょう? なら約束できるはずよ? 『誰がすり寄ってきても、真面目に野球一筋でドルフィンズに尽くします』って。私は、私を評価して選んでくれたこの球団に尽くす。私はそういう覚悟でここへ来た!」
一気にまくし立てると、真鈴は押し黙った。廊下にはトウコの嗚咽だけが響いている。るなに睨みあげられている間、真鈴はしばらくぱちぱちと瞬きだけをしていた。しびれを切らしたるなが回答を促す。
「なに黙ってんの? 早く誓って?」
「いやぁ、あの……」
「なに?」
「るなさん、やっぱかっこいいなぁって思って」
「はぁ?」
全くおめでたい珍回答に、るなは唖然とする他なかった。
「だって、そもそもあたしの誘い断る子なんていなかったし、ましてやビンタ喰らわされたのも初めてだったし。こんな中学生みたいなちっちゃくてかわいい子……あ、いえ、かわいい女性にかっこいいこと言われちゃったら、ギャップ萌えというか……」
「ば、バカにしてんの?」
「バカになんかしてませんよ。惚れたって言ってるんです。初恋奪われちゃったって言ってるんです。23年間生きてきて、自分以上にかっこいいと思える人なんていなかった。負けちゃったなぁって」
「話を逸らさないでっ」
「逸らしてないですよ。んじゃあ続けましょう」
真鈴は白く長い小指を立て、るなの顔前に突き出した。初めて見る……いや、マウンド上での表情そのものだった。戦士の顔だ。
「るなさんが、あたしに両投げの仕方を教えてくれるなら誓います。そしたら絶対他の選手に手ぇ出さないし、誘いもしません」
「なにそれ! 昨日も断ったでしょ! そんなの右投げのコーチに教わってって」
「るなさんが言ったんじゃないですか。両投げは身体の使い方にコツがある。片っぽしか投げられないコーチに教わったって意味がない。あたしは、るなさんに身体の使い方と変化球を教えてもらいたいんです。両投げをマスターできれば鬼に金棒ですよ? あたしなら、ドルフィンズを一気に上位に押し上げられる」
「そんなこと言われたって……」
いつの間にか泣き止んでいたトウコとサエが、すがるような視線をるなに送ってきた。
選手だってマネージャーだって、戦うからには勝ちたいのだ。問題児とはいえ、格安で転がり込んできた宝石を使わない手はない。今度はるなが押し黙る。
「さあ、あたしは誓いますよ? るなさんは? トウコさんやみんなと、楽しく『勝てる野球』、したくないですか?」
ずるい……! と、るなは奥歯を噛みしめる。
そもそも昨夜の電話で断られ、直談判が適わなかったからって強引に移籍してきたくせに、今更しらじらしい。なんだかんだこうやって、こじ付けでも教えさせようという計画だったに違いない……!
とはいえ、4つのすがるような目玉がこちらを向いている。自分が断れば真鈴は今まで通り破天荒。真鈴の実力でチームの勝率は上がっても秩序は乱れ、トウコや選手たちが涙を流す羽目になるかもしれない……。
「わ……」
「わ?」
「分かった……。コツは教える。でも、あなたが習得できるかどうかの話は別よ? 私はコーチじゃないんだから、あなたが習得できなかったからって、約束破ったことにするのはナシ。……いい?」
るながしぶしぶ小指を絡ませようとすると、真鈴は「やったー!」と再度るなを抱き上げた。トウコとサエも、しゃがんだまま、安堵の抱擁をする。
「ホテルもるなさんの隣の部屋が取れました。倍の料金出すって言ったら、入ってた客をすんなり移動させてくれて。これで朝から晩までるなさんとずぅーっと一緒ですよ。あぁ、嬉しいなぁ」
「えっ!」
「だって、日中はお互い練習メニューが違うでしょう? るなさんにはるなさんの野手練があるから、教わるとしたら試合の後ホテルで教わるしかないじゃないですかぁ」
「イヤよっ。絶対変なことするもん」
「今誓ったばかりじゃないですかぁ。この辺は魚料理がほとんどですけど、北島のアクアドームの周りは肉料理がメインなんです。一級品を取り寄せますから、お肉食べながら、ね?」
「お肉……!」
もはやパブロフの犬と化したるなは、『肉』と聞くだけでお目目がキラキラ輝くようになってしまった。「夕海、チョロぉ……」というサエの呟きにハッと我に返る。コホンと一つ咳払いをした。
「しょ、しょうがないわね。じゃあついでに夕飯も付き合ってあげる」
「あはっ、やったー! 肉料理は得意なんで任せてください」
口元の綻びが隠せぬるなは「トウコさんとサエさんもサロン行きませんか?」と真鈴に背を向ける。空腹の限界だ。キャッチャーのサエは肉よりも、神月真鈴のボールを受れる嬉しさに顔が緩みっぱなしである。
こうしてるなと真鈴の移籍初日に、2人の契約が成立した。




