第3話 影、揺らぐ記憶 ― 後半 ―
雫月の部屋へ戻った星華は、深い沈黙の中にいた。
自分の身体が“夜叉”として動いたあの感覚が、どうしても頭から離れない。
(俺は……やはり雫月様のそばにいてはいけないのでは……)
そんな不安が胸の奥にしつこくまとわりつく。
「星華……」
雫月は星華の隣に腰を下ろし、そっと彼の袖をつまんだ。
「ねぇ、さっきの……怖かった?」
「……はい。怖かったです」
星華は正直に答えた。
「自分が……誰かを傷つけるために動いていた存在だったのだとしたら……俺は……」
「星華」
雫月は彼の手を握り、強く言った。
「あなたは今、私を守ろうとしている。その気持ちが本物なら……過去なんて怖くないわ」
「……でも、雫月様。俺は……」
「星華は星華よ。それ以上でも以下でもないわ」
雫月は真っすぐな瞳で星華を見つめた。
「私はね……星華を“今ここにいる星華”として見てるの」
その言葉が胸に落ちるたび、星華の心は揺れる。
雫月は星華の手を両手で包み込み、そっと頬に当てた。
「ねぇ……今日、星華が私の前からいなくなるかも、って思ったの。すごく怖かった……」
「雫月様……」
「だから、お願い……手を離さないで」
雫月の声は弱く震えていた。
その震えは、星華の胸の奥の痛みを優しく包んでいく。
「……離しません。決して」
星華は雫月の手を包み返した。
「俺が……どんな過去の中で生きてきても。雫月様のそばにいる限り、それが俺の生きる理由です」
「……うん」
雫月は胸に手を当てて、ほっと息をついた。
二人の指が絡む。
その温もりは、どんな闇よりも確かだった。
日が落ち、静かな夜が王宮を包む頃。
星華は一人で王宮の外周を歩いていた。
警備の補助としての巡回――という名目ではあるが、実際は自分の記憶と向き合うためでもあった。
(夜叉……俺が……?)
月を見上げると、あの日の記憶が断片的に浮かぶ。
――暗い廊下を駆ける音
――命令を下す冷酷な声
――“十三番、次の標的は皇女だ”
――雫月の幼い顔
――叫び声
――飛び散る血
「……っ……!」
星華は思わず頭を抱えた。
痛みとは違う。胸を掻きむしられるような罪悪感が襲う。
(俺は……あの日……雫月様を……?)
その時――
背後で、草を踏む音がした。
星華は反射的に振り返り、構えを取る。
だが、闇の中から現れたのは優しい灯りを手にしたひとりの青年だった。
「……星華君?」
「……クレイン殿下」
ランタンを手にしたクレインが穏やかな表情で近づく。
「こんな夜更けに、ひとりで歩いていては危険だよ」
「申し訳ありません……少し、考え事を」
「予想はついているよ。――“夜叉”としての自分について、だろう?」
星華は静かに頷いた。
「……雫月様を……俺が狙っていたのかもしれない。その可能性を考えると……どうしてもそばにいていいのか分からなくなるんです」
「そばにいていいかどうか、それを決めるのは君ではない。――雫月だ」
クレインの落ち着いた声が夜に響く。
「そして雫月は、君を必要としている。これは事実だ」
「……ですが……」
「星華。大切なのは過去ではない。今、何を選ぶかだ」
クレインは星華の肩に手を置き、静かに言った。
「君は雫月のために動いた。それが全てだ」
「……」
「“夜叉”としての過去があったとしても、君はもうそこには属していない。君は雫月の執事だ。それを選んだのは……君自身だよ」
星華の胸に、少しずつ温かい何かが戻ってくる。
「……雫月様が……俺を選んでくれたから……俺は、ここにいる」
「その通りだ。そして、雫月を守れるのは……君だけなのかもしれない」
クレインは星華の目をまっすぐに見つめた。
「星華。君が誰であっても構わない。だが――雫月の“心”を守れる存在であってくれ」
星華は目を閉じ、ゆっくりと息を吸う。
「……必ず。俺は……雫月様を守ります」
「よく言った」
クレインは微笑み、星華の肩を叩いた。
「さぁ、雫月が心配しているだろう。戻りなさい」
「……はい」
星華は夜空を見上げた。
冷たい光が降り注ぎ、それがどこか新しい道を示しているように思えた。
(雫月様のそばにいる。そのために……俺は、この手を使う)
星華は決意を胸に刻み、雫月の部屋へ向かって歩き出した。
一方その頃。
雫月はベッドの中で膝を抱え、じっと窓を見つめていた。
「……星華……」
不安が胸を締めつける。
星華が自分を遠ざけようとしている――そんな気がしてならなかった。
(星華が……いなくなったら……)
それは考えたくない未来だった。
(私は……星華を失いたくない)
その想いが胸いっぱいに広がった時、扉がそっとノックされた。
「雫月様……入ってもよろしいですか?」
聞き慣れた優しい声。
雫月の目が一気に輝く。
「……星華!」
扉が開くと、星華が静かに頭を下げる。
「遅くなってしまい、申し訳ありません」
雫月はベッドから飛び出し、星華に駆け寄った。
「ばか……! 心配したんだから……!」
星華は驚いたが、すぐに雫月の肩に手を置き、優しく抱き寄せた。
「……すみません。戻ってきますと言うべきでした」
「うん……うん……」
雫月の声は泣きそうに震えていた。
星華はそっと彼女の頭を撫でる。
「雫月様。俺は逃げたりしません。あなたのそばを離れるつもりはありません」
雫月は星華の胸に額を押しつけ、震える声で呟いた。
「ほんとう……?」
「本当です」
星華は雫月の背を抱き、静かに続けた。
「俺は……雫月様のおかげで、生きる理由を知りました。あなたを守りたい……その気持ちだけは、絶対に変わりません」
雫月は星華の服をぎゅっと握り、泣きながら笑った。
「……よかった……星華……」
二人の影が月明かりの中で重なる。
かすかに揺れる灯りが、二人の未来を静かに照らしていた。
(この先にどんな闇があっても……雫月様だけは、俺が守る)
星華の胸に宿った決意は、もはや揺らぐことはなかった。




