第35話 近づくほど、遠回り ― 前半 ―
その朝、雫月は少しだけ早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光が、いつもより柔らかい。
胸の奥に残るのは、昨夜の静かな対話の余韻だった。
(……一緒に、考えよう……か……)
星華の表情を思い出す。
戸惑いと、誠実さと、隠しきれない優しさ。
(……ああいう顔……ずるい……)
身支度を整えながら、雫月は小さく息を吐いた。
(……今日は……ちょっと……普通に話そう……)
回廊。
星華はいつも通り、雫月の部屋の前に立っていた。
姿勢も距離も、完璧な執事。
ノック。
「……おはようございます、雫月」
「……おはよう」
扉を開けた瞬間、二人の視線が、自然に重なる。
――ほんの一瞬。
それだけで、どちらともなく視線を逸らした。
「……本日の予定ですが……」
星華が口を開く。
「午前は書簡整理、午後は庭園の視察です」
「……うん」
雫月は頷きながら、ちらりと星華を見る。
(……昨日より……近い……?でも……なんか……ぎこちない……)
歩き出すと、自然と肩が並ぶ。
その距離が――
近い。
近すぎる。
雫月は、意を決したように口を開いた。
「……ねえ、星華」
「……はい」
「……今日さ……庭園……少し……ゆっくり歩かない?」
星華の歩調が、わずかに乱れた。
「……ゆっくり、ですか」
「……うん。急ぐ理由……ないし……」
星華は一瞬考え、静かに頷く。
「……承知しました」
声は落ち着いている。
けれど――
耳が、ほんの少し赤い。
雫月は、それを見逃さなかった。
(……あ……星華も……意識してる……)
胸が、くすぐったくなる。
庭園。
朝露の残る芝生と、咲き始めた花々が、穏やかに迎える。
二人は並んで歩く。
速度は、普段よりずっと遅い。
「……今日は……静かだね」
雫月が言う。
「……はい。警備も、最低限です」
沈黙。
風の音。
葉の擦れる音。
それだけなのに、なぜか、落ち着かない。
雫月は、歩きながら手を揺らした。
(……近い……)
星華の手が、すぐ隣にある。
触れそうで、触れない。
(……昨日は……一緒に考えようって言えたのに……)
(……今日は……なんでこんなに……緊張してるの……)
星華もまた、心中は穏やかではなかった。
(……距離を縮めると……触れてしまいそうで……)
(……触れてしまえば……戻れなくなる……)
けれど――
(……それでも……離れたくは……ない……)
雫月が、ふと立ち止まる。
「……星華」
「……はい」
雫月は、言葉を選ぶように視線を落とす。
「……昨日の夜さ……」
星華の呼吸が、少しだけ浅くなる。
「……うん……」
「……“一緒に考えよう”って……言ったでしょ」
「……ええ」
「……それ……やっぱり……嬉しかった……」
星華は、何も言えなくなる。
雫月は、勇気を振り絞るように、続けた。
「……だから……今日は……ちょっと……」
一歩、近づく。
「……星華のそばに……ちゃんと……立ちたかった……」
距離が、一気に縮まる。
星華の視界に、雫月の髪が、頬が、はっきり映る。
(……まずい……)
(……近い……)
星華は、反射的に一歩、下がった。
「……っ……」
雫月の目が、わずかに揺れる。
「……あ……ごめん……」
その声が、胸を締めつける。
星華は、すぐに首を振った。
「……違います……」
声が、少し急いでいる。
「……嫌だったわけでは……ありません……」
「……じゃあ……」
「……近すぎて……心臓が……持たなかっただけです……」
一瞬の沈黙。
そして――
雫月が、吹き出した。
「……なにそれ……」
「……笑うところでは……」
「……でも……星華らしい……」
雫月は、目尻に涙を浮かべながら笑う。
「……私だけじゃなくて……星華も……同じなんだって……分かって……」
胸の奥が、じんわり温かくなる。
星華は、観念したように小さく息を吐いた。
「……ええ……同じです……」
庭園に、柔らかな空気が戻る。
近づこうとして、照れて、遠回りして。
それでも――
二人は、同じ場所に立っていた。




