第34話 触れられない距離 ― 後半 ―
その日の夕刻。
王宮は、いつもより静かだった。
雫月は執務を終え、自室へ戻っても、心が落ち着かなかった。
窓辺に立ち、暮れゆく空を見つめる。
(……星華……)
昼の会話が、何度も胸に浮かぶ。
“近づきすぎるのが、怖かった”
“戻れなくなる”
その言葉は、拒絶ではなかった。
むしろ――
彼自身を縛る、鎖のように感じられた。
(……私のせい……?)
そんな考えが浮かび、雫月は首を振る。
(……違う……星華は……いつも……一人で責任を背負おうとする……)
部屋の扉が、控えめにノックされた。
「……雫月」
星華の声。
雫月の胸が、きゅっと鳴る。
「……どうぞ」
扉が開き、星華が一歩だけ中へ入る。
室内の灯りは落ち着いた橙色で、昼間よりも、距離が近く感じられた。
「……お加減は……いかがですか」
「……元気」
短い返事。
沈黙が、二人の間に落ちる。
星華は視線を伏せたまま、ゆっくりと言葉を選んだ。
「……昼間のこと……謝りに来ました」
雫月は、目を瞬かせる。
「……謝ること……?」
「……距離を置くような態度を……取ってしまった」
星華は、深く頭を下げた。
「……雫月を……不安にさせたと思います」
雫月は、慌てて首を振る。
「……ううん……それは……」
言葉を探し、小さく息を吸う。
「……星華の気持ち……分かったから……」
星華が、顔を上げる。
「……分かって……しまいましたか……」
「……うん」
雫月は、一歩だけ近づく。
「……星華は……“執事”って立場を……すごく大事にしてる」
星華は、黙って頷く。
「……でも……それと同じくらい……」
雫月は、胸に手を当てる。
「……私を……大事にしてくれてる……」
星華の指が、わずかに震えた。
「……それは……当然です……」
「……当然じゃないよ」
雫月は、首を振る。
「……当然って言えるほど……簡単じゃない……」
星華は、苦しそうに微笑んだ。
「……だから……距離を測ろうとして……逆に……遠ざけてしまいました……」
「……うん……」
雫月は、そっと星華の袖を掴む。
昼間と同じ仕草。
けれど今は、逃げる気配がなかった。
「……ねえ、星華」
「……はい」
「……戻れなくなるの……怖いって言ったでしょ」
星華は、黙って頷く。
「……でも……私……」
雫月は、少しだけ視線を逸らし、それから、決意したように言った。
「……星華となら……戻れなくなっても……いいって……思っちゃった……」
星華の息が、止まる。
「……雫月……」
「……答えは……今、出さなくていい」
雫月は、星華の袖を掴んだまま、微笑む。
「……でも……怖いなら……一緒に、ゆっくり……考えよう……?」
星華の胸の奥で、何かが、ほどけていく。
(……一人で……抱えなくていい……)
星華は、静かに、深く、息を吐いた。
「……ありがとうございます……」
声が、わずかに震える。
「……俺は……まだ……どうしていいか……分かりません……」
「……うん」
雫月は、優しく頷いた。
「……それでいい」
星華は、ほんの少しだけ、雫月に近づいた。
触れない距離。
けれど、逃げない距離。
「……雫月」
「……なに?」
「……今日……距離を取ったのは……」
一拍、置いて。
「……失いたくなかったから……です」
雫月の胸が、じん、と熱くなる。
「……それなら……ちゃんと……一緒に、失わない方法……探そう」
星華は、はっきりと頷いた。
「……はい」
夜の静けさの中で、二人は並んで立つ。
まだ、触れない。
まだ、踏み込まない。
けれど――
背中を向け合う距離ではなく、同じ方向を見る距離へ。
触れられなかった距離は、少しだけ、やさしい形に変わっていた。




