第34話 触れられない距離 ― 前半 ―
朝の空気は、少しだけ張りつめていた。
雫月は、自室の窓辺で外を眺めながら、胸の奥に残る昨日の余韻を抱えていた。
(……あんなこと……言っちゃったな……)
「“執事じゃなかったら?”」
自分の言葉を思い出し、頬がじんわり熱くなる。
扉の向こうで、控えめなノック音がした。
「……おはようございます、雫月」
星華の声。
「……おはよう」
扉を開けると、そこに立つ星華は、いつもと変わらない整った姿だった。
けれど――
(……なんか……昨日より……ちょっと……距離、ある……?)
それは視線の置き方か、声の温度か、言葉の間か。
はっきりとは言えない、けれど確かな違和感。
「……本日の予定ですが」
星華は淡々と、政務と視察の予定を読み上げる。
雫月は相槌を打ちながら、ちらりと星華の顔を見る。
(……避けられてる……?)
そんなはずはない、と頭では分かっている。
だが胸は、少しだけざわついた。
「……星華」
「……はい」
「……なにか……変……?」
星華の言葉が、一瞬だけ、止まった。
「……いいえ」
即答。
けれど――
その声は、ほんの少しだけ硬かった。
「……昨日のこと……」
雫月が言いかけた瞬間、星華は、わずかに視線を逸らした。
「……仕事に、参りましょう」
その仕草が、雫月の胸を、きゅっと締めつける。
(……やっぱり……)
午前の政務。
雫月は机に向かいながらも、どうにも集中できずにいた。
星華はいつも通り、完璧に補佐をこなしている。
言葉遣いも、距離も、立ち位置も、“模範的な執事”。
(……戻っちゃった……)
昨日まで、名前を呼び合っていた距離。
目を合わせれば、自然と伝わっていた温度。
それが今は、丁寧に整えられた「線」の向こう側にある。
(……私……踏み込みすぎたのかな……)
不安が、少しずつ形を持ち始める。
書類に視線を落としたまま、雫月は小さく口を開いた。
「……星華」
「……はい」
「……私……昨日のこと…嫌だった……?」
星華の手が、止まる。
室内の空気が、ぴんと張りつめた。
「……雫月」
低く、慎重な声。
「……嫌では……ありません」
「……じゃあ……」
「……ただ……」
星華は、一度深く息を吸った。
「……近づきすぎるのが……怖かっただけです」
雫月の胸が、強く鳴る。
「……怖い……?」
星華は、ゆっくりと頷いた。
「……あなたの気持ちを……勘違いしてしまうのが」
「……勘違い……?」
「……執事としてではなく……一人の男として……向き合ってしまうことが」
雫月は、言葉を失った。
(……そんなふうに……考えてたんだ……)
星華は視線を伏せ、静かに続ける。
「……もし……踏み越えてしまえば……戻れなくなる……」
その言葉に、雫月の胸が、きゅっと締まる。
「……戻れなくても……いい、って……思うこと……ある?」
星華の呼吸が、わずかに乱れた。
だが、答えは出さない。
「……それを……口にしてはいけない……立場ですから」
その言葉は、自制であり、同時に――
本音の否定だった。
雫月は、机の端を、ぎゅっと握る。
(……星華……そんなに……一人で抱えなくていいのに……)
だが今は、それ以上踏み込めなかった。
二人の間に、触れられない距離が生まれる。
近いのに、触れられない。
そのもどかしさが、静かに積もっていった。




