第33話 揺れる立場、揺れる心 ― 後半 ―
沈黙が、回廊に落ちた。
高い天井から差し込む光が、床の模様を淡く照らしている。
その静けさの中で、雫月の問いは、はっきりと星華の胸に突き刺さっていた。
「……今……ちょっと……嫉妬した?」
星華は、すぐには答えられなかった。
喉が、ひどく乾く。
(……嫉妬……)
その言葉を、自分が向けられる側になる日が来るとは、
想像したこともなかった。
「……それは……」
声を出しかけて、止まる。
(……否定すれば……嘘になる……)
(……肯定すれば……執事として……踏み越えてしまう……)
星華は、ゆっくりと視線を落とした。
「……雫月」
「……なに?」
「……俺は……あなたの執事です」
それは、自分に言い聞かせるような声だった。
「……あなたの周囲に、人が集まるのは……当然で……祝福すべきことです」
雫月は、黙って聞いている。
「……誰かがあなたに好意を向けることも…止める権利は……俺にはありません」
一息、置く。
「……ですから……嫉妬など……してはいけない……」
雫月は、少しだけ首を傾げた。
「……“してはいけない”って……“してない”とは……違うよね」
星華の肩が、わずかに揺れた。
(……鋭い……)
雫月は、星華の前に立ったまま、逃がさない距離で続ける。
「……星華ってさ……“ダメだ”って思うことほど……ちゃんと考えちゃう人でしょ」
「……」
「……だから……今の答え……もう、分かってる気がする」
星華は、ゆっくりと顔を上げた。
雫月の表情は、責めるでも、試すでもない。
ただ、静かで、真剣だった。
「……星華」
「……はい」
「……私ね」
雫月は、胸元に手を当てる。
「……あの人と話してた時……別に……何も感じてなかった」
星華の眉が、わずかに動く。
「……でも……」
雫月は、少し困ったように笑った。
「……星華が……後ろで、黙って立ってるの……なんだか……すごく、意識してた」
星華の呼吸が、浅くなる。
「……それって……」
「……星華が、“そこにいる”ってことが……当たり前になってたんだなって……後から、思った」
回廊を渡る風が、二人の間を抜けていく。
「……だから……」
雫月は、ほんの少しだけ、視線を逸らして言った。
「……嫉妬されるの……嫌じゃなかった」
星華の心臓が、強く鳴った。
(……危険だ……)
(……このままでは……執事でいられなくなる……)
だが同時に――
(……失いたくない……)
この距離を。
この感情を。
星華は、静かに息を吐き、ようやく本音を口にした。
「……一瞬だけ…………胸が……ざわつきました」
雫月の目が、そっと見開かれる。
「……それが……嫉妬と呼べるものかは……分かりません」
「……でも?」
「……雫月が……他の誰かに向けられる視線の中に……“連れて行かれてしまう”ような…………怖さを……感じました」
言い終えた瞬間、星華は、深く頭を下げた。
「……申し訳ありません」
「……どうして、謝るの?」
雫月の声は、驚くほど柔らかい。
星華は顔を上げられない。
「……執事が……そのような感情を持つのは……不適切です」
雫月は、一歩近づいた。
星華の視界に、雫月の足先が入る。
「……じゃあさ」
星華の顎が、そっと上を向かされる。
雫月が、星華の顔を見上げていた。
「……“執事”じゃなかったら……?」
星華の思考が、一瞬止まる。
「……もし……立場がなかったら……」
雫月は、星華の目を、まっすぐ見つめる。
「……その気持ち……ダメ……?」
星華の胸の奥で、何かが、静かに崩れた。
「……それは……」
言葉が、震える。
「……許されるかどうかを……決めるのは……俺ではありません……」
雫月は、ゆっくりと微笑んだ。
「……じゃあ……今は……答え、出さなくていい」
星華は、息を呑む。
「……ただ……」
雫月は、星華の袖を、そっと掴んだ。
「……星華が、私のそばにいること……“戻りたい”って言ってくれたこと……」
少し照れたように、続ける。
「……それだけで……今は……十分だから」
星華は、その小さな手を見つめ、ゆっくりと、頷いた。
「……ありがとうございます……」
雫月は、ふっと笑った。
「……星華」
「……はい」
「……今日のこと……忘れなくていいよ」
星華は、はっきりと答えた。
「……忘れません」
二人は、それ以上踏み込むことなく、それでも確かに――
一歩、近づいていた。
主従でもなく、まだ恋人でもない。
けれど――
互いの心が、同じ場所で立ち止まった日。




