第33話 揺れる立場、揺れる心 ― 前半 ―
その日の午後、王宮は久しぶりに来客を迎えていた。
近隣諸国からの若い使節団。
形式張った挨拶と、短い歓談のための小規模な応接だったが、雫月も同席することになっていた。
星華は、いつも通り雫月の背後、半歩下がった位置に立つ。
(……久しぶりだな……こういう“皇女殿下”の場は……)
雫月の表情は穏やかで、言葉遣いも完璧だった。
微笑み、頷き、相手の話に耳を傾ける。
その姿は、紛れもなく“皇女”。
(……綺麗だ……)
そう思った瞬間、星華は内心で小さく眉をひそめた。
(……今のは……執事としての評価だ……)
そう言い聞かせる。
だが――
「殿下は、本当にお優しいお方ですね」
使節の一人、同年代ほどの青年が、少し距離を詰めて言った。
雫月は、いつも通り柔らかく微笑む。
「……ありがとうございます」
そのやり取りを、星華は静かに見つめていた。
(……近い……)
言葉にするほどのことではない。
警戒するほどでもない。
だが、胸の奥に、ほんのわずかな違和感が生じる。
(……なぜ……気になる……)
自分でも理由が分からず、星華は無意識に、雫月と使節の間に視線を走らせていた。
歓談が終わり、使節団が退室する。
扉が閉まった瞬間――
雫月は、ふっと肩の力を抜いた。
「……ふぅ……」
星華は一歩前に出る。
「……お疲れさまでした」
「……ありがとう」
雫月は、少しだけ疲れたように笑った。
「……こういうの、やっぱり緊張する……」
「……よく務められていました」
「……星華が、後ろにいたから」
何気ない言葉。
だが、星華の胸に、小さく熱が灯る。
「……そうでしたか……」
雫月は回廊を歩き出しながら、ふと振り返る。
「……さっきの人、どう思った?」
「……使節として、適切な距離感だと」
即答。
だが、ほんのわずかな“間”があった。
雫月は、それを見逃さなかった。
「……ふうん……」
雫月は、少しだけ口を尖らせる。
「……星華、さっき……ちょっと……怖い顔してた」
星華の足が止まる。
「……そう、でしたか」
「……うん。ほんの一瞬」
雫月は、星華の顔を覗き込む。
「……怒ってた?」
「……いいえ」
嘘ではない。
だが、真実でもない。
星華は視線を逸らした。
(……これは……執事として、あってはいけない……)
雫月は、その様子をじっと見つめる。
「……じゃあ……なに考えてたの?」
星華は答えられなかった。
答えが、自分でもはっきりしなかったからだ。
沈黙が流れる。
やがて、星華は静かに言った。
「……雫月が、遠く感じただけです」
雫月の目が、わずかに揺れる。
「……遠く……?」
「……皇女殿下としての雫月は、……とても、立派で……近づく資格がないように……感じることがあります」
その言葉は、星華自身が最も口にしたくなかったものだった。
雫月は、しばらく何も言わず、星華を見つめていた。
そして――
静かに、一歩近づく。
「……星華」
「……はい」
「……さっきの私は、“皇女殿下”だった」
星華は頷く。
「……でも、今は……?」
雫月は、星華のすぐ前で立ち止まり、小さく微笑んだ。
「……雫月、だよ」
その距離は、逃げ場がないほど近い。
星華の呼吸が、わずかに乱れる。
(……まずい……)
(……これは……執事として……越えてはいけない……)
だが――
胸の奥の違和感が、はっきりと形を持ち始めていた。
それは、“守るべき対象”への警戒でも、“職務”としての緊張でもない。
(……他の誰かに……向けられるのが……)
そこまで考えて、星華は思考を止めた。
雫月は、星華の表情の変化を見逃さず、静かに言った。
「……星華、今……ちょっと……嫉妬した?」
星華は、答えなかった。
答えられなかった。
それが、答えそのものだったから。




