第32話 名前を呼ぶ距離 ― 後半 ―
中庭の木陰に、静かな風が吹き抜けた。
雫月が「星華」と呼んだその余韻は、思った以上に長く、深く、二人の間に残っていた。
星華は視線を逸らしつつ、ほんのわずかに咳払いをする。
「……その……改めて呼ばれると……少し、照れますね」
雫月は驚いたように目を瞬かせ、すぐに、くすっと笑った。
「……星華も、そういう顔するんだ」
「……あまり、見せるものではありません」
「……でも、今は……見せてくれていい」
雫月の声は、穏やかで、どこか確信を帯びていた。
星華は、言葉に詰まり、しばらく空を仰ぐ。
(……敵の刃より……この一言の方が……よほど……)
胸の奥が、静かに騒いでいる。
午後。
雫月は、侍女たちと一緒に小さな裁縫室へ向かっていた。
公務の合間、礼装の修繕を兼ねた時間だ。
星華は扉の外で控えながら、時折、中から聞こえる笑い声に耳を傾けていた。
「……雫月様、最近……お顔が柔らかくなりましたね」
「え……?」
「前は、もっとこう……“皇女様”って感じでしたのに」
「……それ、どういう意味……?」
侍女たちが、楽しそうに笑う。
「星華様が戻られてから、雰囲気が変わったって話ですよ」
雫月の手が、ぴたりと止まる。
「……そ、そうかな……」
胸の奥が、少し熱くなる。
(……そんなに……分かりやすいのかな……)
外で聞いていた星華も、その言葉に小さく眉を上げた。
(……雰囲気が……)
自覚はなかったが、雫月の声や表情が、以前よりも柔らかくなったことは、彼自身も感じていた。
(……俺の存在で……何かが変わったなら……)
それは、嬉しくもあり、同時に、胸を締めつける感情でもあった。
夕方。
裁縫室から戻った雫月を、星華はいつもの回廊で迎えた。
「……お疲れさまでした」
「……うん」
雫月は、少しだけ視線を泳がせてから、ぽつりと尋ねる。
「……ねえ、星華」
「はい」
「……私、最近……“皇女様”じゃない時間が……増えてる気がする」
星華は歩調を合わせながら答える。
「……それは、悪いことではありません」
「……そう?」
「はい。雫月が、雫月として過ごせている証です」
雫月は、少し安心したように息を吐く。
「……でも……それでいいのかな……」
「……迷うのは、ちゃんと向き合っている証拠です」
星華は、立ち止まり、雫月を正面から見た。
「……皇女としての責務も、一人の人としての想いも……どちらかを捨てる必要はありません」
「……両方……?」
「ええ。雫月は、その両方を抱えられるだけの強さを、もう持っています」
その言葉に、雫月の胸が、じんと温かくなる。
「……星華……」
「はい」
「……私、ちゃんと……“雫月”でいても……いいんだよね……」
星華は、迷いなく頷いた。
「……もちろんです」
雫月は、思わず一歩近づいた。
距離は、ほんのわずか。
けれど、互いの息遣いが感じられるほど近い。
星華は、逃げなかった。
「……ありがとう……」
雫月は、そう言って、そっと微笑んだ。
夜。
雫月は、灯りを落とした自室で、窓辺に腰掛けていた。
昼の言葉が、何度も胸に蘇る。
(……名前で呼ぶだけで……こんなに……)
胸に手を当てる。
(……近くなる……)
その感情が、何なのか――
まだ、はっきりとは言えない。
でも。
(……離れたくない……)
それだけは、確かだった。
同じ頃。
星華は、廊下の奥で一人立ち止まっていた。
今日、何度も呼ばれた名前。
「星華」。
その響きが、不思議と胸から離れない。
(……呼ばれるたび……“役割”じゃなく……“存在”として……ここにいる気がした……)
剣では守れないものが、確かにある。
そして――
(……それを守りたいと……思っている……)
自覚した瞬間、星華は小さく息を吐いた。
(……これは……危険だな……)
だが、嫌ではなかった。
むしろ――
大切にしたい。
星華は、静かに歩き出す。
明日もまた、雫月のそばに立つために。
翌朝。
いつものように、雫月の部屋の前。
ノックの音。
「……おはようございます、雫月」
扉が開き、雫月が顔を出す。
「……おはよう、星華」
名前を呼び合うだけで、ほんの少し、笑顔になる。
それはまだ、はっきりした形ではない。
けれど確実に――
二人の距離は、“名前を呼ぶ関係”から、“心が触れ合う関係”へと、静かに歩み始めていた。




