表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Yes, Your Highness  作者: 名無しの旅人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

63/68

第32話 名前を呼ぶ距離 ― 後半 ―

中庭の木陰に、静かな風が吹き抜けた。


雫月が「星華」と呼んだその余韻は、思った以上に長く、深く、二人の間に残っていた。


星華は視線を逸らしつつ、ほんのわずかに咳払いをする。


「……その……改めて呼ばれると……少し、照れますね」


雫月は驚いたように目を瞬かせ、すぐに、くすっと笑った。


「……星華も、そういう顔するんだ」


「……あまり、見せるものではありません」


「……でも、今は……見せてくれていい」


雫月の声は、穏やかで、どこか確信を帯びていた。


星華は、言葉に詰まり、しばらく空を仰ぐ。


(……敵の刃より……この一言の方が……よほど……)


胸の奥が、静かに騒いでいる。


午後。


雫月は、侍女たちと一緒に小さな裁縫室へ向かっていた。

公務の合間、礼装の修繕を兼ねた時間だ。


星華は扉の外で控えながら、時折、中から聞こえる笑い声に耳を傾けていた。


「……雫月様、最近……お顔が柔らかくなりましたね」


「え……?」


「前は、もっとこう……“皇女様”って感じでしたのに」


「……それ、どういう意味……?」


侍女たちが、楽しそうに笑う。


「星華様が戻られてから、雰囲気が変わったって話ですよ」


雫月の手が、ぴたりと止まる。


「……そ、そうかな……」


胸の奥が、少し熱くなる。


(……そんなに……分かりやすいのかな……)


外で聞いていた星華も、その言葉に小さく眉を上げた。


(……雰囲気が……)


自覚はなかったが、雫月の声や表情が、以前よりも柔らかくなったことは、彼自身も感じていた。


(……俺の存在で……何かが変わったなら……)


それは、嬉しくもあり、同時に、胸を締めつける感情でもあった。


夕方。


裁縫室から戻った雫月を、星華はいつもの回廊で迎えた。


「……お疲れさまでした」


「……うん」


雫月は、少しだけ視線を泳がせてから、ぽつりと尋ねる。


「……ねえ、星華」


「はい」


「……私、最近……“皇女様”じゃない時間が……増えてる気がする」


星華は歩調を合わせながら答える。


「……それは、悪いことではありません」


「……そう?」


「はい。雫月が、雫月として過ごせている証です」


雫月は、少し安心したように息を吐く。


「……でも……それでいいのかな……」


「……迷うのは、ちゃんと向き合っている証拠です」


星華は、立ち止まり、雫月を正面から見た。


「……皇女としての責務も、一人の人としての想いも……どちらかを捨てる必要はありません」


「……両方……?」


「ええ。雫月は、その両方を抱えられるだけの強さを、もう持っています」


その言葉に、雫月の胸が、じんと温かくなる。


「……星華……」


「はい」


「……私、ちゃんと……“雫月”でいても……いいんだよね……」


星華は、迷いなく頷いた。


「……もちろんです」


雫月は、思わず一歩近づいた。


距離は、ほんのわずか。


けれど、互いの息遣いが感じられるほど近い。


星華は、逃げなかった。


「……ありがとう……」


雫月は、そう言って、そっと微笑んだ。


夜。


雫月は、灯りを落とした自室で、窓辺に腰掛けていた。


昼の言葉が、何度も胸に蘇る。


(……名前で呼ぶだけで……こんなに……)


胸に手を当てる。


(……近くなる……)


その感情が、何なのか――

まだ、はっきりとは言えない。


でも。


(……離れたくない……)


それだけは、確かだった。


同じ頃。


星華は、廊下の奥で一人立ち止まっていた。


今日、何度も呼ばれた名前。

「星華」。


その響きが、不思議と胸から離れない。


(……呼ばれるたび……“役割”じゃなく……“存在”として……ここにいる気がした……)


剣では守れないものが、確かにある。


そして――


(……それを守りたいと……思っている……)


自覚した瞬間、星華は小さく息を吐いた。


(……これは……危険だな……)


だが、嫌ではなかった。


むしろ――

大切にしたい。


星華は、静かに歩き出す。


明日もまた、雫月のそばに立つために。


翌朝。


いつものように、雫月の部屋の前。


ノックの音。


「……おはようございます、雫月」


扉が開き、雫月が顔を出す。


「……おはよう、星華」


名前を呼び合うだけで、ほんの少し、笑顔になる。


それはまだ、はっきりした形ではない。


けれど確実に――


二人の距離は、“名前を呼ぶ関係”から、“心が触れ合う関係”へと、静かに歩み始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ