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Yes, Your Highness  作者: 名無しの旅人


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第32話 名前を呼ぶ距離 ― 前半 ―

朝の回廊は、やわらかな光に満ちていた。


雫月は歩きながら、ふと立ち止まる。

その背後で、星華も自然と足を止めた。


「……どうかしましたか」


「……ううん」


雫月は首を振り、少しだけ言いづらそうに視線を逸らす。


「……ただ……最近、思ったことがあって……」


「……はい」


星華は、急かさず待つ。


雫月は一度深呼吸をしてから、言った。


「……星華ってさ……私のこと、どんな時でもちゃんと名前で呼ぶようになったよね」


星華は、一瞬だけ目を見開いた。


「……ええ。意識して、そうしています」


「……やっぱり?」


「はい」


雫月は、少し照れたように笑った。


「……前は、公式の場で“殿下”とか、“皇女様”ばっかりで……それが普通だと思ってたけど……」


「……それは、立場上、正しい呼び方でした」


「……でも、今は……?」


星華は、歩みを進めながら答える。


「……今は、あなたを“雫月”と呼びたいから、そう呼んでいます」


雫月の胸が、きゅっと鳴る。


「……それって……立場、忘れてる?」


「……忘れてはいません」


星華は、ほんの少し困ったように微笑んだ。


「ですが……立場よりも先に、“雫月”がいることを……隠せなくなっただけです」


雫月は、思わず足を止めた。


「……それ……」


声が、少し震える。


「……嬉しい……」


星華も、足を止め、雫月を見る。


「……不都合でしたか?」


「……ちがう」


雫月は、首をぶんぶん振る。


「……もっと……ちゃんと、名前を呼ばれたいって……思ってただけ……」


星華は、少し考えてから、穏やかに言った。


「……では……これからも……雫月、と」


その一言が、胸の奥に、静かに沁みていく。


午前の執務。


雫月は政務補佐の書類を読みながら、どうにも集中できずにいた。


(……星華……さっきの言い方……)


文字を追っては、意識が逸れる。


「……雫月」


名前を呼ばれ、びくっと肩が跳ねる。


「……は、はい……!」


星華は、苦笑する。


「……大丈夫ですか。顔が、少し赤いようですが……」


「……だ、大丈夫……!」


雫月は慌てて書類に戻る。


(……だめだ……名前で呼ばれるだけで……)


(……こんなに……意識しちゃうなんて……)


星華は、そんな雫月の様子を、さりげなく見守っていた。


(……呼び方ひとつで……ここまで変わるとは……)


彼自身も、胸の奥が落ち着かない。


(……だが……嫌ではない……)


むしろ――


(……大切にしたい……)


その感情に、まだはっきりした名前はない。


だが、確かに、剣を握る時とは違う重みで、心に根を張り始めていた。


昼下がり。


中庭での短い休憩時間。


雫月はベンチに腰を下ろし、木漏れ日を眺めていた。


星華が、隣に立つ。


「……少し、風が出てきましたね」


「……うん」


沈黙が流れる。


不思議と、気まずさはない。


ただ、静かで、落ち着いた時間。


雫月は、ふと顔を上げて言った。


「……ねえ、星華」


「はい」


「…私も……改めて呼んでいい……?」


星華の呼吸が、わずかに止まる。


「……もちろんです」


「……じゃあ……」


雫月は、小さく息を吸って――


「……星華」


たった二音。


それだけなのに、胸の奥が、強く震えた。


星華は、ゆっくりと雫月を見る。


「……はい。雫月」


視線が絡む。


二人の間に、確かな“距離の変化”が生まれていた。


立場ではなく、役割でもなく――


ただ、名前を呼び合う距離。


それは、主従という枠を静かに越えながら、新しい関係の入口に、二人を立たせていた。

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