第31話 戻った日常、ふたりの距離 ― 前半 ―
星華が正式に皇女付き執事へ復帰してから、王宮は目に見えて穏やかな日々を取り戻しつつあった。
結界の検査は終了し、騎士団の警備も平常体制へと移行する。
夜叉の影に揺らいでいた不安は徐々に薄れ、回廊には人々の明るい声が戻り始めていた。
雫月は、書斎で広げた書類を前に、小さくため息をつく。
「……うーん……」
「行き詰まりましたか」
対面で紅茶を淹れていた星華が、ふと顔を上げる。
「……ちょっとだけ……」
雫月は書類を睨みながら言った。
「外交儀礼……読むだけで眠くなる……」
星華は思わず軽く笑う。
「皇女殿下として、その台詞はどうかと……」
「だって……難しいんだもん」
雫月は口を尖らせながら、星華を見る。
「……昔はさ、星華がそばにいてくれれば、勉強も何となく乗り切れたんだけど……」
「“何となく”なのが問題ですね」
「……厳しい……」
そう言いながらも、雫月の声は明るかった。
星華が復帰してからというもの、小さな会話が、少しずつ増えている。
お互いに無理なく、自然に。
(……距離……変わったな……)
雫月は、そう感じていた。
かつては、“守られる側”として星華を見つめるだけだった。
けれど今は――
(……ちゃんと、隣にいる……)
紅茶の湯気越しに、星華の横顔を盗み見る。
集中して仕事をしている表情は、以前と変わらないはずなのに、なぜだか、前よりも柔らかく見えた。
「……星華」
「はい」
「……そばに戻ってきてくれて……ありがと」
突然の礼に、星華の手が、わずかに止まる。
「……それを、言うなら……」
星華は目を伏せ、静かに答えた。
「俺が、戻りたかっただけです」
「……任務じゃなく?」
「……ええ。あなたのそばへ戻ることを、“仕事”にしているだけ……です」
雫月の頬が、少し熱を帯びる。
「……それ……ずるい……」
「そうでしょうか」
「……もっと……執事らしいこと言って……」
星華は少し困ったように微笑んだ。
「では――“雫月様のためなら、この身、何処へでも”……などで?」
「……それは……」
雫月は吹き出す。
「……さすがに古いよ……」
微妙に肩を落とす星華を見て、雫月はまた可笑しくなる。
(……こうして笑える時間……)
(……戻ってきたんだな……)
昼下がり。
城下への買い出し許可が下り、二人で短時間の外出をすることになった。
変装用の簡素な外套姿で、人通りの多い市場路を並んで歩く。
「……人、多い……」
「殿下――」
「今は“雫月”で」
「……承知しました。では、雫月」
そう呼ばれるだけで、胸がくすぐったくなる。
市場では、果物の呼び売りや、焼き菓子の甘い匂いが立ちこめていた。
雫月は、あれこれと視線を彷徨わせる。
「……あ、あの飴……」
「買いますか」
「……うん」
星華は屋台へ向かい、二本のりんご飴を受け取る。
一本を雫月に差し出す。
「どうぞ」
「……ありがとう」
飴にかぶりつき、満足そうに微笑む雫月を、星華は、そっと見つめていた。
(……やっぱり……この時間が、いちばん……)
戦場で剣を握るよりも、彼にとって穏やかな幸福が詰まっている。
雫月が振り向いた。
「……なに、見てるの……?」
「……りんご飴」
「……うそ」
「……半分は本当です」
雫月が軽く頬を膨らませる。
「変なの」
そう言いながら、星華の飴に、ひょいと視線を移した。
「……ひと口、ちょうだい」
星華はほんの一瞬迷い、そっと差し出した。
雫月は、星華の持つ飴に、ぱくりとかじりつく。
「……ん、甘い」
「……感想が簡潔すぎます」
二人は顔を見合わせ、思わず笑った。
市場の喧騒の中、ほんのささやかな“日常”。
それは、嵐を越えてきた二人にとって――
かけがえのない贈り物だった。




