第3話 影、揺らぐ記憶 ― 前半 ―
雫月と星華が月明かりの中で並んで眠った夜から、三日が経った。
王宮では依然として警戒態勢が敷かれ、廊下にはいつもより多くの兵士が立っていた。
しかし――雫月の部屋の中だけは、以前と変わらぬ静けさがあった。
「星華、これ持って」
「はい、雫月様」
朝の光が差し込む中、雫月は星華へ書類の束を手渡していた。
今日は王族の教育として、雫月が文官から法律の基本を学ぶ日で、星華はその補佐を任されたのだ。
「ねぇ星華。私、難しい言葉を読むとすぐ眠くなっちゃうの。途中で寝そうになったら起こしてね」
「……はい。全力で起こします」
「全力で……って、ちょっと怖いかも」
雫月はくすっと笑い、星華もつられて微笑む。
(この人は……どうしてこんなに穏やかな気持ちにしてくれるのだろう)
星華は不思議に思う。
記憶の底には暗闇しかないのに、雫月といると心が澄んでいく。
「星華。さ、行きましょう!」
雫月はスカートを軽く揺らして歩き始める。
星華はその一歩後ろを、自然と守るようにしてついていく。
文官室では壮年の文官が雫月を迎えた。
「殿下。本日は国の法について――」
「はいっ! よろしくお願いします!」
雫月は張り切って席に座るが、文官の説明が始まって三分後――
星華は横で静かにため息をついた。
(……目が完全にとろんとしている……)
「……ふあ……っ」
「殿下、まだ三分です」
「だって難しいのよ……!」
ふてくされる雫月に、文官は苦笑しながら説明を続ける。
星華は横でメモを取りながら、ふと窓の外に視線をやった。
庭園の奥、木陰の向こう――
薄暗い気配が、確かに揺れ動いた。
(また……誰かが見ている……?)
星華は緊張し、無意識に雫月の前へ身を乗り出した。
その動きに気づいた雫月がこっそり袖を引く。
「星華……?」
「……いえ、大丈夫です。でも……気のせいではありません」
「また……刺客?」
「断定はできません。ですが――間違いなく、何者かがこの王宮を探っています」
雫月の顔が不安に沈んでいくのを見て、星華は彼女の肩にそっと手を置く。
「大丈夫です。ここにいる限りは俺が守ります」
「……うん」
星華の言葉は雫月の胸に寄り添うように響いた。
学びの時間を終え、二人は王宮の裏庭へと移動していた。
裏庭は花で埋め尽くされ、鳥たちが歌う“秘密の庭”。
王宮の中でも雫月のお気に入りの場所だ。
「星華、ここに来るとね……落ち着くの」
「確かに、静かですね」
「そうなの。だからね……星華と一緒に来たかったの」
その言葉に星華は胸が温かくなる。
「……ありがとうございます、雫月様」
二人は並んで庭を歩いていたが、突然、星華の頭に電流が走ったような痛みが走った。
「っ……!」
「星華!? 大丈夫?」
「すみません……少し、頭が……」
星華はこめかみに手を当て、苦しそうに目を伏せる。
雫月は彼の腕を支えながら慌てて顔を覗き込む。
「また……記憶が?」
「……はい。少しだけ、何かが……」
星華の脳裏に、再び黒い影がよぎる。
――暗い部屋。
――壁に刺さった刃。
――「処分しろ」と冷たく響く声。
――泣き叫ぶ少女。
――赤い光。
(……俺は……誰を……)
星華の呼吸が浅くなる。
「星華! 無理に思い出そうとしないで!」
雫月は星華の手を両手で包み、必死に呼びかけた。
「星華は星華なのよ! 何者だったとしても……今は私の執事なんだから!」
その声が星華の中の闇を押し返していく。
やがて痛みはゆっくりと収まり、星華は深く息を吐いた。
「……ありがとうございます、雫月様。あなたの声が……届きました」
「よかった……もう、本当に心臓が止まるかと思ったんだから」
雫月は胸を押さえながら涙ぐんだ。
星華はその小さな肩に手を添え、静かに言う。
「ご心配をおかけして……申し訳ありません」
「謝らないで。星華の痛みが消えたならそれでいいの」
雫月の優しさに胸が熱くなる。
星華は雫月の手をそっと握り、真っすぐに見つめた。
「雫月様。俺は……あなたのために強くなります」
「え……?」
「たとえどんな過去があっても……あなたを守れるように」
雫月の頬がうっすらと赤く染まる。
(星華……そんな顔で言わないでよ……)
心臓の鼓動が速くなっていく。
星華の目は真剣で、その言葉には嘘がなかった。
「……そう言われると……私も頑張らなきゃって思うわ」
雫月は星華へ笑みを返す。
その時だった。
「おや、お二人でお散歩ですかな?」
穏やかな声とともに姿を現したのは、雫月の叔父にあたるクレイン殿下だった。
灰色の髪を紳士的に束ね、柔らかな笑みを浮かべている。
「クレイン叔父様!」
「雫月、元気そうで何よりだ」
クレインは優しく雫月の頭を撫でる。
雫月も安心したように微笑んだ。
「叔父様こそ、お忙しいのにどうしたの?」
「実はね……“星華君”に会いに来たのだよ」
星華は驚いて姿勢を正す。
「……俺、ですか?」
「ああ。君が雫月を守ったと聞いたからね。礼を言おうと思って」
クレインは柔らかく微笑み、星華の肩に手を置く。
「ありがとう。あの子は大切な家族だ。命を救ってくれたこと……本当に感謝している」
「……いえ、当然のことをしたまでです」
「いや、当然ではない。――だが」
クレインの瞳が一瞬だけ鋭く光った。
「君の“正体”が分からないのは、やはり気になる」
雫月が星華を庇うように前へ出る。
「叔父様! 星華は悪い人じゃありません!」
「そう思いたい気持ちは理解しているよ。だが、王族の安全は軽んじられない」
クレインは落ち着いた声で続けた。
「星華君。君を疑っているわけではない。ただ……ひとつ確かめたいことがあってね」
「……確かめたいこと?」
「君の動きだよ。刺客が現れた瞬間、君は“身体が勝手に動いた”と言ったそうだ。これは訓練された者特有の反応だ」
星華の胸にざわりとした感覚が走る。
「もしも君が……かつて王宮の敵国の“暗殺部隊”にいた者だったら……」
雫月の顔色が変わる。
「叔父様っ……!」
しかし星華は静かに言った。
「……その可能性は、否定できません」
「星華!?」
雫月が心配そうに彼の腕を掴む。
星華はその手を優しく押さえ、続けた。
「記憶がない以上、どんな過去があってもおかしくありません」
クレインは頷く。
「君がそう言うのなら、なおさら……“鍛えた動き”かどうか、確かめさせてもらえるか?」
「どう……いう意味……ですか?」
「簡単な護身動作をしてほしい。何も構えずに私が触れようとしたとき……君がどう反応するか。それで分かる」
雫月は星華の袖を握り、震える声で言う。
「星華……やらなくていい……」
「……いえ、雫月様」
星華は雫月を見つめる。
「僕は……あなたを守るために、自分が何者か知る必要があります」
雫月は唇を噛んだ。
(星華……)
クレインが静かに歩み寄る。
「では……行くよ。構えなくていい」
星華は深呼吸し、足を少しだけ開いて立つ。
クレインがゆっくりと星華の肩に触れようとした瞬間――
星華の身体は反射的に動いた。
足が滑るように後退し、手がクレインの手首を逆に取っていた。
美しく洗練された動き――致命点を瞬時に制する暗殺技だ。
「っ……!」
雫月が息を呑む。
クレインは目を見開いたまま動きを止めた。
「……これは……」
星華の手が震えている。
自分でも知らない“殺意の癖”が、身体に染みついている――。
「星華……?」
雫月が恐る恐る彼に触れる。
星華は雫月の顔を見つめ、苦しげに言った。
「……俺は……やはり、ただの少年じゃない……」
クレインは真剣な眼差しで星華の手を見た。
「星華君。君は……“帝国暗殺部隊《夜叉》”の技を使った」
「……夜叉……?」
その名を聞いた瞬間、星華の頭にまた鋭い痛みが走った。
――血の匂い
――黒い面
――“番号十三、処分対象を排除せよ”
「っ……あ……!」
「星華!?」
星華は地面に膝をつき、息を荒げた。
雫月は混乱しながら彼の背を抱く。
「星華、お願い……戻ってきて……!」
星華の口から苦しげな声が漏れる。
「……俺は……雫月様に……近づいていい存在じゃ……」
「違う!!」
雫月の悲痛な叫びが、星華の胸に突き刺さる。
「星華は……星華よ! 過去なんて関係ない! 今、ここにいるあなたが大切なの!」
雫月は星華の両頬を両手で挟み、その額を合わせた。
「お願い……どこにも行かないで……!」
星華は震えながら雫月を見つめた。
「……雫月様……」
その瞳に映る雫月の姿が、闇を押し返すようにゆっくりと光を取り戻していく。
「俺は……あなたの執事でいたい……その願いだけは……変わりません」
雫月の肩が震え、涙がこぼれた。
「星華……ありがとう……!」
クレインは静かに二人を見守りながら、心の中で呟いた。
(この子が“夜叉”であろうと……雫月を守る存在には違いない。だが――)
その表情には、不安と決意が入り混じっていた。
(帝国が動き始めた今……この子の“過去”が二人の未来を脅かすだろう)
裏庭を吹き抜ける風が揺れ、花々が音もなく散る。
その花びらはまるで――
二人の運命が揺らぎ始めた証のようだった。




