第30話 待つ者と、歩む者 ― 前半 ―
星華が王宮を発ってから、三日が過ぎていた。
雫月は毎朝、いつもより少し早く目を覚ますようになった。
城の鐘が鳴る前に起き、窓を開け、空を見上げる。
(……今日は、晴れ……)
青空の向こう、遠い地平線の下で、星華が任務にあたっている。
それを想像するだけで、胸の奥がそわそわと落ち着かない。
食事の席でも、周囲の声がどこか遠くに聞こえる。
侍女の言葉に頷きはするが、視線は自然と、窓や扉を探してしまう。
(……いないんだ……)
まだ数日しか経っていないのに、雫月には、やけに長く感じられた。
昼前、雫月は王宮付属の図書室に足を運ぶ。
夜叉事件の後、学問や政務の学びを本格的に再開するようになった。
(……ちゃんと……一人でも立てるって……証明しないと……)
書棚の間を歩きながら、雫月は古地図を広げる。
星華の部隊が展開している地域。
帝国国境に近い、灰色の山岳地帯。
(……寒いって言ってたな……薄着じゃ、ないよね……)
無意識に、心配ごとが浮かぶ。
ため息をつき、ページをめくる手が止まる。
「……だめだね……集中できてない……」
自嘲気味につぶやいた時、背後から、穏やかな声がかかった。
「殿下?」
振り返ると、そこに立っていたのは、騎士団長ヴァルドだった。
「……ヴァルド卿?」
「お邪魔でしたか」
「ううん……ちょうど休憩してたところ」
ヴァルドは、雫月が広げている地図を見て、すぐに状況を察したように微笑む。
「星華殿の行き先ですね」
雫月は頷いた。
「……心配で……」
ヴァルドは静かに腕を組む。
「無理もありません。だが、彼は自分の任務への覚悟を、とっくに固めています」
「……分かってる……つもり……」
雫月は視線を落とす。
「……でも……“分かってる”って思ってても、心配は……消えなくて……」
ヴァルドはしばらく沈黙し、やがて口を開いた。
「殿下。“待つ”というのは……“何もしない”ことではありません」
「……え?」
「信じて、日々を生きる。それは、前へ進むのと同じです」
雫月は、目を見開いた。
「……前へ……」
「ええ。星華殿は剣を持って歩いている。殿下は、この城で、“心”をもって歩いておられる」
雫月の胸に、じんわりと熱が広がる。
「……ありがとう……」
「いえ。星華殿が戻った時、誇れる自分であってください」
ヴァルドはそう言って、静かに去っていった。
(……誇れる……自分……)
雫月は、地図を閉じ、背筋を伸ばす。
「……よし」
小さく気合を入れ直す。
「……ちゃんと過ごそう……」
その頃――
灰色の山岳地帯。
乾いた風が、岩肌を鳴らし、雲を流している。
星華は、岩陰に並ぶ騎士団の一員として警戒に立っていた。
遠く、帝国側の廃砦を見やる。
(……敵影なし……)
部隊は、黒羽残党の補給線を断ち、追撃態勢を固めつつある。
順調――
だが、息の抜けない日々だった。
夜明け前、星華は短い休憩をもらい、岩に腰を下ろした。
懐から――
一枚の布切れを取り出す。
王宮で、雫月が使っていたドレスの裾。
騒乱の夜、裂けて落ちた小さな布片を、星華は密かに拾い、持ち歩いていた。
(……お守り、みたいなものか……)
自分で思って、苦笑する。
剣を握る手が、ほんの少し、温かくなる。
「……戻ります……」
誰にともなく、静かに誓った。
――だが。
その直後、見張り兵の低い声が飛んだ。
「……接近音確認……複数……」
星華は即座に立ち上がり、剣に手をかける。
(……来る……)
山の尾根越しに、黒い影が、揺れ始めていた。




