第25話 鎖を断つ誓い ― 後半 ―
その夜更け、王宮は雨に包まれていた。
満月祭を目前に控えた城内は、昼は人の行き交う喧騒に満ち、夜は一転して張り詰めた静寂に沈んでいる。
祭の準備は着々と進み、舞踏広間には色とりどりの布飾りが張られ、燭台の点検が幾度も繰り返されていた。
だがその華やかさの裏側で、見えない戦いがすでに始まっている。
雫月の部屋前には、通常の倍に増えた騎士の立哨。
回廊の節目には結界符。
屋根の上には見張りが常駐し、地下水路の封鎖確認も完了している。
星華は点検を終え、最後に雫月の部屋の前に戻った。
(……配置は問題なし。
だが――)
胸の奥で、消えない違和感が燻っている。
(夜叉の気配が……遠い……)
これまでの夜叉は、必ずどこかで“影”を揺らしてきた。
直接手を出さずとも、斥候を走らせ、視線を送りつけ、存在を誇示してくる。
しかし今は――
不気味なほど静かだ。
「……嵐の前、か……」
誰にも聞こえないように、星華は息を吐いた。
雫月の部屋の中では、灯りを落としたソファで、雫月がひとり外を眺めていた。
(……星華……今も巡回してる……)
先ほど、窓越しにその背を見かけた。
重い外套を翻しながら、雨の城を歩く姿。
(眠らなくていいわけないのに……)
けれど、危険が近づいていると気づいてしまった今、「休んで」と言うことはできても、止めることはできない。
(……でも……一緒に立つって言ったんだよね……)
雫月は、胸元で指を組み直した。
「……大丈夫……信じる……」
言い聞かせるようにつぶやいた瞬間――
部屋のろうそくが、ふっと揺れた。
(……風……?)
窓は閉まっている。
次の瞬間、室内の空気が、わずかに冷えた。
ぞわりと、背筋をなぞる感覚。
「……?」
雫月が立ち上がりかけた、その時――
床に落ちた影が、奇妙な“うねり”を見せた。
影が、まるで“水面”のように歪み、ゆっくりと盛り上がる。
「……っ――!」
声を上げる間もなく、影の中から、黒い外套に身を包んだ“人影”が音もなく立ち上がった。
「……久しいな。皇女殿下」
低く、かすれた声。
赤く濁った、あの片目。
「……夜……叉……」
雫月は後ずさる。
首元の鈴飾りが、微かに鳴った。
「安心しろ。殺しには来ていない」
夜叉はゆっくりと距離を詰める。
「目的は、あの男だ」
「……星華……」
「そう。“夜死”を取り戻す」
夜叉の口元が歪む。
「そのために――お前を“預かる”」
同時刻。
巡回路を歩いていた星華の胸奥を、焼けるような“警報”が走った。
(……来た!)
理由はない。だが、雫月が“呼んでいる”感覚が、脳髄を打ち抜いた。
「……雫月……!」
星華は全力で回廊を駆けた。
雫月は震えながら、ゆっくりと後退する。
「……来ないで……」
「命令だ。大人しくする方が利口だぞ」
夜叉の影が床に滲み、黒い紐のように伸びる。
(……どうしよう……!)
逃げようと踏み出した瞬間――
影の紐が、雫月の足首を絡め取った。
「……っ!」
身体が床へ引かれる。
その瞬間、扉が爆ぜるように開いた。
「――雫月!!」
星華だった。
剣を抜き放ち、影紐を一閃。
雫月を抱き起こし、背に庇う。
「……夜叉……部屋まで侵入するとは……!」
夜叉は、ゆっくり笑った。
「護衛は外に引き付けられている。完璧な配置ほど、内部が空く――」
「……誘導……!」
「そうだ。祭の準備騒ぎに乗じ、巡回を外周へ集中させた」
星華は歯噛みする。
(……しまった……)
夜叉の影が、部屋全体を覆い始めた。
「夜死。もう一度、俺のもとへ戻れ」
星華は雫月を強く抱く。
「……戻らない」
「なら――」
夜叉の影が爆ぜた。
無数の黒刃が、星華へ殺到する。
星華は咄嗟に、雫月を壁際へ突き飛ばした。
「雫月、伏せて!!」
刃が、星華の肩と背を切り裂く。
「星華!!」
血が、床に落ちる。
それでも星華は踏み出し、剣を構え直した。
(……守る……!)
だが、影は容赦なく広がり――
夜叉は、影の向こうから手を掲げる。
「眠れ」
術式が発動した。
雫月の意識が、すぅっと遠のく。
「……星華……」
手を伸ばす。
(……離れないって……言ったのに……)
視界が、闇に沈む――
――その瞬間。
星華の叫びが、闇を引き裂いた。
「――雫月ァァァァッ!!!」
だが、その声が届いた時には――
雫月の身体は、影の中へ引きずり込まれていた。
部屋に残されたのは、砕けた家具と、床に滴る血。
そして、膝をついた星華だけだった。
「………………」
星華は、拳を床に叩きつける。
「……守ると……誓ったのに……」
震える声。
「……ごめん……雫月……」
彼の耳元で、夜叉の声が遠鳴りのように残る。
「迎えに来い、夜死。それができるなら――鎖を断ち、再び俺のもとへ来い」
星華の瞳に、決意の火が、轟然と灯った。
「……必ず……」
立ち上がる。
「必ず……取り戻す……!雫月を――」
剣を握りしめ、星華は血を拭う。
――誘拐は、完遂された。
こうして、ふたりの“日常”は、完全に終わりを告げた。




