第2話 執事としての第一歩 ― 後半 ―
王宮に戻った雫月と星華は、そのまま王城奥深くにある「風花の間」へ通された。
そこは王家の血を引く者だけが使用できる専用の談話室で、厚い扉と魔術結界が張られている。
外には軍務官と兵士が立ち、出入りは厳重に管理されていた。
雫月はまだ少し震えていた。
星華がそっと隣に座ると、雫月は彼の袖をつまんで頼るように身を寄せる。
「星華……さっきの……本当に私を狙ってたの……?」
「……はい。間違いありません」
星華は静かに言った。
雫月は不安げに目を伏せる。
「でも……どうして……? 私、何もしてないのに……」
「雫月様が“王女だから”です。理由はそれだけで十分です」
「……そんなの、いや……」
星華は雫月の小さな手を包み込む。
「大丈夫です。もう俺がいます」
雫月は星華の言葉にわずかに安堵したようだったが――
その時、重い扉が開き、国王が姿を現した。
「雫月。無事でよかった」
「お父様……!」
雫月は立ち上がって駆け寄る。国王はそっと娘の頭を撫でた。
「怖かったな。しかし、よく頑張った」
「はい……でも、星華が守ってくれたの」
雫月が振り返る。
星華は国王の前で深く頭を下げた。
「陛下。雫月様の安全を第一に行動いたしました」
「……そうか」
国王は星華の顔をじっと見つめる。
先日の話が頭に浮かぶ。
(この少年……何者か分からぬ。だが――)
あの瞬間、雫月を守ったのはこの少年だった。
それは紛れもない事実だ。
「星華。今日の働きは見事だった。礼を言う」
国王の言葉に、星華は驚いたように目を上げる。
「もったいないお言葉……」
「しかし、これからはより警戒を強めねばならぬ。雫月のそばにいる以上、お前も危険に巻き込まれる」
「……承知しております」
星華の声音は揺らがない。
その目に宿る意思を見て、国王は小さく息をついた。
「雫月。今日はもう公務は中止だ。部屋に戻って休みなさい」
「……はい。でも、星華も一緒に」
「もちろん構わん」
雫月は星華の手を握り、安心したように微笑んだ。
国王はその様子に複雑な表情を浮かべながらも、二人を見送った。
雫月の私室に戻ると、ようやく静けさが戻った。
緊張で張り詰めた空気がほどけ、雫月はベッドに腰を下ろす。
「……はぁ、今日は本当に大変だったわね」
「はい……俺も驚きました」
星華は雫月の隣に座るわけにはいかず、少し距離を置いて立ったまま言う。
「星華?」
「……雫月様、先ほど……俺があなたを守ると言いました」
「うん。言ってくれたわね」
「……その言葉に、嘘はありません。でも……」
星華は胸に手を当て、苦しそうに頭を下げた。
「俺が……あの刺客と同じだったら、と考えてしまうんです。記憶がない以上、俺は……あなたの敵だった可能性だってある」
「星華……」
雫月はベッドから立ち上がり、そっと星華の前へ歩み寄った。
「ねぇ、星華。あなたは私を庇ってくれたじゃない。今日だって、すぐに助けてくれた」
「……それは、身体が動いたというか……理由は分かりません」
「理由なんてどうでもいいのよ」
雫月は星華の両手を握りしめる。
「あなたが私を助けたいと思ってくれた。それが全てよ」
星華は揺れる瞳で雫月を見つめる。
「……雫月様……」
「私ね、星華を拾った時から、ずっと思ってるの。“この人は、私にとって大切になる”って」
星華の胸が強く脈打つ。
「だからね、星華。あなたが誰だったとしても……私はあなたを否定したりしないわ」
その言葉は、星華の心を静かに溶かしていく。
(俺は……この人のために生きたい)
その想いは確かに胸に灯っていた。
星華は雫月の手にそっと触れ、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます」
「ふふ。なら、笑ってよ」
「……え?」
雫月は背伸びして星華の額に自分の額をこつんと当てた。
「星華の笑顔が好きなの。だから、怖くても寂しくても……笑ってくれると、私も安心するのよ」
その距離の近さに星華は一瞬固まったが、ゆっくりと表情を緩めた。
「……笑えてますか?」
「うんっ! とっても」
雫月は花が咲くように笑った。
――この瞬間ほど、星華は自分の心が誰のために動いているのかを自覚したことはなかった。
その夜。
雫月が眠った後、星華はひとり中庭へと向かっていた。
月が高く昇り、庭園を淡く照らしている。
風が木々を揺らし、夜の静けさが広がっていた。
「……あの気配……やはり、覚えがある」
星華は昼間感じた刺客の気配を思い返す。
その動き、間の取り方、気配の殺し方――
(俺はあれを……知っている。いや……俺自身が――)
脳に鋭い痛みが走る。
「ぐっ……!」
記憶の闇の中から、無数の手が伸びてくるような感覚。
声にならない叫び。刃の感触。血の匂い。
(俺は……誰なんだ……)
その時。
「星華……?」
振り返ると、雫月が白い寝間着姿で立っていた。
眠れずに星華を探しに来たのだろう。
月明かりが彼女の髪を照らし、まるで精霊のように見えた。
「雫月様。こんな時間に……」
「星華がいないから……心配で」
雫月は小さく駆け寄ってくる。
星華は咄嗟に痛みを隠し、笑顔を作った。
「大丈夫ですよ。少し風に当たりに来ただけです」
「……本当に? 苦しそうに見えたけど」
雫月は星華の袖を掴み、覗き込むように見上げる。
その瞳には真剣な心配があった。
「嘘ついたら……怒るわよ?」
星華は息を飲む。
雫月の真っすぐな瞳には、どんな嘘も映ってしまいそうだった。
「……少しだけ、思い出しそうになって……」
星華は正直に言った。
雫月は胸に手を当て、小さく息を呑む。
「怖い……?」
「……はい。でも、あなたの顔を見ると……落ち着きます」
「そっか……じゃあ、今日は一緒にいましょう」
「……え?」
「星華がひとりで苦しいなら、そばにいればいいのよ」
雫月は星華の手を取ると、そのまま中庭の石のベンチに座った。
「ほら、星華も」
星華は迷ったが、雫月の隣に静かに腰を下ろす。
月の光の下、二人の影が寄り添うように重なった。
雫月は星華の肩に頭を寄せる。
「ねぇ星華。あなたが誰だったとしても……私はずっと味方よ」
「……雫月様……」
「だって星華は……私の大切な執事なんだから」
雫月の声は、夜風に溶けるように優しかった。
星華はその手をそっと握り返す。
「……ありがとうございます。雫月様」
胸の奥の痛みはまだ消えない。
しかし、その痛みを乗り越える理由が、目の前にいた。
星華は静かに誓う。
(たとえどんな過去があろうとも……雫月様を守り抜く)
夜空を見上げると、一筋の流れ星が横切った。
それはまるで、二人の運命が静かに交わり始めた印のようだった。




