第24話 帝国の影、迫る誘拐計画 ― 前半 ―
王宮は、夜の緊張を引きずったまま朝を迎えていた。
警備の配置は通常の倍近くに増員され、回廊には騎士たちの足音が絶えず行き交っている。だが表向きには、日常を装うかのように、侍女たちはいつも通り行き来し、鐘楼からは定刻通りに鐘の音が鳴り響いていた。
雫月は自室の窓辺に立ちながら、その鐘の音を聞いていた。
(……もう、昨日までの“何も知らなかった私”じゃない)
昨夜、闇の中で見たあの赤く濁った片目。
あれが幻でないことを、星華の調査が証明してしまった以上、雫月の心は否応なく“戦いの渦中”へ引き戻されてしまった。
……けれど。
窓際で、星華がいつものように立っている。
黒い外套を整え、騎士団章を胸に下げた背中は、昨夜以上に凛としている。
雫月はその背を見つめ、胸の鼓動を静めた。
(……星華がいる。だから……大丈夫)
「雫月、朝食の準備が整いました」
「……ありがとう、星華」
ふたり並んで小食堂へ向かう。
廊下には、いつもより多くの騎士が立っていた。
その視線が、雫月に一斉に集まる。
王宮にいながら、強く“守られている”という実感がある。
(……私、いつのまにこんなに大事な存在になったんだろう……)
食堂の席につくと、雫月はスプーンを動かしながら、ちらりと星華を見る。
「……あまり、眠れてない?」
星華は一瞬だけ視線を彷徨わせたあと、微笑んだ。
「眠れましたよ。護衛としては」
その言い方に、雫月は眉をひそめる。
「……護衛として、って?」
「守る準備を整えていただけです」
雫月はスプーンを置いた。
「……星華。“準備”って……何?」
星華は言葉を選ぶように、軽く深呼吸をしてから答える。
「……敵の侵入経路を調査し、王宮内部の“死角”を洗い出していました。あの斥候は、偶然ではなく――侵入箇所を計測して動いた可能性が高い」
雫月は息を呑む。
「……つまり……」
「ええ。昨夜の接触は、明確な“下見”です」
朝食の器が、かすかに震えたのは、雫月の指先が止まったせいだった。
(……誘拐……されるかもしれない……)
星華は雫月の手の震えに気づき、そっと覆うように自分の手を重ねた。
「……恐れなくて大丈夫です」
「……ほんと……?」
「はい。彼らが何を狙って来ようと、俺の命より先に、あなたに触れさせることはありません」
雫月の胸が、じんわりと熱を帯びる。
「……星華……」
言葉を失いかけた雫月に、星華は続けた。
「ただ……今後しばらくは、単独行動は控えていただきたい」
「……分かった」
雫月は迷わず頷く。
「私、逃げない。ちゃんと……星華のそばにいる」
星華の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……それが、最も危険でも?」
「……逃げたら、もっと怖くなるだけだもん」
星華は、ゆっくりと息を吐いた。
(……彼女は……守られるだけの少女じゃない……)
朝食後。
ヴァルド騎士団長との緊急会議が開かれる。
星華は雫月を護衛席に座らせ、自らは団長の横に立った。
机の中央には、王宮の内部図と、街区から地下へ伸びる旧水路の見取り図が広げられている。
「夜叉の配下は、水路を通って侵入を試みた形跡がある」
ヴァルドが低い声で告げる。
「使われなくなった旧水路……王宮結界の“裏側”に通じている可能性がある」
星華が補足する。
「斥候は、その進入口を計測してから、撤退したと思われます」
「つまり――」
ヴァルドは拳を固めた。
「次は、“実行段階”だな」
室内の空気が、重く沈む。
雫月はぎゅっと指を組み、それを見つめた。
(……星華の言っていた通り……もう、“様子見”は終わったんだ……)
ヴァルドが視線を雫月へ向ける。
「殿下、城外への外出は、当面中止といたします」
「……分かりました」
「城内の移動も、必ず星華殿同行で」
星華は静かに頷いた。
「命に代えても、お守りします」
その言葉に、ヴァルドは一瞬、言葉を失ったが、やがて深く頷いた。
「……頼む」
会議終了後。
回廊を歩くふたり。
沈黙が続く中、雫月がぽつりと呟いた。
「……星華」
「はい」
「……誘拐されるって……どんな気持ちで、耐えるんだろ……」
星華の足が止まる。
彼はゆっくりと雫月を振り返った。
「……耐えてほしくないんです」
「……え?」
「……あなたに、そんな思いをさせる時間そのものを、与えたくない」
星華は雫月の両手を真っ直ぐに握った。
「どんな形でも……あなたを連れ去ろうとするなら――俺は、その場ですべてを壊します」
その声には、微塵の迷いもなかった。
雫月は、静かに頷いた。
(……信じる……)
「……うん。私、信じるよ……星華」
二人の影が、回廊の窓際に並ぶ。
外の光は穏やかだが、内側では、運命が確実に動き出していた。




