第23話 忍び寄る影、揺らぐ静寂 ― 後半 ―
回廊で抱き合ったまま、ふたりはしばらく言葉を失っていた。
庭園の噴水が水音を立て、花々が風にそよぐだけの穏やかな昼下がり。
星華の腕の中にいる雫月は、その温もりを確かめるように、彼の背にそっと指を回した。
(……今は、ちゃんとここにいる)
それを確かめるだけで、胸のざわめきが少しだけ落ち着く。
やがて星華が、雫月の髪に頬を寄せたまま、静かに言った。
「……今日は、このまま庭を回りましょう。
警戒は俺がしますから」
「……うん」
ふたりは再び並んで歩き出した。
薔薇のアーチを抜け、白百合の小径を通り、噴水の周囲をゆっくり巡る。
見慣れた庭だが、今日はどこか違って見えた。
雫月の視線は自然と周囲に散り、人影の有無、枝葉の揺れ、壁の影――
これまで意識したことのない“警戒の目”が芽生え始めているのを感じる。
(……星華は、いつもこんな風に世界を見てたんだ)
気づけば、胸が少し締めつけられた。
「星華……」
「はい」
「……ずっと、こうやって周りを警戒しながら、生きてきたの?」
星華の足が、わずかに止まる。
「……ええ。誰かを守るとか以前に、“狙われないために警戒する”だけの人生でした」
「……寂しくなかった?」
その問いは、雫月自身が思った以上に、震えていた。
星華は、視線を前へ向けたまま、しばし沈黙し――やがて言った。
「……寂しいという感覚を、知らなかったんです」
「え……」
「感じないようにしていた、の方が正しいかもしれません。寂しいと気づいた瞬間に、人は、誰かを必要としてしまう」
雫月の胸が鳴る。
「……でも、今は?」
星華はゆっくりと視線を落とし、雫月を見つめた。
「……今は、あなたがいない時間が、寂しいと、はっきり分かります」
雫月の呼吸が止まる。
それは、戦場での宣言よりも、どんな危険な告白よりも、ずっと胸に刺さる言葉だった。
「……星華……」
「ですが、それでいいと思っています。寂しさを知ったからこそ、守りたい理由が、明確になった」
星華は小さく微笑んだ。
「……弱くなったと夜叉は言っていましたが……俺は、これを“強さ”だと思いたい」
雫月の目が、じんわりと潤む。
「……それ、すごく……星華らしい……」
「そうでしょうか」
「うん。……優しい強さ」
雫月は小さく笑い、そして――思い切って言った。
「……やっぱり、怖い」
星華は驚いたように目を瞬かせた。
「……何が?」
「敵のことも、これからのことも……星華が狙われることも、私が狙われることも……」
雫月は、ぎゅっと手を握り込む。
「……全部、こわい。でも」
顔を上げ、まっすぐ星華を見る。
「……ひとりで怖がるより、星華と一緒なら……まだ、ちゃんと立てる気がする」
星華は、思わず目を細めた。
「……雫月……」
「……守られてるだけじゃなくて、一緒に立ってたい」
星華は、しばらく黙って雫月を見つめ――
ゆっくりと、深く頷いた。
「……分かりました」
そして、そっと言葉を重ねる。
「それなら……これからは、“守られる人”ではなく、“共に立つ人”として――俺のそばにいてください」
雫月の胸に、熱いものが込み上げた。
「……うん」
雫月は、星華の胸に額を寄せた。
「……一緒に、立つ」
ふたりの影が、足元で重なる。
その夜。
王宮は、いつもより早く灯りが落とされ、警備がひそかに強化されていた。
星華は回廊の要所を確認し、配置された騎士たちに目配せをして歩く。
(……警戒は万全。だが――)
敵は“正面から来ない”。
(……夜叉が動くとすれば、必ず奇襲か、攪乱だ)
星華は足を止め、高窓から外を見上げた。
月は雲に半分隠れ、不気味なほど暗い夜だ。
(……雫月の部屋周辺……問題なし)
だが――
胸の奥が、嫌な予感でざわつく。
「……」
星華は踵を返し、雫月の部屋へと急ぐ。
一方、雫月は自室で、昼の会話を思い返しながら、窓辺に立っていた。
(……“共に立つ人”……か)
星華がそう言った声が、耳に残って離れない。
(……守られるだけじゃない。私も、星華の隣に立つ……)
そう考えるだけで、少しだけ、身体に力が戻ってくる気がした。
その時。
窓の外――
庭園の木立の奥、闇の中で――
何かが、動いた。
雫月は、息を呑む。
(……え……?)
月明かりが雲から顔を出し、わずかに、外を照らした、その瞬間――
黒い外套の裾と、濁った赤い片目が、闇の中に確かに浮かび上がった。
「……っ……!」
雫月は思わず一歩後ずさる。
視線が合った――気がした。
だが、次の瞬間、影は再び闇へと溶けるように消えた。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
「……今の……」
心臓が、うるさく鳴る。
幻――?
見間違い――?
いや、違う。
(……誰か、いた……)
雫月は窓から離れ、震える手でカーテンを閉める。
(……星華……)
その名を呼ぼうと口を開いた瞬間、扉の向こうから、聞き慣れた足音が駆けてきた。
「――雫月!」
勢いよく開いた扉の向こうに、星華が立っている。
「星華……!」
「無事ですか!」
雫月は力いっぱい頷く。
「……窓の外に……誰か……いた……」
星華の表情が、瞬時に凍りついた。
彼はすぐさま窓枠を検め、指先で空気をなぞる。
「……やはり……」
「……何?」
星華は唇を噛む。
「……黒影術式の残滓です」
「……夜叉……?」
「ええ。斥候が……あなたの存在を“視認”しました」
雫月の血の気が引く。
「……じゃあ……」
「……次からは、“様子見”では終わらない」
星華は真っ直ぐ雫月に向き直り、その手を強く握った。
「……必ず、俺が守ります」
「……星華……」
「ですが――」
星華の声が、ほんのわずか震えた。
「もう……敵は、あなたを“標的”として認識しています」
重い沈黙が、部屋を満たす。
雫月は、星華の手を強く握り返した。
「……それでも……そばに、いて」
星華は深く頷いた。
「もちろんです。これから先、一瞬たりとも……離れません」
ふたりの影が、月明かりの差し込む床の上で、ぴったりと寄り添った。
――こうして。
穏やかな日常は、完全に終わりを告げた。
敵は、雫月を視界に捉え、星華を取り戻す計画を、ついに動かし始めたのだった。




