第23話 忍び寄る影、揺らぐ静寂 ― 前半 ―
王宮の朝は、いつも通り穏やかに始まっていた。
白い石畳を撫でるように朝霧が流れ、回廊の窓越しには、透きとおる青空が広がっている。
小鳥のさえずりだけが、まだ目覚め切らない城内を優しく満たしていた。
雫月は自室の鏡台の前に座り、侍女に髪を結ってもらいながら窓を眺めていた。
(最近、朝が静かだな……)
かつて絶えずあった緊張感は、ここしばらく感じられない。
戦いは遠ざかり、夜叉の名も、配下の姿も表に現れなくなった。
だが――
胸の奥にかすかな違和感が残る。
(なにも起きないのって……ほんとうに、“平和”なのかな……)
鏡に映る自分の表情は、笑顔のはずなのに、どこか不安を宿していた。
「雫月様、結い終わりました」
「ありがとう」
侍女に礼を言い、廊下へと出る。
いつもなら、そこに星華がいる。
だが、今日の朝はまだ姿がなかった。
(……遅いな……)
雫月は自然と足を止め、腕時計代わりに胸元の小さな懐中時計を確認する。
約束の時間は、とうに過ぎている。
「何か……あったのかな……」
小声で呟くと、ちょうど角を曲がった先から、星華が足早に現れた。
「雫月!」
その声の張りつめ方に、雫月は思わず目を見開く。
「星華……?どうしたの、そんなに慌てて……」
星華はすぐに歩調を緩めたが、その表情から緊張が完全に消えることはなかった。
「……いえ。少し、騎士団から呼ばれていただけで」
「呼ばれて?」
「ええ」
それ以上は語らない。
だが星華の視線は、周囲の回廊、窓、天井の梁へと、
無意識に泳いでいる。
(……警戒、してる)
雫月ははっきりとそう感じ取った。
「星華……また、何かあった?」
星華の歩みが止まり、短い沈黙が流れる。
「……たいしたことではありません」
そう言い切るには、声が固すぎた。
雫月は静かに歩み寄り、星華の手袋をはめた手に、そっと触れる。
「私、分かるよ。星華が……本当に“大丈夫”な時の顔くらい」
星華は小さく息を呑んだ。
「……心配させたくないだけです」
「でも、一人で背負わないって約束した」
雫月の視線はまっすぐだった。
星華はしばらく言葉に詰まり、やがて静かに口を開いた。
「……斥候が、確認されました」
「……!」
雫月の胸が、ひやりと冷える。
「……敵、なの?」
「ええ。夜叉の配下です」
雫月はごくりと息を呑んだ。
「じゃあ……」
「今のところ、接触はありません。王宮の結界も通常通り作動しています。ただ――」
星華の視線が、回廊の窓へと向かう。
「……様子見です」
「様子……見……」
「雫月と、王宮の防備、そして俺自身の動き――それらを観測している段階です」
その言葉に、雫月は知らず指先をぎゅっと握りしめた。
(……また、始まる……)
しかし、星華はすぐに優しく声を落とす。
「ですが、心配はいりません。まだ“攻め”の段階ではない」
「……でも、いずれ……」
「ええ」
星華は、はっきりと頷いた。
「いずれ必ず、来ます」
その断言は、恐ろしいほど静かで、しかし揺るぎなかった。
二人はそのまま、庭園への回廊を歩き出した。
春の花々が咲き誇る庭は、相変わらず穏やかで、まるで王宮を包む不安など微塵も知らないかのようだ。
「星華……敵は、何を狙っているの?」
雫月が問う。
星華は一瞬、答えを選ぶように歩みを緩めた。
「……二つです」
「二つ?」
「ひとつは――“俺の記憶”。戦闘術、暗号網、帝国の内部構造――夜死として叩き込まれた技術や情報が、完全には消えていない可能性がある」
「……」
「もうひとつは――」
星華は、雫月をまっすぐ見つめた。
「雫月。あなたです」
胸が強く締めつけられた。
「……私?」
「雫月が、人質として、あるいは交渉材料として最も有用だからです」
雫月は立ち止まり、思わず口元に手を当てた。
「……でも……」
「分かっています」
星華は、雫月の手をそっと包む。
「……だから、絶対に近づけません」
その声音は、かつての暗殺者の冷徹さとはまるで違う。
(……星華……)
雫月の胸に、温かさと不安がいっしょにこみあげる。
「……星華、怖くないの?」
星華は迷わず答えた。
「怖いです」
「……!」
「あなたを失うことが、この世で、いちばん怖い」
その言葉は、静かで、けれど確かに“本音”だった。
雫月は、思わず一歩踏み出し、星華の胸に手を置く。
「……私も、怖い」
「……」
「星華が傷つくのも、奪われるのも……全部、いや」
星華は、そっと雫月を抱きしめた。
回廊には誰もいない。
遠くの噴水の音だけが、微かに聞こえる。
「……大丈夫です」
星華の声が、低く穏やかに響く。
「雫月を守る覚悟は、とうにできています」
だが――
星華は、誰にも悟られぬよう抱きしめながら空を仰いだ。
(……敵は“様子見”をしている。だが――本気で動く時は、雫月が“守られている布陣ごと”破りに来る)
影は、すでに王宮の近くまで忍び寄っている。
穏やかな日常は、再び、かすかな 揺らぎ を帯び始めていた。




