第22話 静かに動き出す記憶 ― 後半 ―
図書塔の高窓から差し込む午後の光は、少し傾きはじめていた。
埃を含んだ光の柱の中で、ページをめくる音だけが静かに響く。
星華と雫月は、向かい合って長机に座り、積み上げられた古文書を一冊ずつ確認していた。
星華は黙々と文字を追い、雫月はその隣で、時折ページを覗き込みながら同じ行を指でなぞる。
(こんな時間……本当に、不思議……)
思い返せば、星華と二人きりで、ただ静かに本を読んで過ごすなど、少し前までは考えられなかった。
雫月はいつも護られる側で、星華は影のように立っているだけの存在だったはずなのに。
今は、同じ机に並び、肩が触れ合うほど近くにいる。
「……見つかりましたか?」
星華が小さく問うと、雫月は首を横に振った。
「ううん。ここにあるのは、帝国の部隊の組織構成ばっかり。“夜死”の個人記録は……さっきの文が、ほとんど全部みたい」
「そうですか……」
星華は少しだけ息を吐いた。
その吐息には、安堵と、かすかな落胆の両方が混じっていた。
「……もしかしたら、“何も書かれていない”という事実が、俺の過去のすべてなのかもしれません」
雫月ははっとして星華を見た。
「そんなこと……」
「否定しなくて大丈夫です。期待していたわけではないんですから」
じっと本を見つめたまま、星華は低く続けた。
「生まれも、家族も、名前も……帝国に拾われるまでの“俺”は、どこにも存在しなかった。あるのは、“夜死”という役割だけだった」
雫月の胸が締めつけられる。
「……つらく、ない?」
星華は、ほんの一瞬だけ言葉を探すように沈黙した。
「……以前なら、つらいという感情自体、分からなかったと思います」
そこで星華は初めて雫月の方を見た。
「ですが……今は……少しだけ……寂しい、とは思います」
その告白は、あまりにも静かで、あまりにも星華らしい“弱さ”だった。
雫月は無意識のうちに立ち上がり、星華の隣に移動する。
そして、そっとその手を両手で包み込んだ。
「星華……」
「……」
「過去に何もなくても、これからは……私と一緒に作ればいい」
星華の手が、わずかに震えた。
「……作る、ですか」
「うん。ふたりで過ごす時間、全部。今日のことも、街歩きしたことも、一緒にお茶飲んだことも……」
雫月は微笑み、星華の手を胸に引き寄せた。
「全部、星華の“記憶”になるんだよ」
星華は、その言葉を噛み締めるように、しばらく黙り込んでいた。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……あなたと過ごす時間が、俺の人生そのものになる……」
雫月は、こくりと頷いた。
「うん。それで、いい」
星華は目を伏せ、静かに笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます。雫月」
その声は、いつもよりも柔らかく、熱を帯びていた。
調べ物を終え、ふたりは図書塔を出て、隣接する回廊へと向かった。
外はすでに雨が上がり、雲の隙間から淡い夕陽が差し込んで、庭園の濡れた草を照らしている。
「……雨、止んだね」
「ええ。歩くには、ちょうど良い頃合いです」
二人並んで歩き出す。
石の回廊には人影もなく、足音だけが静かに響いた。
雫月はふと、星華の横顔を見上げる。
(……表情、少し軽くなった……?)
「……過去、怖くなかった?」
「正直に言えば……怖さはありました」
星華は、はっきりと答えた。
「ですが……あなたが手を握ってくれた瞬間、その怖さは……弱まりました」
雫月の胸が、ぎゅっと鳴る。
「それ……私のおかげ?」
「ええ。雫月のおかげです」
雫月は足を止めた。
「星華、ちゃんと……誰かを頼るようになったんだね」
星華も立ち止まり、少し照れたように視線を逸らす。
「……あなたには、隠せないだけかもしれません」
雫月は星華の前に立ち、いたずらっぽく微笑んだ。
「それ、かなり進歩だよ」
「……光栄です」
くすりと、星華が笑った。
その笑顔を見て、雫月は改めて確信する。
(……星華は、もう“影”じゃない)
他人の命令だけに従う存在でも、ひとりで生きる孤独な暗殺者でもない。
雫月と一緒に未来を歩く、一人の人間になっている。
回廊のベンチに並んで腰掛け、ふたりはしばし無言で夕空を眺めた。
鳥が帰巣する羽音が、遠くに聞こえる。
「星華」
「はい」
雫月は、迷いながらも言葉を継いだ。
「記憶……これからも、少しずつ探していこう。だけど……思い出せなくても、責めなくていい」
星華は頷いた。
「……分かっています」
そして、ぽつりと続ける。
「思い出せない過去より、あなたと生きる“今”の方が……俺には、ずっと大切です」
雫月の頬が自然と赤くなる。
「……星華、ずるい。そんなこと言われたら……」
「本心ですから」
雫月は思わず星華の袖を握った。
「……離れないでね」
星華は、その手を優しく包み込む。
「ええ。雫月のそばを離れる理由など、ありません」
夕陽の光の中、ふたりの影がベンチの足元に並んで落ちる。
かつては“孤独な影”だった星華の影は、今では雫月の影と寄り添い、決して離れることなく重なっていた。
静かな日常の中で、星華の“記憶”は、確かに動き出していた。




