第22話 静かに動き出す記憶 ― 前半 ー
王宮の朝は、今日も穏やかに始まった。
高い窓から差し込む光が床の大理石に反射し、ほんのりと暖かい輝きが広がる。
雫月は寝台から起き上がり、カーテンを引く。
淡い風が頬を撫で、鳥のさえずりが聞こえてきた。
(……星華、昨日はよく眠れたかな)
そんな不安と期待の混じった思いを抱きながら、
雫月は扉へ向かった。
ノックする前に──
扉が静かに開いた。
「おはようございます、雫月」
「……星華!」
いつも通りの丁寧な声。
しかし雫月の目には、星華の表情が昨日より少し柔らかく見えた。
雫月は思わず小さく笑ってしまう。
「今日も……迎えに来てくれたんだね」
「当然です。雫月を一人にする理由はありませんから」
(……そうだよね)
そう言われると胸が熱くなる。
ふたりは並んで朝食室へ向かった。
廊下の角を曲がるたび、星華は必ず雫月を少し前へ誘導する。
「……星華、過保護すぎ」
「雫月が大切ですから」
「…………」
(昨日から……急に“好き”って言われ続けてる気がする……!こっちの心臓がもたないんだけど……)
雫月は顔を隠すようにショールを握った。
星華は気づいているのかいないのか、いつもと変わらぬ冷静な表情で歩いている。
そんなやり取りのあと、朝食を済ませたふたりは王宮内の庭園へ出た。
今日は雫月が午前の公務を外してもらい、ゆっくり過ごすことが許されていた。
白い花が咲き誇る中、雫月は星華の隣を歩きながら小さく息を吸う。
「ねえ星華……今日はどこか行きたいところある?」
「俺ですか?」
「うん」
星華は少し考え、穏やかな声で答えた。
「……図書塔へ行きたいです」
「図書塔? 本を読むの?」
「いえ。昨日……ヴァルド団長から、“過去の記録を調べてみてはどうか”と提案がありました」
「……星華の、記憶……?」
雫月は思わず足を止める。
星華は優しく頷いた。
「無理に思い出す気はありません。でも……守るべきものができた今、自分が何者だったのかくらいは知っておきたいと思いまして」
雫月の胸に、不安と嬉しさが同時に湧いた。
(星華が……自分の過去を探そうとしている……怖くないのかな……)
けれど雫月は、星華の決意を否定したくなかった。
「……一緒に行っても、いい?」
「もちろんです。雫月がそばにいてくだされば、心強い」
(……また、そういうこと言う……)
顔が熱くなるのを隠しながら、雫月は星華とともに庭園を抜け、図書塔へ向かった。
図書塔は王宮の中でも最も静かな場所だった。
高い天井に響くのは、紙の擦れる音と、遠くの柱時計の音だけ。
雫月と星華は司書に案内され、古い記録巻を調べる部屋へ入る。
そこには、王国と周辺国の歴史記録、事件記録、人物録などが整然と並んでいた。
「星華……自分の名前、調べるの?」
「まずは……“夜死”の名で検索してみます」
「……どきどきするね」
「はい……すこし」
星華は素直に言った。
それは星華が今まで決して見せなかった弱さであり、
雫月はその変化を胸いっぱいに受け止めた。
司書が古い冊子を運んでくる。
星華は慎重にそれを開き、記録を追っていく。
雫月も隣でページを覗き込む。
(ドキドキする……星華の過去が……ここに書かれているのかもしれない……)
星華の指が、ある文字の上で止まった。
「……雫月」
「なにか……書いてあったの?」
星華は静かに読み上げた。
「“夜死――帝国暗殺部隊・黒羽の中でも、特に異質な存在。出生、両親ともに記録なし。帝国側でも“拾われた子”として分類されている。”」
雫月は息を飲む。
(……星華……)
星華は表情こそ変わらないが、握る紙の端に力が入っていた。
「……俺が……どこで生まれたのか、誰の子なのか……
書かれていません」
「……じゃあ……星華は……ずっと、ひとりで……」
雫月の胸が痛くなる。
星華は寂しげな声ではなく、淡々と受け止めるような声で言った。
「……ですが、今は雫月がいるので」
「……っ」
雫月は星華の手を握った。
「じゃあ……これからは、ひとりじゃないよ」
星華は驚いたように目を瞬かせ、ふわりと微笑んだ。
「はい。あなたのおかげです」
雫月は胸がきゅっと締めつけられた。
その後もしばらく、ふたりは一緒に古い資料を読み進めた。
戦闘ではない、ただ並んで文字を追うだけの時間。
でもそれが、どこか胸に沁みるほど“日常”だった。
雫月は思う。
(星華が過去を知ることは、怖い……けれど……星華が望むなら、支えてあげたい)
この静かな図書塔の時間は、ふたりの新しい一歩になる予感がしていた。




