第21話 小さな街の休日 ― 前半 ―
王宮の朝は、久しぶりに静かな光に満ちていた。
夜叉との激闘から数日が経ち、張り詰めていた空気は薄れ、廊下を渡る風の音すら穏やかに感じられる。
雫月は自室の窓を開け、朝の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
まだ少し冷たい風が頬を撫でるが、それさえ心地よかった。
「……今日は、平和……かな」
小さく呟くと、背後から聞き慣れた足音。
「少なくとも、今は」
振り向くと、そこに星華が立っていた。
黒の外套を羽織り、いつもと変わらぬ凛とした佇まいだが、雫月にはわずかに遠慮が混じった雰囲気が伝わってくる。
「おはよう、星華」
「おはようございます、雫月」
互いの名前を呼び合うだけで、胸の奥がふっと温かくなる。
以前は“殿下”“執事”という立場に縛られていた距離も、いまは自然に近づいているのを、雫月ははっきりと感じていた。
「ねえ……今日は、街に行きたいな」
雫月の言葉に、星華は一瞬考えるように目を伏せる。
「警備の関係上、同行者は必要ですが……」
「……星華だけがいい」
少しだけ強引な願い。だが、星華は反論せず、小さく頷いた。
「承知しました。今日一日は、俺がすべて責任を持ちます」
雫月はほっとしたように微笑む。
「ありがとう」
簡単な身支度を済ませ、ふたりは王宮の裏門から外へ出た。雫月は淡い白のワンピースに、淡青のショール。
星華は深緑の上着に黒手袋という、控えめながらどこか洗練された装いだった。
人混みの中に紛れれば、皇女と執事と見抜ける者はほとんどいないだろう。
城下町への通りを歩く中、雫月は自然と星華の隣に寄った。
「……なんだか、普通の散歩みたい」
「俺にとっては、充分特別な時間ですが」
「ふふ、星華は大げさ」
「いいえ。雫月と過ごす時間は、ひとつひとつが特別です」
あまりにも真っ直ぐな物言いに、雫月の頬が微かに熱を帯びる。
(星華……たまに、平気で恥ずかしいこと言うんだから……)
城下町に入ると、賑やかな音と匂いが二人を包んだ。
焼き菓子の甘い香ばしさ、焼き魚の煙、人々の呼び声。
まるで色と音と匂いが混ざり合って踊っているかのようだ。
「わあ……やっぱり街、好き」
雫月は目を輝かせて周囲を見回す。
「雫月が楽しそうだと、こちらまで楽しくなります」
「過保護」
「雫月限定で、です」
何の迷いもなく言い切る星華に、雫月は言い返す言葉を失い、ただ苦笑した。
最初に立ち寄ったのは、小さな菓子屋だった。
木棚に並んだ色とりどりのクッキーの中に、星の形をしたものが目に留まる。
「これ……可愛い」
「星型……ですね」
「星華みたい」
「……それはどういう意味でしょうか」
「形が、だよ?」
「納得はできませんが……」
雫月は二袋購入し、そのうち一袋を星華に差し出した。
「半分こ」
「……ありがとうございます」
店先のベンチに腰掛け、包みを開いてかじる。
「おいしい……」
「ええ。甘すぎず、上品です」
「星華も甘いよ」
「……何か、評価をされている気がします」
「ほら、照れてる」
「照れてはいません」
だが、耳元がほんのり赤いのを雫月は見逃さなかった。
次に入ったのは小さな雑貨屋。
刺繍入りのハンカチや、ガラス玉のアクセサリー、精巧な木彫りの人形などが並んでいる。
「星華、どれが好き?」
「好き、というより……雫月に似合いそうな物が気になります」
「じゃあ、星華の好きな物を探そう」
「……俺のですか?」
星華は少し戸惑い、棚を見渡した。
「欲しい物と言われても……」
「ほら、正直に」
「……では」
星華は、真剣な表情で答えた。
「雫月の隣に、こうして立っていられる時間でしょうか」
雫月は思わず立ち止まる。
「……それ、買えないね」
「ええ。だから、毎日大切にしています」
あまりに真っ直ぐな想いに、胸の奥が締めつけられる。
「……もう……星華って……」
言葉が続かず、雫月は星華の袖をそっと掴んだ。
星華は驚かず、ただ優しくその手を包み込む。
「手……離れませんか?」
「……このままで」
人混みの中、指を絡めるほどではないが、手と手が確かに重なったまま歩く。
王宮では決して許されない距離。
だが今は、街の喧騒が二人を溶け込ませてくれている。
ふと、雫月は胸の奥が満たされるのを感じた。
(こんな普通の時間を、星華と過ごせる……それだけで……)
視線を横にやると、星華もまた雫月を見つめていた。
言葉はない。
だが、想いは十分すぎるほど伝わっていた。
ゆっくりと歩きながら、二人は笑い合う。
誰にも邪魔されない、穏やかな休日の始まり――。




