第2話 執事としての第一歩 ― 前半 ―
星華が王宮での暮らしに慣れてきた頃、王宮では春を祝う式典――「花影の祝祭」の準備が進んでいた。
王族が神殿へ花を捧げる儀式、街での行進、市民への挨拶……多くの公務が重なる時期でもある。
その中心に立つのは、もちろん雫月だった。
「今日の公務、星華も一緒に来てほしいの」
朝の光が差し込む雫月の部屋で、柔らかなドレスに着替えた雫月が星華を振り返る。
星華はまだ身体が完全ではないが、簡単な動きなら問題ないほどには回復していた。
今日は雫月の執事として初めて正式に公務に同行する日だ。
「……俺が一緒に行ってもいいのでしょうか」
「もちろんよ。だって星華は私の執事なんだから!」
雫月は胸を張る。
その様子がおかしくて、星華は思わず小さく笑った。
「……ありがとうございます。光栄です」
「えへへ。そう言われると嬉しいわ」
雫月は照れたように頬を赤くしながら、星華に手を差し出した。
「じゃあ、行きましょう」
星華はその手をそっと取る。
まだ少し冷たいけれど、しっかりとした握力を返してくれる雫月の手。
(……この手を守りたい)
そんな気持ちが胸の奥で芽生え、星華は静かに頷いた。
王宮の大廊下。
赤い絨毯が真っ直ぐに伸び、天井には美しいステンドグラスが輝く。
侍女や老執事たちが忙しく行き来する中、雫月と星華はゆっくり歩いていく。
「殿下、本日のご予定は……」
老執事のライネルが恭しく頭を下げる。
「午前は神殿への献花、その後は王都東広場での街頭挨拶……午後は――」
ライネルの声を聞きながら、雫月は少しだけ緊張した面持ちで星華を見上げた。
「星華、ちゃんとついてきてね。迷子になったら困るわ」
「迷子にはなりませんよ。雫月様を置いて行くつもりはありません」
「ふふ……それなら安心ね」
雫月の頬に、星華の言葉が触れて少女の緊張が和らいでいく。
だが――その光景を、少し離れた場所から鋭い目で見つめている者もいた。
(あの少年……やはり怪しい)
軍務官の一人が眉をひそめていた。
星華の正体が分からない以上、王宮内ではまだ警戒心を持つ者も多い。
「殿下、くれぐれもお気をつけください」
「ありがとう。でも星華がいるもの」
雫月が微笑むと、軍務官は苦々しくも黙るしかなかった。
神殿への献花の儀式は滞りなく進んだ。
大理石の床に反響する足音、祈りの鐘の音、聖女の朗々とした声――
荘厳な空気が満ちていた。
星華は少し緊張しながらも、雫月の後ろにつき従っていた。
(……こんな世界があったなんて)
神聖な空気に触れながら、星華は自分の中にある“空白”を再び意識する。
記憶がないという事実は変わらない。
だが、雫月のそばにいることは、不安を和らげてくれる。
献花が終わり、神殿を出ると、雫月が息をついた。
「ちょっと緊張したわ……」
「素晴らしい立ち居振る舞いでしたよ」
「星華が見てると思ったら、ちょっと頑張っちゃったの!」
「……俺のためにですか?」
「そうよ?」
何気ない一言。しかし星華の心臓は跳ね上がる。
「雫月様……」
雫月はくすっと笑い、星華の胸の中に温かさが広がる。
王都東広場には、すでに多くの市民が集まっていた。
春の祭りの飾りつけで彩られた街並みは鮮やかで、どこか懐かしい香りが漂っている。
「わぁ……今日もたくさん来てる」
雫月の表情は緊張と期待で輝いていた。
星華はその横で、ただ一心に彼女を守ることだけを考えていた。
「殿下がお立ちになる台まで、私がご案内します」
「ありがとう、星華」
二人が広場の中央へ向かうと、子供たちが雫月に向かって手を振る。
「雫月さまー!」
「殿下、今日もかわいいー!」
雫月は照れながらも笑顔で手を振る。
星華はその横顔を見つめるたび、不思議なほど胸が温かくなる。
「星華!」
「はい?」
「ほら、あそこ、私を助けてくれた女の子たちなの。挨拶してくるわね!」
雫月は小走りで子供たちのもとへ向かっていく。
星華は慌ててその背を追いかける。
「雫月様、走ると危険です!」
「大丈夫よー!」
子供たちに囲まれた雫月は、まるで同じ年頃の少女のように笑っていた。
その姿を見て、星華は思う。
(……こんな笑顔を、守れるだろうか)
自分は誰なのか、本当に守る資格があるのか。
恐れと希望が混じる中、広場に突然強い風が吹いた。
その瞬間――星華は確かに感じた。
背後から近づく異質な気配。
(――これは……)
次の瞬間、星華は反射的に雫月の腕を掴んで引き寄せた。
「雫月様、下がって!」
「えっ――きゃっ!」
雫月のいる場所のすぐ手前に、鋭い光が閃いた。
金属片のようなものが地面に突き刺さり、石畳が砕ける。
「な、なに……!? いまの……!」
周囲の市民が悲鳴を上げ、兵士たちが一斉に駆け寄る。
星華は雫月を庇いながら、周囲に視線を走らせた。
遠くの屋根の上で、小さな影が動く。
(……刺客……!?)
胸の奥で、痛みとともに黒い記憶の破片がよみがえる。
刃の光、殺意、暗闇で聞いた命令の声――
(俺は……何を……)
「星華、こわい……!」
雫月が星華の腕にしがみつく。
星華は迷いを振り払うように、彼女を強く抱き寄せた。
「雫月様、俺のそばを離れないでください!」
「う、うん……!」
兵士たちが雫月を囲み、広場は一瞬にして混乱に包まれた。
屋根の上の影は、星華と目が合った瞬間、煙玉を投げて姿を消した。
「逃げた……。でも、あの動き……どこかで……」
星華は震える拳を握りしめた。
(――俺は、あれと同じ世界にいた……?)
雫月が怯えた声で言う。
「星華……いまの、誰なの?」
「……わかりません。でも……」
星華は雫月を見つめ、静かに言った。
「雫月様を、二度と傷つけません。俺が必ず守ります」
雫月はその言葉に安心したように星華の胸に顔を寄せる。
しかし、星華の心には深い影が落ちていた。
(俺は……守る側なのか。それとも――)
自分が“敵”だった可能性を否定できない。
記憶がないことは、星華にとって最大の不安だった。
だが、雫月の震える手を握った瞬間、その迷いは薄れていく。
(この人だけは、守らなければ)
そう思う理由はわからない。
けれど、心が強くそう叫んでいた。
王宮へ急ぎ戻る中、雫月は星華の袖を掴んだ。
「星華……もう離れないでね?」
「はい。たとえ何があっても」
星華はその言葉とともに、雫月の手を包み込む。
――その瞬間、星華の胸の奥で、忘れられた過去の扉が微かに軋む音がした。
彼の過去が、雫月の未来に影を落とそうとしていた。




