第19話 影の断罪、揺れる心 ― 後半 ―
夜叉は胸元を押さえながら、星華の姿をまっすぐ睨みつけていた。
その瞳には、理解できないものを見るような歪んだ感情が宿っている。
「……夜死。いや、“星華”と呼ぶべきか」
「どちらでもいい。俺は雫月を守るだけです」
「守る……?女一人のために……?そんなもののために……俺を超えるつもりか?」
星華は迷わず頷いた。
「“雫月だから”です」
夜叉の口がわずかに歪んだ。
「理解できんな」
「理解しなくていい。ただ──」
星華は雫月の部屋の扉に背を預けるように立ち、その前から一歩も退かなかった。
「ここを通すつもりも、雫月に指一本触れさせる気もありません」
「……!」
夜叉の眉がぴくりと動く。
「夜死……本当に……変わったな……」
その声には、怒りとも困惑ともつかない混じった色があった。
「ならば……全力でいこうか」
夜叉の足元の影が爆ぜた。
その瞬間──
廊下全体が“暗転”した。
「……っ!」
星華は息を呑む。
影による闇ではない。
これは“術”だ。
影と光の境界を曖昧にし、相手の視界と位置感覚を狂わせる夜叉の奥義──“影乱”。
(……視界が揺れて……!動きが読めない……!)
星華の足下から、十、二十、無数の影の刃が伸びる。
「夜死。俺はお前を殺すつもりはない。皇女の前に連れていき、その目の前で──」
「黙れッ!!」
星華の叫びが闇を裂いた。
同時に、影の刃が星華の頬を浅く切る。
「……っ……!」
初めての傷。
頬から流れる赤い血。
夜叉は残酷に笑う。
「迷いがあるから傷つくのだ。昔のお前なら、こんな攻撃は受けぬ」
「昔の俺は……雫月を知らなかった」
「だから弱くなった」
「違う!!」
星華の瞳が炎のように燃え上がる。
「雫月がいるから……俺は立てるんだ!!」
瞬間──
影の闇を切り裂くように星華の身体が動いた。
その時だった。
扉の向こうから、震えた声が響いた。
「──星華!!」
雫月の声だ。
星華の胸が強く揺れる。
「雫月……!!」
「星華!!無事でいて……お願い……!!」
その声は涙に濡れ、必死で、心の底から星華を求めていた。
夜叉の影がわずかに揺れた。
「……今の声は……?」
「雫月です」
「……あの女……そんな声で……」
星華は雫月の声を背に受けて前へ踏み込んだ。
(雫月が……俺を呼んでくれた……)
(守らないと……絶対に……!)
星華の動きが一変する。
「……なるほど。雫月が……お前に力を与えている……?」
夜叉は気づいた。
「お前……あの女の声が聞こえてから、動きが変わった」
「当然です。雫月がいるから……俺は立てる」
「……理解できん……!」
夜叉が影を広げる。
影が床から舞い上がり、壁を伝い、天井から垂れ下がる。
影の嵐。
星華はその中心で、目を閉じた。
(動きを“読め”……夜叉の癖……影の動きは“胸”から始まる……)
(どの影よりも……夜叉の影が本体だ)
星華の瞳が開いた瞬間──
世界は静止したように見えた。
星華の足が床を蹴る。
次の瞬間、星華は夜叉の背後にいた。
「な──っ!?」
「読めました」
星華の拳が夜叉の背に叩き込まれる。
衝撃。
夜叉の影が一気に霧散した。
「……っ!!」
夜叉は膝をつき、苦悶の息を漏らす。
「夜死……どこで……その……“読み”を……」
「雫月が……くれたんです」
星華は静かに言った。
「俺が……人として戦う理由を」
夜叉は苦しげに星華を睨む。
「……夜死……本当に……変わったな……」
「ええ。あなたには理解されなくて構いません。雫月を守れるなら……俺は何でもできる」
「……夜死……お前は……」
夜叉はそこで言葉を止めた。
包帯の下に隠れた瞳が、わずかに震えたのを星華は見逃さなかった。
「……その“感情”……その弱さ……もし……俺達にあったら……」
夜叉の指がかすかに震える。
(夜叉……?)
その瞬間──
背後から物音がした。
「星華……!!」
雫月が、扉の隙間から顔を出していた。
「ダメだ雫月っ──!!」
星華が叫ぶより早く、雫月の瞳が大きく見開かれる。
「え……」
夜叉の影がゆっくりと伸び、雫月の足元へ向かっていくのが見えた。
「雫月ッ!!」
星華は自分でも驚く速度で駆け出した。
影が雫月に触れようとした瞬間──
星華はその前に飛び込み、雫月を抱きしめながら後方へ飛んだ。
影が空を切り裂く音が響く。
星華の背中に、影の刃がかすめた。
「っ……!」
「星華!!血が……!」
「大丈夫です……雫月……無事ですか……?」
「私は……大丈夫……!星華の方が……!!」
雫月の手が震えていた。
涙が今にも零れそうな瞳。
必死に星華を見つめるその姿。
星華は雫月を抱きしめたまま夜叉を睨みつけた。
「……夜叉。雫月に触れるなら……俺が相手です」
夜叉は影を引き戻し、ゆっくり立ち上がった。
その瞳は、どこか哀しみを帯びていた。
「……夜死。いや……星華。お前という存在は……」
夜叉は初めて、言葉を失っていた。
夜叉は影を静かに払った。
「今日は撤退する。皇女の力を……見誤った」
「雫月に近づくな」
「ふ……言われずとも。今は……お前の目がある」
夜叉の影は月光の中で揺れ、やがて完全に消えた。
静寂だけが残る。
星華はゆっくりと膝をつき、雫月の肩に額を寄せた。
「……雫月……本当に……無事で……よかった……」
「星華……怖かった……でも……星華が……守ってくれたから……」
雫月は星華の頬に触れ、涙をこぼした。
「もう……一人で戦わないで……お願い……」
星華はそっと雫月の髪を撫でた。
「離れません……もう二度と……あなたから」
雫月は星華の胸に顔を埋め、小さく震えながら呟いた。
「……星華……大好き……」
星華はその言葉に心ごと抱きしめられるような感覚に包まれた。
「……俺もです。雫月」
静かな夜が戻る。
だが、星華の瞳の奥では──
(夜叉……必ず……越えてみせる)
炎のような決意が静かに燃え続けていた。




