第19話 影の断罪、揺れる心 ― 前半 ―
夜の王宮に響く激しい衝撃音。
足下に広がる影の海。
星華と夜叉は、月光を浴びた廊下の中央で向かい合っていた。
夜叉の外套が揺れるたび、黒い影が生き物のように蠢く。
星華はその影を踏まないように距離を取り、雫月の部屋扉前に立ちはだかった。
(この影……“黒影術”か)
かつて帝国の暗殺者のみが使えた技。
夜叉の影を媒介にして攻撃範囲を増やす、凶悪な術式。
星華の記憶が脳裏をよぎる。
(使い方を教わったはずなのに……俺は覚えていない)
(……いい。覚えていなくても、雫月を守れるなら──)
星華は構えを新たにした。
「夜死。お前は、随分と変わったな」
夜叉の声は静かで、しかし底の方で笑っていた。
「かつてなら“守る”などと言うたびに、俺がお前を殴り、命令を叩き込んだというのに」
星華の拳が震える。
(……そんな記憶、いらない)
「……俺は星華です。夜死ではない」
「ほう。では聞こう。お前を拾った時、最初の任務を覚えているか?」
「……覚えていません」
「そうだろう。だがお前は……幼い頃から“殺すため”だけに育てられた」
夜叉は影を伸ばし、星華の足元へ這わせる。
「俺たちは“影”。感情など持ってはならない。だが──」
夜叉の目が、雫月の部屋へ向いた。
「お前はその掟を破った。皇女をかばい、計画を壊し、帝国を裏切った」
「裏切ったことを後悔したことは一度もありません」
「では今すぐ後悔させてやろう」
夜叉の影が一気に広がった。
影が床から隆起し、無数の刃のように変化して襲いかかる。
星華は扉の前から一歩も動かず、その影だけを正確に見続けた。
(影の速度……形状……癖……師匠である以上、見切れない相手じゃない……!)
影の刃が迫る。
「……っ!」
星華は最小限の体の動きで回避した。
右へ一歩。
肩を斜めに傾ける。
息すら乱さない。
彼は踊るように影の隙間を抜け、刃を一度も触れさせない。
「本能で動いているか……昔のままだな」
「昔の俺は、あなたに従っていただけです」
「従っていたから強かったのだ!今のお前は弱い!」
夜叉の声が飛ぶ。
「人を想えば“迷い”が生まれる。迷いは死を招く。──夜死、お前は雫月のせいで弱い!」
「違う!」
星華の声が廊下に響いた。
「雫月を守ることで……俺は強くなった!」
夜叉の顔が歪む。
「妄言だ」
星華は一瞬の隙を見逃さなかった。
影が収束する間──
星華の足が床を蹴った。
その速度は、夜叉の影すら追いきれない“空白”を作る。
「──っ!」
星華は夜叉の真正面に現れ、拳を胸元へ叩き込んだ。
夜叉はわずかに息を呑み、影で衝撃を分散させ後退した。
「夜死……いや、星華。お前……本気で俺を超えるつもりか?」
「あなたを超えないと……雫月を守れない」
「……女一人のために?」
「“雫月だから”です」
夜叉の影が一度止まる。
星華の瞳にははっきりとした熱が宿っていた。
「雫月が……俺を救ってくれた」
星華の声は震えていない。
「名前をくれた。生きる意味をくれた。俺を……“人間”にしてくれた」
夜叉が目を閉じた。
「……くだらぬ」
「あなたには分からないかもしれない。でも──俺は雫月を守れるなら、弱くてもいい」
「その弱さが……必ずお前を殺す」
「違う。弱さがあるから……守りたいと思える」
夜叉の表情が変わった。
怒りとも哀れみともつかない、複雑な歪み。
(弱さ……守りたい……?
夜死が……そんな言葉を?)
「変わったな……夜死……」
「星華です」
「ならば……星華として死ね!」
夜叉の影が再び動き出した。
雫月は扉のすぐ向こうで震えていた。
壁越しでも聞こえる。
星華の声。
夜叉の声。
衝撃音。
(戦ってる……星華……)
胸が締めつけられ、涙がこぼれそうになる。
(どうすればいいの……?星華を守りたいのに……扉を開けたら邪魔になる……)
「星華……お願い……無事で……!」
雫月は両手を胸の前で強く握りしめた。
(星華……あなたがいない世界なんて、嫌……)
雫月の祈りは、わずかに空気を震わせた。
その震えを、戦いの最中にも星華は感じ取っていた。
(雫月……!大丈夫、絶対に守る……)
「そろそろ終わらせようか……星華」
夜叉は影を一気に収束させ、自身の背後に巨大な“影の刃”を形成した。
「これは──!」
「黒羽式、影刃。影を刃として具現化する奥義だ」
刃は大剣に近い形をしていたが、実体があるのかも分からないほど歪み、黒い。
(これを……受け止められるのか……?)
「これで……皇女もろとも両断だ」
夜叉が踏み込む。
星華は、一歩も引かなかった。
(雫月……守る。絶対に守る……!)
星華の中で何かが弾けた。
視界が開ける。
夜叉の影の動きが、全て“遅く”見えた。
(……これ……)
かすかに、過去の声が蘇る。
──夜死。
影を“読む”のだ。
形ではなく、意図を。
(影の“意図”……動く前に“先の形”が分かる……?)
星華は足を踏みしめた。
狙いは、夜叉の影ではない。
(“影を操る本体”……!)
星華は夜叉の懐へ飛び込んだ。
「なに──っ!?」
「影刃なんて……本体が揺れたら崩れる!」
星華の拳が夜叉の胸元を撃ち抜くように叩き込まれた。
鈍い衝撃。
影の刃が砕け散り、廊下に霧散した。
夜叉は二歩後退し、口元を押さえながら星華を見る。
「……本当に……変わったな……」
「あなたの教えはもう必要ありません」
「ならば……!」
「俺は雫月を守るために、あなたを超える」
夜叉の表情に、ほんの一瞬だけ“焦り”が宿った。




